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2018-08-23

38日間周遊 〈1日目〉 北京

2018年6月30日、今まで行ってきた旅行の中でもっとも長い一人旅の実現となった。
その期間、38日間。実に中途半端な日数ではある。
今日この6月30日は、8年勤めてきた職場の在籍最終日だった。
5月の半ばからすでに有休消化に入っており出勤はすでにしていなかったが、籍があるうちはと思い、退職日から長期旅行に出発しようかと考えていた。
一生に何度もないだろうこの自由時間を使って、夢だった中国ぐるり旅をしてみたい。
ところがざっとルートを立ててみると、数カ月もの旅行になってしまいそうだった。
それはできないなと絞ってみるとなんとか40日間ほどまで縮んだ。
8月の上旬に日本に帰ってくることになるが、お盆までには帰るべきかなと改めてルートを絞り、結果38日間となったわけだった。

ルールはひとつ。
飛行機も高速鉄道も利用せず、寝台列車と長距離バスのみで移動すること。
親には「意味わかんない」と言われたが、こうしてゴトゴト移動してこそ、中国の広大さを体感できるというものだ。長年の夢だった。
そう言うと、「じゃあ歩いて中国一周すれば?」と冷ややかな一言が返ってきた。

ここでまた一つ問題があった。
ビザである。
中国は15日以内であればビザ不要で滞在することができる。
今まではビザが必要な旅行なんて夢だったから考えたこともなかったが、38日間であれば当然、ビザがいる。
ところが中国のビザ申請はなかなか厳しい模様。
観光であれば、30日ビザと90日ビザを選択することができる。
現在中国のビザは個人での申請を受け付けていないため、専門の代理店に依頼することになる。
さっそく問い合わせをしてみると、現在中国のビザ審査はとても厳しく、特に90日ビザとなると大変審査が厳しいため、申請を受け付けていない代理店もあるよう。
私が依頼した代理店も、審査が下りない可能性を承知の上で、という念押しがあった。

後日談:8月末に東京の中国ビザセンターを訪れたところ、現在90日観光Lビザの受付自体すでに一切行っていないとのこと。
5月より規定が変わったためで、今回40日ビザとして30日を超えるビザがおりたのは例外だったという話だった。

必要なものは以下の通り。
規定を守った証明写真
上記を貼り付けた申請書
日程表
理由書
現地人からの招聘状
招聘人の身分証コピー
往復の航空券
宿泊証明書

航空券が無駄になってしまわないように、これ以上できないという程念に念を入れて用意した。
日程表も理由書もかなり詳細に作成し、申請書の補足資料も作った。さらに宿泊証明書も全日程用意した。
こうして申請したのは6月の初め、先月のウルムチ旅行から帰国したあとのこと。
すると書類一式を大使館に提出したその日、代理店から連絡が。
「中国大使館より、一旦保留との連絡が入っております」
ひやひやしていると、その翌日。
「90日ではなく40日ビザでしたら発行できるとのことです」
40日だったら十分だ。
こうして念願の長期旅行実現となった。
もっと長い日程だったら、もしかしたらビザが下りていなかった可能性もある。

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ビザが無事おりて今回の長期旅行が決定した。
今回の旅行記は38日間の旅の記録である。
しかしここで旅が始まる前に、ひとつ記しておかなければならないことがある。

以前この旅行記上でも書いたとおり、天津の中国人男性との結婚を予定していたが、すべてを取り消すことになった。
それが決定的になったのは、4月の第一周目。
インターネットというのは難しいツールで、詳細を書かなければいけないが、書くべきではない、書けない状況もある。
一言で表せば、先方の人格は崩壊しているとしか思えず、身の安全のためにはこれ以外の選択肢はなかった、と書くしかない。
これは断じて、文化の違いだとかコミュニケーションの問題だとか、そういう話ではなく、それ以前に人としての問題だった。
結婚予定を伝えておきながら、このタイミングまでそれをこのブログ上に書くことができなかったのは、まだこの問題は解決しておらず、不安要素が多々あったからである。
さらに言えば未だ完全な解決をしておらず、先方の存在は私にとって恐怖以外のなにものでもない。
けれども今回の旅は私にとってひとつの区切りの旅であり、やはりここで記しておかなければならないと思った。

お祝いの言葉をくださった方々、激励してくださった方々、見守ってくださった方々には、たいへん申し訳ない気持ちでいっぱいです。
皆さまのお言葉は嬉しかったですし、そして私のひどく個人的な旅の記録をいつもご覧になってくださることにもとても感謝しています。
インターネット上には書くことができないことや、書き方を考えなければならないことがたくさんありますが、基本的には嘘になることは書かないという信条を持っています。
ですので、今後もどのようなことがあるかわかりませんが、一つひとつの旅行記に対して、自分なりにまじめで正直な姿勢を持ちながら、取り組んでいきたいと思っています。


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6月30日、無事38日間旅行の始まりを迎えた。
前日空港付近で遅くまで前夜祭をやり、飲みすぎというわけではないがスタートからよたよた。
今回は長期で移動も長いため、自分の荷物は極力コンパクトにまとめてきた。
いつもの最大サイズのキャリーバックではなく、一回り小さいサイズ。
というのは、でなければ寝台列車のベッド下に収まらないからだ。
さらに巨大な荷物があった。
巨大な荷物というのは中国友人の買い物である。
実は毎回あるのだけれど、今回はキャリーバックに分けて入れることができなかったため、巨大な段ボールを抱えて出発した。

北京空港に到着したのはお昼前で、ここから早速荷物を手放したいが、空港には郵便局しかない。
郵便局は個人的に嫌いだったしチェックが厳しいのでパス。
宅急便の順豊快逓を呼ぼうとサービスセンターに電話したが、自動音声が早くて何番を押せば繋がるのか聞き取れなかったため、空港スタッフに頼んでみたが、
「宅急便を呼ぶのは我々の業務ではない」と一言で終了。
もういいや、北京站で探せばいいやと空港バスに乗り込んだ。

北京站に到着して、荷物の送り先であるチャンイーが調べてくれた最寄りの順豊快逓へ向かった。
北京はタクシーのぼったくりがひどかったし、地図を見れば北京站からまっすぐ進んだところで近そうだったので、荷物を抱え抱え向かってみた。
ところがこれが大変なことになってしまった。
歩道橋に地下道に、死にそうになって格闘していると、通りがかりの人が手を添えてくれる。
33度の蒸し蒸しした北京。
汗がぼたぼたと滴り落ち、ワンピースは絞れそうなほどに汗を吸い込んだ。
今夜は寝台列車だからお風呂にも入れないし着替えもできないんだよな、そんなことを思いながらも、なんとでもなれ!と開き直りながら。

途中でめげそうになったとき、順豊快逓の荷車が通りがかった。
「あ!待って!これ送りたい!」
そうして無理やり引き留めるも、
「今**がないから荷物引き受けられないんだ」と無情な一言。
あと50m、いや100mいかないくらいのところに支店があるから、そういう配達員の言葉に励まされ再度頑張るもダウン。100mなんて絶対うそだ。
ダウンしたところで、そこにあった理容院のおばちゃんが、
「すぐそこだから一緒に行ってあげるよ」と助け船を出してくれ、ようやく到着したのだった。

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ここで手放した荷物、合わせて15㎏以上。
なんでそこまでするのと言う人もいるが、私は彼らに助けてもらうことも多いし頼み事も多いから、おあいこなのだ。
いい運動になったなぁと達成感も得られる。
順豊快逓は日本でいえばヤマト宅急便みたいなもの。
運賃は少し高いが大手なので信用できるし早いのでよく利用する。
スタッフの対応もよかった。
なんて思っていると、日本でもテレビで報道されたみたいに、荷物が球技みたいに放り込まれる。

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宅急便を発送し終えて、送り状番号と運賃を先方に伝え、ふたたび北京站に戻った。

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途中には古い何かの史跡もあるが、それがなんなのかもわからない。
こうした大都会にも紛れ込むようにしてまだ残る古いものたち。

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駅前もチケット受取場も、大混雑だった。
7月から夏休みが始まり、今中国は多くの人が家に帰ったり旅行に行ったりと大移動シーズンである。
チケットも軒並み完売している。
実をいうと、私はまだ全行程のチケットを確保できているわけではなかった。
列車券は30日前からネット上で購入することができるので、8月以降のチケットがまだ確保できていない。事前予約してもチケットが手に入らず、発売開始と同時に完売完売完売…、まいっていた。
というわけで、どうしようかな、と困り果てているまま旅行はスタートしてしまった。

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大粒の雨が降り出してきたので、まだ時間はあったが急いで駅構内に入場した。
セキュリティーチェックは同様に駆け込んだ人々で大混雑。

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まずは中国のどこにでもある李先生というチェーン店で夕ご飯。
大好きな牛肉麺は安い出来だったが、それでも疲れた身体に温かく美味しい。
卵をトッピングしてビールも注文。
カラカラに乾いた喉、なんて美味しいんだ、このビール。

今回は列車の旅である。
38日間のスタートはこの北京站。

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19時57分発の北京始発、合肥行きのT63次。この列車に乗り、まずは終点の合肥に向かう。
到着は明朝の7時40分。
11時間40分の道行きだ。
ちなみに今回の旅行、これはまだまだ少ない乗車時間にあたる。
本当はこまごまと回っていきたいけれど時間がない。
夜行列車で大移動しながら一周することができるのみ。
やっぱり中国は巨大だと、始まる前から実感した。

「もう入場できるから進めなんて言う他人の言葉を信用しないでください」
そんな電光案内に中国らしさを感じながら、改札を通った。

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私は中国の寝台車が大好き。
不便なところはたくさんあるけど、だから楽しいというのもある。
寝台車には、二段ベッドになって一室四ベッドの軟臥という高いチケットと、三段ベッドになって一室六ベッドの若干安い硬臥がある。
私は奮発して極力軟臥を選んだが、今回は残念、不便な上段にあたってしまった。ネット購入の場合、こちらで指定することができないのだ。

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同室は夫婦と小さな子供だった。
親切に、私のキャリーバックをベッド下のスペースに入れてくれた。
下段でなかった場合キャリーバックの置き場所がないというのは、未だに解決しない個人的に大きな悩みだ。

下段であればテーブルもあるが上段にはもちろんそれもない。
今日の旅行記はどこで書こうかな、と食堂車に行ってみると満席。
そこでやむなく、寝台車両の狭い通路の簡易椅子で、たびたび姿勢を変えながら書き始めることにした。
燕京ビールL缶を一気飲みしてから。

旅行中に旅行記を書いていくというスタイルは、先月のウルムチ旅行で試したばかり。
二週間でけっこう大変だったから、38日旅行でそれを貫けるか不安はあるが、やれるところまでやってみよう。

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ごとりごとり、と列車は揺れる。
時折、大きな金属音を上げて重たく停車しては、新たな乗客が乗り込んできた。
通路はとても狭く、人がやってきては立ち上がり退いた。
人がすれ違うのもやっとの狭さである。
ふと顔をあげると、各所に設置されている簡易椅子は、この狭さにも関わらずみな乗客で埋まっていた。
少し疲れて一服をしにデッキに出てみると、砂にまみれたガラス窓の向こうには浩々とした月が見えた。
同じ速度でどこまでもどこまでもついてくる。

〈記 6月30日 合肥行き寝台車にて〉

参考: 
空港バス 30元
北京ー合肥行き列車券 423元


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2018-08-23

38日間周遊 〈2日目〉 合肥

2018年7月1日、昨夜北京を出発して最初の目的地「合肥」へ向かう寝台車。
終着である合肥站に到着するのは朝の7時40分の予定だったため、目覚ましのアラームは6時半にかけていた。
ところがそれよりも早く乗務員が起こしに来た。

中国の寝台車は、乗車すると乗務員がチケットを受け取りに来て、それと交換に部屋番号の入ったカードを受け取るシステムになっている。
乗務員が受け取ったチケットはファイルに整理され、それぞれの乗客に対し下車少し前になると起こしに来てくれるのだ。
寝過ごしがない一方でそれを当てにしていると、時間がなくてけっこう下車まで支度に焦るので、私はいつも早めに起きるように心がけている。

「まもなく着きますよ」
そう言って乗務員が起こしに来たのは6時半前。
ちょっと起こしにくるのいつものタイミングよりも早くないか?と焦って時計を確認した。
一時間後は‟まもなく”ではない。
寝ぼけ眼で乗務員からチケットを返してもらうと、
「合肥站到着は7時頃です」とのこと。
だいぶ早まったんだ。
遅延が起きても何も不思議なことはないが、早まるのは珍しい。
化粧もせずに荷物だけまとめて、到着を待った。

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食堂車に行ってみると、みな突っ伏して寝ている。
昨夜は廊下の簡易椅子で寝ている人もいた。
寝台車両と座席車両の行き来はできないので、寝台車両にいる乗客はみなベッドを確保した人ということになるが、みんなベッドでちゃんと寝たんだろうか、なんて余計なお世話で考える。
私は私で昨日は初日でもう疲労困憊だったはずなのに寝つきが悪くてなかなか眠れなかった。

合肥站はおそらく建て替えられたのだろう。近代的な站だった。
タクシーに乗り繁華街近くのホテルへと向かった。

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周囲はごく普通のどこにでもあるような中国の街並み。
都会というわけでもなく、小さな都市である。
三国志が好きな人ならば合肥の戦いでその名を知る人もいるだろうが、中国に興味がない人は位置どころかその地名も耳にしたことがないかもしれない。
しかしここはこれでも安徽省の省都、政治経済の中心部。
位置でいうと、上海からちょうどそのまま西に500㎞ほどのところにある。
省都とはいえ、観光客にしてみたら安徽省では黄山の名前の方が知られていて人気だろう。その黄山は昨年の年越しに訪れたばかり。
あの時に、確か黄山を去るときに合肥を通過して、やっぱり省都だし合肥にも行ってみたいな、なんて思ったのがきっかけだった。
この合肥、黄山からは長江を挟んで北に位置する。

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ホテルに到着したのは、7時半。宿泊するのは阜陽路にある合肥古井君莱酒店。
さすがにまだチェックインできないかなとは思ったけれど、尋ねてみた。
昨日から汗で体中が気持ち悪いし、寝不足と疲れでへとへとだった。
早くシャワーを浴びて横になりたい。
するとフロントの女性は、
「9時までは部屋が空きません」
翻せば9時になれば部屋に入れてもらえるということだ。
日本の宿泊施設ではこういう対応はありえないから嬉しい。
ロビーで休ませてもらっていると、8時半には、
「もう入室できますよ」と案内してくれた。
親切なフロント対応だった。

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部屋に入り、即行でクーラーをかけ、汗にまみれた服を脱ぎ捨てた。
一昨日のも含めまとめて洗面所で手洗いし、干す。
シャワーを浴びてお昼まで眠りに落ちた。

午後になって周辺を観光するために外に出た。
おそろしいほどの湿気と暑さだった。
気温は32度となっていたが、湿気により不快感はかなりのもの。
街並みもどんよりとしてそして霞んでいる。
予報を見ると暴雨警報の文字。
この湿度はその前兆だろうか。

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まず行ってみたかったのは、「李鴻章故居」。
李鴻章は合肥の生まれなのだ。
用意してきた地図を片手に進んでいくもその気配はなく、掃除のおじさんに訊ねてみると逆方向に進んでいたことがわかった。
おじさんが教えてくれた通りに進んでみると、大賑わいの繁華街にでた。
デパートや洋服、靴などのお店が建ち並ぶ近代的繁華街。
その中に、李鴻章故居は埋もれていた。

明らかに浮いた存在となっている古建築。

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李鴻章一族の住宅は、一本の通りである淮河路の中間あたりまでも占めていたため、当時‟李府半条街”と呼ばれるまでだったのだそう。
その中で李鴻章の住居はほんの一角にあり、面積にして3500㎢。
それが今、目の前にある建物である。

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内部はこのようなシンプルな構造。
寺院や宮殿に見るような、一直線に建物が並んでいる。

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横から見てみるとこんなふう。

さっそく入場してみた。
最初にあるのは前庁。
賓客がここで休んだり、また来客に対し接見した。

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内部は李鴻章の生涯を紹介した展示室になっている。

李鴻章は、清末の政治家であり将軍として現代に名を残している。
外交に尽力したが、日清戦争敗戦、それによる不平等条約の調印。
さらに欧州に対し中国各地の租借を許すなど、国内から強い批判を受けた。
中国を各国の植民地化させた本人として、有名だ。
しかし日本、欧米諸国から圧力を受け、一方で清朝という王朝自体内部に火種を抱えていた当時、どこに進路を見出していいのかわからないような混乱期の八方ふさがりという言葉がぴったりな状況下で、この李鴻章の外交手腕がなかったらもっと早く清朝は崩壊していたかも知れないし、また現代中国の姿も変わっていただろう。
私が李鴻章に対して興味を持つのはそういう点だ。

中国各地が諸外国に奪われていくことを国として許す。
その姿勢が譲歩という言葉の範囲なのかはわからないが、しかしそうした方向性をとったことで損失は最小限にとどまり、各国との関係性もぎりぎり保たれたのだ。
どのみち各国を相手に勝ち目はなかった。その中で選べる選択肢は、この譲歩か破滅かどちらかだっただろう。
97年の香港返還はまだそれほど昔のことにはなっていない出来事だ。
香港もまた、李鴻章によりイギリスに割譲された地域のひとつである。
当時締結された租借条約が期を迎えイギリスから中国の手元に戻ったのが、あの香港返還だった。
当初イギリスは、永久の租借を要求した。
しかし李鴻章は、「九十九という中国では永遠を意味する数字をもって租借を受け入れよう」と言葉巧みに申し出、その通りになり、99年後のあの年に返還を果たした。
5月に旅行したばかりの青島もまた、ドイツに租借を許した場所だ。
その租借もまた言うまでもなく李鴻章により締結されたものだった。
そしてあそこにあった桟橋はもともと、李鴻章が軍事的必要性を光緒帝に奏上し建設されたものだった。
各地が他国に自由にされるのは屈辱だっただろう。
けれども結果的に、各国が都市基盤を整え経済的にも発展したところで中国の手に戻ることになり、現代の生活に少なからず恩恵を与えることになったのである。
そういう意味で、李鴻章は後世の人々の生活を守ったともいえ、売国奴とまで評された評価は英雄に変わった。

つまり、李鴻章について重要なポイントというのは、租借を許すがそれにより国を守ったという点にある。
ところがこの展示には、李姓についてから始まり科挙に進み、なんてことは詳細に展示されているのに、肝心な日清戦争の敗戦や諸外国の割譲、不平等条約の締結、なんてことには触れていない。
まともに展示を見ていないのでもしかしたらどこかに触れられていたのかも知れないが、要は英雄的部分だけを主張した展示であり、中国では不思議なことではないけれど少し違和感を覚えた。

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前庁の先には福寿堂。
応接間としても、そして家族が儀礼を行う時に使われたそう。

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一番奥にあったのは、走馬楼。
構造がここだけ特殊で、壁が「回」の字をつくっている。
二階建てで、中央の空間を通路と部屋がぐるりと囲んでいる形になっている。
一族の女性が暮らした場所で、そのため小姐楼の名があるそう。

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部屋を覗くと、木の彫刻が細かくてみごと。

こうして李鴻章故居を抜けて、繁華街のその先には大きなお寺があった。

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ここもまた若者でにぎわう現代風景の中で浮いている。
その大きさがかなりのものだったので、気になって入ってみることにした。

ここは「明教寺」という寺院。
創建は南北朝の梁の武帝の時代。すでに1500年の歴史があるというが、現在のものは改修を経た姿。
ここで興味深いと思ったのは、この寺院がある高台。
もともとは魏の曹操が兵士に弓を指導した‟杏教弩台”で、そこに後世寺院を建設したものなのだという。
ここは三国志ゆかりの史跡も多い。

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現代には三国志を思わせるようなものは何もなく、人々のお参りの場所になっている。
中央のお堂の中は仏さまが塗り替え中で、そんな姿を目にするのも珍しい。
鮮やかなオレンジ色をしていて、最後には黄金がまぶしい姿になるのだろう。
その脇にある小さなお堂には見事な涅槃像が横たわっていた。

ここから繁華街を西に移動し、だいぶ歩いた。

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途中で古そうな建物に出合った。
見てみると保護建築を示す標識。
「江淮大劇院」といい、1954年に落成した徽派建築の大型劇場で、多くの著名人が訪れたことがあるのだという。

向かっているのは、「盧州府城隍廟」。
徽派建築が建ち並びなんとも雰囲気があるようで、その中身はみな生活用品を売るお店。
観光客向けというよりは地元の人の商店街のような感じ。
その先に塔を見つけた。

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現代建築ではあるけれど、その正面には骨董が並べられている。

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その向かいには、娘娘廟。
こちらは外から覗くだけ。

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歩いていくと、城隍廟はあった。入場は無料。
もともとは北宋の時代1051年に創建したが、清代1854年太平天国の乱による太平軍により破壊され焼失。
再建に取り掛かったが資金不足により度々中止され、1879年に李鴻章らの出資によりようやく再建された。
中国の民間信仰の中には土地を守る神様というものがあって、その神様のうち最高位に位置する都を守護するといわれる城隍神を祀る廟なのだそう。

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そろそろまた繁華街に戻ろうかなんて考えていると、最奥の廟の向かいにある演劇台でなにやらイベントが始まった。

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中国の古典歌謡のよう。
私はこの方面に疎くて説明ができないのがもどかしいが、甲高い声は多くの日本人が想像する中国伝統歌謡の特徴の通りだと思う。

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歌を挟みながら小劇のような形態で、徽劇というものだろうか。
多くの人が見入っている。

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小劇の中、北宋時代の古い井戸の存在に気付く。
干ばつの時にも枯れることがなく甘い水が湧いたのだという。

通り雨のように雨が通り、すぐに止んだ。
傘を差してまた閉じて、また振り出したらいやだなと去ることにした。

帰り路でまた思わぬものに出合った。

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「李公祠」、李鴻章を祀った祠の跡地だった。
説明を読んでみると、1901年に彼が死去したあと、功績を讃えて中国各地、北京をはじめ10カ所に李鴻章を祀る祠が建てられ、ここはその一つなのだという。
しかし1986年、都市建設に伴った必要性からここのものは取り壊されることになり、現在は壁が一枚残るのみなのだとか。

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また途中には、合肥の思い出とタイトルがつき、古い写真を紹介した壁?があった。
その中には古い合肥站のすがたも。
おそらく数年前十年前まではこんな小さな駅だったのだと思う。

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ふたたび李鴻章故居があったところまで戻り、その裏にある公園に向かった。
「逍遥津公園」である。

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中はごく普通の公園で、中国の公園によく見るように、小さな遊園地と化している。
ここに来たのは、ここが三国志ゆかりの場所だといわれているからだった。
合肥は三国時代、魏と呉がたびたび攻防を繰り返した場所で、それらは合肥の戦いと呼ばれている。
215年、呉の孫権が10万もの兵を率いて張遼率いる魏軍を攻撃したが、魏軍はわずか7000の軍勢で呉軍を撃退した。
ここはその時の古戦場跡につくられた公園で、この公園の三国志方面での主役は張遼のよう。
張遼の墓があるということで探しに来てみた。

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公園はかなり広くて、歩き疲れたところにひっそりとあった。
来てみれば、お墓を目的にしているからそれだとわかるものの、何の説明もなく知らなければただの土のふくらみ。

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けれども私のルートが逆なのだった。
お墓の裏-本当は正面―には古い石碑があり、字は読めないが張遼の墓だと記されているみたい。

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その裏-本当は正面-には、立派な門もそしてお決まりの珍獣の像も並んでいた。
珍獣の像の前では、親父さんがずっと鞭を振り回しており、怖くて近づくことができず。

付近には、孫権が馬で飛び越えて撤退したという飛騎橋というのがあるみたいだったが、胡散臭いなと思い結局行かなかった。
また三国歴史文化館なるものもあったが、開いていなかった。

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こうして公園でしばらく休み気づけば日は落ち、夕ご飯はどこで食べようなんてふらふら歩いて戻ってきたら、すっかり夜で、ホテルまで戻ってきてしまった。

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夕ご飯はホテル近くの、数席しかない小さなお店。
利発な感じの女性で、お客みんなに「どんな辛さがいい?」と訊いていたが、私は「どんな辛さって?」とわからず、辛い物は食べれると答えた。
頼んだのは香辣蟹、そして米麺とビール。

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その結果、激辛の蟹がやってきた。
しかしこの蟹、とても美味しかった。美味しいがすごく辛い。
辛いがうまい。
汗だくになり完食した。これで25元なのだから安い。

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ホテルの五階にはマッサージがあり、節約旅行を心に誓いながらも二日目にしてさっそく浪費してしまった。
90分で168元。浪費だ。
けれどもこのマッサージがとても腕がよかった。
とてもきれいな女性で、私が日本人だとわかると片言の日本語を話した。
十年前に三年間だけ仕事で日本に暮らしたことがあるのだという。
「私、日本人、好き」
数字の‟四”を日本語でどういうかわからなくて、「ヨン」だと教えると、そう言いながらふと気になった。
「ヨン」だけど、四つ、四個、四時、四十、四人、場合によって発音が違うことに気づいたのだ。当たり前のことなのだけど。
中国語を学習し始めたとき、一(yi、yao)や、二(er、liang)なんて発音の違いに戸惑ったけれど、日本語の方が複雑じゃないかと思った。
「日本語、難しい」
全然できないという彼女だったけれど、中国に帰って以来10年間日本人と出会う機会もなく日本語を使う機会もなかったのだという。
それなのにこうして単語が出てくるのはすごいなと思う。
「じゃあ、日本人のお客さんはここにはこない?」
そう訊くと、一人も来たことがないのだという。
「あなたが初めての日本人のお客さんだよ」
合肥を訪れる日本人は少ないだろう。
あるとすれば、三国志が好きな人や、私のような旅行者なのだと思う。
旅行していて、日本に思い出がある人と出会うことがある。
そんな時にもまた、旅の不思議な縁を感じるものだ。

〈記 7月1日 合肥にて〉

参考:
宿泊費 190元
李鴻章故居 20元
明教寺(曹公教弩台跡) 10元

18年38天旅行◇北京ー合肥 
北京ー合肥



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2018-08-23

38日間周遊 〈3日目〉 合肥

2018年7月2日、目覚ましのアラームで無理やり起きたのは8時。
三日目にして重たい身体に不安を覚えながら支度に急いだ。
そのまま荷物をまとめチェックアウトし、キャリーバックをホテルフロントに預けた。

今日から少しきつい日程が始まる。
今日一日汗だくになったあと、夜は夜行列車のためシャワーも着替えもできない。
夜行列車で向かうのは紹興で、今夜出発したあと明日の6時過ぎに到着する。
そして一日観光したのち、そのまままた夜行列車に乗るが、これが長い。
おおよそ30時間、つまり翌日一日移動して翌々日に目的地に到着する。
この蒸し暑い中、まるまる三日間を超す時間、シャワーを浴びることはできず、なんとか状況を作って着替えだけは、という日程。
こういう日程を組んだのは自分だから仕方ない。

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ホテルを出発して、まず向かったのは少し離れたところにある合肥南部バスターミナル。

ここから今日は郊外に向かう。
合肥市区から南へ80㎞ほどのところに、三国武将として有名な周瑜の墓がありそこに向かうのだ。

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周瑜墓がある街、盧州までバスチケット30元を支払い乗り込んだ。
盧州までのバスは頻繁に出ているようで、車両も大型のもの。
時間にして二時間かからないくらいだったが、爆睡し朦朧とした意識の中到着した。

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盧州は小さな街。
高層ビルはなく、どんどん近代化していく中国の中で、少し前の街並みを残しているといった感じだ。

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帰りのことがあるので、いったん出たバスターミナルのチケット売り場を覗いてみた。
帰りは、ここ盧州と合肥のちょうど間にある古鎮、三河古鎮へ立ち寄ってから帰りたかったが、行き方がわからなかった。
窓口に訊ねてみたところ、三河までは長距離バスではなく路線バスが出ているとのこと。バスがあるなら安心だ。

時刻はちょうどお昼、ご飯を食べてから周瑜墓への行き方を考えることにしよう。
そんなふうにして通りをうろうろして見つけたのは、新しい建物が少ないこの街で目立つ真新しいお店。

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‟老郷鶏”、安徽のファーストフードのよう。全国に400店舗を展開しているらしい。
せっかく安徽省に来たのだからここにしよう、と入ってみた。

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肥西老母鶏湯を小椀で、それにご飯とビール。
鶏湯は本当は大きいサイズがよかったが、小椀で13元、中椀で20元を超すので我慢した。
道のりは長い。仕事を辞め私は今、お金がないのだ。

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この鶏スープ、とてもおいしくて感動した。
骨ごと入った鶏からダシが濃厚に出ていて、色味も濃い。味付けのないシンプルなダシの味がおいしい。
スープをご飯にかけて締め風に食べてみるとこれもまたおいしい。

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ご飯を終えて、いよいよ周瑜墓に向かう。
見てみると路線バス1路、2路、3路の停車駅に「周瑜墓園」というのがある。

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バスに乗ってみるとすぐだった。
大通り沿いにバスを降りてみたが最初それらしいものが見当たらず、人に訊きながら進んでみると、反対車線に大きな牌楼があった。

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目の前はその名も「周瑜大道」。

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牌楼をくぐってみるとそこに周瑜墓の入り口はあったが、なんと施錠されている。
隣の建物の人に「今日休み?」と訊いてみると、
「今は休み時間、2時半になれば開く」とのこと。

一時間ほど門の前で待つと、やっとのこと一人の女性がバイクに乗ってやってきた。
「ここの係員?私、入りたい!」
外国人ではるばるここまでやって来たアピールをすると、
「二時半からだけどもう入っていいよ」と脇の係員用の扉を通してくれた。
事務室には帳簿があり、そこに記入してから入場する。
見てみると、昨日は十人ほど、今日は午前中に三人が来場しているよう。

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入場してみるとさっそく正面には周瑜を祀った建物。
これはもちろん現代に整備されたもので歴史的なものではない。

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両側には孫策、孫権はじめ一族の像。勇敢な孫権の妹も。

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周瑜は、三国時代、呉の名将として有名。
孫権を支え篤い信頼を得て活躍した。
有名な赤壁の戦いでは、劉備軍と協力して曹操軍を大敗させたその功労者として、また人格者、多才な美男子としてのイメージからも根強い人気を得ている。

私は三国志は漫画くらいしか読んだことがなく無知に等しい。
ただ孫権、周瑜に関しては、映画レッドクリフを見たから若干身近に感じるようになった。
数年前にはその赤壁へも行った。
像を見ながら思い浮かんだのは映画の断片。
色んな小説を読んでいればさまざまなパターンの想像ができるだろうに、私にはその材料が少ないので、脳裏に浮かぶのはそのまま映画の場面。
周瑜のかっこよさもあの俳優さんだし、小喬の美貌もあの女優さんのまま。

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周瑜を祀る建物の裏に回ると、いよいよ周瑜のお墓があった。
周瑜はここ盧州の生まれだったため、死後ここに祀られた。

昨日逍遥津公園で見た張遼の墓よりも大きい。
周瑜ファンが置いていったのか、生花も供えられている。
日本にも、三国志関連の史跡専門に中国を旅する愛好者は少なくないだろう。周瑜は特に人気だから、はるばるここまでやってくる日本人もきっといるに違いない。

映画の中の人、本の中の人。
こうしてお墓に来てみると、そんな人たちが急に現実味を帯びてくる。
実際の人物から飛躍して架空の人物みたいに装飾された人たちも、みな本来はごく普通の人間であったはずだ。
運命に翻弄されたり、その能力が優れたものであったりはしても、みな同じ人間だった。
現代になり物語化しても、本来はその人その人の実際の一生があったのだ。
お墓を目の前にするとそんなことを思う。

お墓の近くには井戸があった。

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近くにたたずむ像は周瑜の妻、絶世の美女といわれた小喬のもの。
小喬は周瑜が死去したあと、ここで14年にもわたり墓守をしたのだそう。
そしていつもこの井戸でお化粧をしたりしていたので、井戸水は紅の色に染まった。
そこから頬紅井の名がついたという。
周瑜のハイライトは赤壁の戦いだ。
赤壁の戦いで名を上げたあと数年も待たず病で死んでしまう。
年齢にして35歳、私とおんなじだ。
仲睦まじい夫婦だった周瑜と小喬、小喬は寂しかっただろうな、と思った。
英雄は若くして去りそれがさらに伝説となる。
霍去病も病だったなぁ、武将でありながら戦いではなく病で命を落とすというのがまた不思議なものだ。
国は違うけど新選組の沖田総司もそうだな、と思い出す。
夭折、美男子、武勇伝。
これらは人気の三要素かもしれない。

ほんとうにどうでもいいことなのだけれど、ここに立てかけれれていた説明板。
日本人客も多いのだろう、中国語、英語、韓国語に続いて日本語があった。

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翻訳がおかしいのはよくあることだけれど、これはどうしたものか。
中国らしいな~と変なところで中国に来ていることを実感する。

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周瑜墓を後にしてふたたびバスに乗り、到着したバスターミナルまで戻ってきた。
そこにはここから合肥市区方向にある「三河古鎮」行きの路線バスがある。
盧州の街の中では、路線バスは夏季2元だったが、こちらは距離が遠いためか3元。
それでもこの金額で遠くまで移動できるのだからありがたい。
爆睡してしまったため定かではないが、それでも一時間近くは走ったのではないかと思う。

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三河に到着したのは16時半のことだった。
窓口に確認してみると、合肥行きの最終バスは17時半とのこと。
一時間しかない。

ここ三河の由来は、豊楽河、杭埠河、小南河が交わるところにある。
明代にその名がついたのだそう。
ここに古い町並みを残す三河古鎮が観光客に開放されている。
景区までは少し距離があり、歩きながら、帰りのバスに間に合わせるには30分も観光できないな、と覚悟した。

入り口には巨大な観光センターが建設されており、この時点ですでに昔ながらの風景は失われてしまっているのだけれど、内部は思いのほか素晴らしかった。

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時間帯の問題もあるのか、観光客も少なくお店もほとんどしまっていたため、そんなふうに感じる部分はあったかもしれない。
2500年の歴史がある古鎮である。
石畳は古くから往来した人々の足により、磨かれて光っている。

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左右には徽派建築が建ち並ぶ。
いわゆる‟うだつ”である馬頭墙がその特徴だ。
たくさんの建物が身を寄せ合っているから、一度火事が起きると一帯に被害が広まってしまう。そのための防火設備だ。
安徽の建築にはこのような防火対策を見ることができる。

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壁はこのように細かに石を重ねあげて作られている。
もともとは塗り込められていたのが、年月とともにその姿を現したものだ。

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一軒一軒はお店になっていたが、素晴らしいなと思ったのはそれぞれの建物は現代も住居として生きていたことだ。
観光地でありながら、そこには人がそのまま暮らしている。

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それぞれにはこのように、灯篭でできた表札?がかかっていて、こんなのも雰囲気を感じる。

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こちらは干された鳥の羽。
なんだろうと思ったら。

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きっとこれだ。孔明扇を売るお店。
赤壁でも買ったな~。

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豆皮に米酒なんかがここの特産のよう。
米餃というのがあちらこちらにあり気になったが、いよいよ時間が怪しくなり慌てて戻ることにした。

無事にバスターミナルに戻り、合肥行き最終バスのチケットを購入した。
まだ少しだけ時間があったので、隣のお店を覗くと、ちょうどいいことに先ほど気になっていた米餃が売られている。
一つ、なんと1元だというので二つ買ってみた。

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ざっくりいうと、ふんわり軽くした揚げ餃子みたいな感じ。
おそらく皮に米粉を使っているんだろう。
そして、これがすごくおいしかった。いくらでも食べれそう。
出来上がっていたものを買ったが、揚げたてだったようで熱々。
二つとも中の餡は違う具材で、一つには川エビがあり香ばしく、もう一つにはやわらかな豆腐が入っていた。
この米餃、南方にはよくあるのかな、私は出合ったのは初めてだった。

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合肥行きのバスが出発してまた爆睡。
一時間ちょっとで合肥市内へ到着した。

タクシーでホテルへ向かった。
「日本人の女性は性格がいいから中国人は日本人と結婚したいと思うんだ」
運転手のおじさんは言った。
「うーん、実際はそうとも限らないよ」
色んな人がいるし。中国もそうなように。
そんな話をしていると、
「ロシア人やウクライナ人の女性はすごくきれいだ」
突然そんな話をしだした運転手さん。
「でも若いうちはいい、歳をとるとすごく太るからダメだ」
そんなことを言うので、
「日本人もそれは同じだよ」と返す。
そんな話をするからには合肥にはロシア人が多いのかなと、
「合肥には外国人は多いの?」と訊いてみると、
「うん、アメリカ人なんかがいる」
この運転手さんなかなかおもしろかった。

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ホテルで預けていたキャリーバックを受け取り、合肥站へ向かった。
列車券を受け取った後、近くの食堂で夕ご飯。

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特色小炒というのにしてみた。これで20元。
細長い豆腐のようなものと、安徽の特産であるキクラゲなどが炒めてあるが、苦手なセロリが入っておりやっつけるのに苦労した。

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食事を終えてふたたび駅へ。
駅前の大通りを眺めながら、合肥にさよならをした。

構内に入ってみると、列車は若干遅延しているようだった。
顔を洗い歯を磨き、乗車に備えた。

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K1039次、22時30発の予定が30分ほど遅れて改札となった。
次の目的地は「紹興」。
到着するのは明朝6時半すぎ。おおよそ7時間半の道行きである。
列車は蘭州始発の寧波行きで、途中駅からの乗車、途中駅への下車となる。

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せっかく手に入れた下段ベッドの切符だったが、途中駅からの乗車だったので、すでに人に荒らされていた。
明日は早朝に到着してしまうのですぐに寝なければならなかったが、真っ暗な車室、ベッドにくつろぎながらテーブルにビールを置き、ゆっくりとした振動のなか流れる暗がりの風景を眺めているのが心地よくて、なかなか横になることができなかった。

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〈記 7月2日 紹興站前にて〉

参考:
合肥 ― 盧江行き長距離バス 30元
盧州路線バス 2元
周瑜墓 無料
盧州 ―三河行きバス 3元
三河 ―合肥行き長距離バス 15元
合肥―紹興行き 列車券 241元

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2018-08-23

38日間周遊 〈4日目〉 紹興

2018年7月3日、昨夜合肥を出発した夜行列車。
下段ベッドだったので、ベッドに座りながらビールを飲んで、遅い時間まで暗闇の中流れる風景を眺めていた。
乗務員が起こしに来たのは5時半頃だった。
眠くて二度寝したくなる誘惑に耐えながら起き上がって荷物をまとめた。
次の目的地「紹興」に到着するのは6時14分を予定している。

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起きてみると部屋の中は隣のベッドの女性と二人だった。
上段の二人はすでにどこかの駅で下車していたみたい。
隣の女性は、「まだ時間あるから寝てもいいよ、声かけるから」と言ってくれた。
昨日はどろどろに汗をかき、服も下着もそのままだったから身体はひどい状態で、女性二人になったのをいいことに着替えさせてもらうことにした。
髪の毛が洗えないのはつらいけれど、身体を軽く拭くだけでだいぶ楽になった。

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紹興站に到着したのは定刻通りだった。
時刻は6時過ぎで、今夜はここに泊まらずまた夜行列車で出発してしまう。
その為、観光スタートまで休む場所もないし暇になる。
先にここで今夜の列車券を引き替えて、駅前の広場で化粧をしたり荷物を整理したり旅行記を書いたりすることにした。

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早朝にも関わらず、駅前にはすでにたくさんの人が集まり休んでいる。

紹興は浙江省の北部、日本人にも観光先として有名な杭州のすぐ隣。
もともとは臥薪嘗胆で有名な越の都があった場所である。

実はここ紹興で人に会うことになっていた。
今回の旅行は一人で一カ所一カ所奮闘していきたくそれが旅の目的だったが、中国人の友達たちはそれを許さない。
いつも化粧品を送ってあげているチャンイーの姪っ子さんは大学生で、今寧波にいる。
私はよくこの寧波にも日本の商品を送っているので彼女のことは知っていたが会ったことはなかった。
寧波は紹興のすぐ隣の都市だ。
大人たちの指令で彼女はわざわざ私のためにやってきてくれることになった。
急な話で昨夜のことである。
連絡先を交換して直接やりとりをしたのは真夜中だった。
私たちはお昼の12時に紹興で待ち合わせをして、彼女はそれに合わせて紹興行きの高鉄をとった。
私は朝自分のことをしたのち、黄酒博物館に立ち寄ってから彼女と会うことにした。

紹興といえば、どんな日本人でも知っている「紹興酒」である。
紹興酒があるからこの土地の名前を知っているといっても過言ではない。
逆にいえば紹興酒のほかには?といった感じになるかも知れない。

紹興酒は酒の分類としては‟黄酒”になる。
黄酒とは米を原料にして醸造される酒で、そのうち紹興周辺で醸造されるものを紹興酒と呼ぶ。
つまり紹興酒は黄酒の一種なのだ。
また黄酒のうち長い年月のあいだ熟成したものを‟老酒”と呼ぶ。
ただし日本人がもっとも身近なのは、紹興酒という呼び名だろう。
そういうわけで、ここ紹興に来て紹興酒や黄酒に触れないわけにはいかない。

黄酒博物館は紹興站から歩いてすぐのところにあった。
駅前の商店にキャリーバックを預けたあと、博物館に向かった。

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博物館の周辺には、古い生活スタイルをそのまま残す街並み。
平凡な表現だけれど、タイムスリップしてしまったかと思ったほど。
観光地として残しているのではなく、人々の営みとともに歳を重ねてきたような、そんな穏やかさがここにはあった。
水とともに生活する人々。
年代もわからないような古い橋が、そこかしこに残っている。

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「黄酒博物館」、入場は30元で、その中には試飲二杯分の料金も含まれている。

博物館は閑散としていて人もいないし、広い館内に展示もまばらでどこに向かっていいかわからない。
まず最初に入ってみたのは、酒の歴史。

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この辺りでは5000年も前には農耕生活の発達にともない酒の醸造が始まった。
しかしまた酒による問題も増え、周代には酒の醸造を規制するようになった。
酒池肉林、という言葉で有名なのは商(殷)の紂王。
伝説や史実の上では、酒に溺れ国を滅ぼしたことになっている。
その紂王を倒して周王朝建設に貢献したのが、釣りの神様で有名な太公望である。
ここには商、周、隋、唐、宋、明、清など各時代の酒器が展示されており、その違いは明確で視覚的に時代を感じることができる。
商、周の時代には、酒は儀式的な意味合いが強く、酒杯も三本足の鼎。
それが徐々に庶民にも広がり、日常的に楽しむものに変化していった。

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こちらは各地の黄酒について。
こうして見ると、紹興だけでなく各地に黄酒の産地があることがわかる。
紹興はその中心地で、ここには800を超す紹興酒のメーカーがあるのだそう。

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紹興酒のラベルの展示。
会稽山の名のものも。歴史にたびたび登場するこの山、紹興の郊外にあるけれど、残念ながら今回は立ち寄る時間がない。

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こちらは‟酒票”。
1960~80年初期、他の物資同様に酒も配給制だった。
この酒票と引き換えに酒を手に入れることができた。

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こちらはようやく黄酒の製造についての展示に。
米を水に浸しそして蒸す、その後発酵の過程に入り、圧搾し濾過したものを火入れして貯蔵する。

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米を蒸すところ。

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前発酵をしているところ。

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圧搾しているところ。

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火入れしているところ。

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こちらは現代の設備。

5月に青島のビール博物館を見学したばかり。
全然種類の違うお酒だけれど、使用する器具にも共通点があるなと思った。

このような基本的な製法の中でも、黄酒は四つのタイプに分別される。
一つは、「干黄酒」。
もっともベーシックな製法であり、中国でもっとも愛好されるタイプ。発酵を完全に行うので酒中の糖分が少なく、これが‟干”と名がつく由来。代表的なのは元紅酒。
二つ目は、「半干黄酒」。
発酵を完全に行わないため、酒中に糖分が残る。代表的なのが加飯酒で、米と麹を少し増して作られる。
三つ目は、「半甜黄酒」。
水を加える過程で、水の代わりに元紅酒を加えて作る。そのためアルコール度数は高めになる。代表的なのは、善醸酒。
四つ目は、「甜黄酒」。
水を加える過程で、水の代わりに麹と酒粕由来の焼酎を加えて作る。代表的なのが、香雪酒。

私は日本で飲んだ安い紹興酒がおいしくなくて、それ以来紹興酒が苦手になってしまった。
だからあまり興味を持ったことがなかったけれど、一言に紹興酒といっても色々な種類、代表酒があるのだと知った。

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こちらは、中国に残るもっとも古い黄酒。
1928年に醸造されたもので、紹興酒のある工場の増設の際に壁の中から発見されたのだそう。
実に90年前のお酒になる。
お酒は本来、口にするためにあるものだけれど、このお酒が飲まれることはないだろう。
いったいどんな味がするのか。
どれだけ味が芳醇で人を魅了させるものであったとしても、人の口に入ることがなければ役にたたない、そんなことも思うけれど。

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地下には貯蔵された土壺がたくさんあった。
暗くてジメジメした中で、少し不気味な感覚になる。

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貯蔵室から再び地上にあがってくると、手作り酒工房があった。
現代には工場の近代的設備で製造されるようになった黄酒だが、ここではおじいさんが昔ながらに醸造していた。
壺の中からくみ取り、味見させてもくれた。

その先にようやく、正式な試飲コーナーがあった。
青島のビール博物館はそうとうな盛り上がりだった試飲コーナーだが、ここは観光客もなく閑散としたようす。

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四つのタイプの中から二種類味見させてもらえる。
私が選んだのは、干型黄酒の元紅酒と甜型の香雪酒。

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色も違えば風味もまったく違う。まるで違う種類のお酒のようだ。
おつまみにつけてくれたのは、こちらの名物である茴香豆。硬い豆のお菓子。

お昼が近づいてきたので、寧波から来てくれるジューチーユーと待ち合わせに決めた倉橋直街へ向かうことにした。

途中、城市広場で古い塔を見つける。

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「大善塔」というそうで、南朝梁の504年創建とのこと。
急いでいたので通りがかっただけだけど、現代の風景の中で際立った存在感を放っている。

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やがて、昔ながらの雰囲気を残した倉橋直街へ到着し、ジューチーユーと合流した。
今まで会ったことがないと思っていた彼女だったが、実は4年前にコルラを旅行した時に顔を合わせていたことがわかった。あの時は名前もなにも知らず、大人たちの中でおとなしくしていたので、ほとんど会話もしなかったのだ。

大学三年生である彼女は若々しくて、一緒に行動するのがとても新鮮だった。
彼女はすでに夏休みに入っており、明後日帰郷するのだという。
お昼ご飯は、ここで彼女が決めておいてくれたお店にいくことに。
暑さもさることながら、ものすごい湿気で耐えられない。
冷房の効いたお店に入って、
「涼しい!」と二人思わず声を上げた。

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メニューはこのあたりの特色のものを三つ選んだ。
単包黄魚、黴干菜焖肉配夾饃、紹興酥魚。
少しだけ口に合わなかったけれど、せっかくの長旅、好きなものや食べたことがあるものよりも、新しい味に出合ってみたいと思い心掛けている。

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お店を出て大振りの雨にあたったが、雨はすぐに止み青空が見えるまでになった。
気温は30度を少し超すくらい。
けれど暑さを決めるのは温度よりも湿度。
40度近くなる新疆よりも、この不快感はとびぬけている。
冷房の場所から出て、一分も経たないうちに、全身水をかぶったようになる。
昨日もそんな一日だったのにシャワーも浴びていない。
汗をかけばかくほど、今夜も明日もシャワーを浴びることができないことに不安を感じるが、この日程を組んだのは他でもないこの自分自身だ。

歩いて向かったのは、「周恩来故居」。

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かの周恩来は江蘇省淮安の生まれで、父方の実家がここ紹興にあり、幼少期をここで過ごした。

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周恩来といえば、昨年の7月に訪れた重慶がまだ記憶に新しい。
あそこにもまた周恩来が暮らした建物や、政務を行った場所が残されている。
重慶には国共内戦や日中戦争の跡があちこちに残されており、私が見学した場所もみな、国民党との激しい争いや、日本と戦った、命を削るような厳しい時代を感じさせるものだった。
重慶の住宅は、周恩来にとってもっとも過酷な日々を送った場所だっただろう。
それに対してこの場所は、彼を豊かに育んだ場所。
ただ生活した場所というだけではなくて、人生の中で大切な意味を持つ場所だったに違いない。
それにしてもすごい部屋数で、「そうとうお金あったんだね~」なんて二人で話しては笑った。

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ここでは、1939年3月に帰郷した際に、30日ここで親戚や友人の一部と朝食をとったのだという。ずいぶん細かい情報だ。
私はなにより、こんな蒸し暑いところに生活してばてなかったのだろうかと、そんなことをずっと思っていた。
それは私自身がもうすぐにでもばてそうだったからだ。
重慶もすごい蒸し暑さで、あの時にもおんなじことを考えたものだった。
冷暖房など、恵まれた環境の中でそれに慣れてきた私は弱く、またそれらにすでに依存していることに気が付く。
展示物もほぼまともには見学しておらず、「暑くて死にそう」「こっちは少し涼しいよ」なんてそんなことばかり二人で交わす。

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周恩来の写真が、これでもか!という程展示されていたのは展示室に改装された二階。

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こちらは日本留学時代に撮影されたもの。

写真を見ながら、これだけの写真がありながら、周恩来の表情がどれも同じようであることに気が付いた。
穏やかな微笑。そこに激しい喜怒哀楽を読み取ることはできない。
歴史に残っている彼の行ったことや功績は、けっして穏やかなものではなく、相当な意思と情熱がなければこんな人生は歩めないなと思う。
けれども思うのは、内面もまたこの穏やかな微笑そのままだったからこそ、激動の時代の中を貫くことができたのではないかということ。
もしも内面が激しく燃え滾っていたならば、こうはいかなかったかもしれない。
周恩来が奇跡的なのは、実力を持ち重要な地位にいるにもかかわらず、排除されることなく最後まで生き残ったことだ。
生き残ることができた要因は、そこにあるのではないかと思う。
しかしまた、こうも思う。
穏やかな微笑は仮面で、熱情も怒りも悲しみも苦しみも決意も余りあり、それをその仮面で隠すしかすべはなかった。
朦朧とした意識の中、数え切れないほどの写真を流し見ながら、ぼーっと考えた単なる妄想だ。

周恩来はこのおじいさんの家に、1909年11歳の時にやってきてしばらく過ごし、育ち学んだ。
1946年アメリカの記者に対し、「自分の祖先は紹興にあり、自分もまた紹興人なのだ」と言葉を残している。


周恩来故居を出て、またしばらく歩いたところに今度は「魯迅故居」がある。
そこには魯迅故居や魯迅にまつわる史跡が集まるため、まとめて「魯迅故里」として観光客に開放している。

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魯迅はいうまでもなく、中国近代文学の先駆者であり思想家。
「ちょっと読んだことがあるけどね、難しくてやめちゃった」
私がそう言うと、
「多くの中国人にとっても難しいよ、私も簡単なのしか読んだことない」
ジューチーユーが言った。
「教科書には載っているけど、載るのは簡単な文章」
魯迅に対してそんな態度の私だが、上海の魯迅故居には行ったことがある。
あの時には、やっぱり来るからには多少は理解してから来ないと、なんて思って読んでみることを一度は決めたが、結局忙しいという口実にもとに放棄されたままだ。
この流れのままこの魯迅故里にくることになってしまった。

私がチケットを買おうとすると、
「身分証を提示すれば無料だよ」とジューチーユーが教えてくれた。
パスポートを提示してチケットを受け取る。
先ほどの周恩来故居も、ジューチーユーは学生証で無料だった。
愛国的な施設は観光客のふところに優しい。

まず入場したのは、「魯迅祖居」。
魯迅の祖先が暮らしたお宅。

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こちらは香火堂で、祖先を祀る。

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書斎はさすがで、本棚はこんなふう。
歴史が主だったのかな、時代ごとに引き出しがあるよう。

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こちらは浴室。
こんな蒸し暑さでお風呂がなければ川に飛び込むしかない。
「お風呂があるなんてお金持ちだね」
そんな話をしながら。
魯迅はもともとお金持ちのお宅だったのだな、と実感するお屋敷だった。
「私たち外国人は、こうやって観光して‟なるほど、中国人はこんなふうに生活しているんだ~”なんて思ってしまうけど、これは一部の人だよね」
「そうそう、お金持ちだけ」
「しかも、すごくすごくお金がある人!」

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魯迅祖居を抜けて次に向かったのは、「三昧書屋」。
魯迅の先生が暮らした家だ。

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こちらは教室。
魯迅の席は左の奥、壁際。

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「あのガラスがかぶせてあるところには、見えないけど字が書いてあるんだよ」
ジューチーユーが教えてくれた。
魯迅があるとき遅刻して先生に注意されたとき、遅刻はもうしないぞ、という意味で「早」という字を刻んだのだという。
もともとこの座席は入り口付近にあったが、生徒の出入りがあり勉強に集中できないといい、先生にお願いしてこの壁際に移動したのだという。
勉強熱心だった魯迅の逸話である。
魯迅は12歳から17歳までここで学んだ。

次はいよいよ魯迅故居。
清代に建設されたもので、のちに人の手に渡った際に大部分が改築されてしまったが、魯迅が生活した部分は手付かずに残っていた。
ここは改築されてしまった部分を復元して開放したものだ。

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魯迅は1881年9月25日にここで生まれた。
18歳に南京の学校に行くまでにはここで学び、またその後帰郷したあともここに暮らした。
思想的文学者で有名な魯迅だが、人間形成に重要な時期をこの場所で過ごしたという点で、魯迅ファンはぜひ訪れたい場所だろう。

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こちらが、改築されることなく残っていた魯迅の生活空間。

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この魯迅故居の裏には「百草園」がある。
家の裏に広がる農園というか畑で、幼い魯迅はよくここで遊んだという。
この百草園は作品中でも描かれているようだが、私は読んでいない。
読んでいないのだから語る資格はなく、写真撮影に励む中国人観光客をただ眺めるのみだ。

魯迅故里を後にして抜けてみると、また新しい観光バスが到着したことろだった。
次から次へと同じ色帽子をかぶった学生が下りてきて賑やかに騒ぐ。
先ほどの周恩来故居もそうだった。
ここは子供の学習の場所としても活用されている。

紹興は地味な街かもしれないが、実はすごい街だ。
周恩来故居と魯迅故里は歩いてそう遠くない距離にある。
また女性革命家として有名な秋瑾の故居もとても近い。
三人とも日本留学の経験があり日本との関係も深い。秋瑾は日本から帰国後に紹興に戻り、ここで処刑された。
中国激動期を生きその歴史に名を遺した彼らにとって需要な意味をもつ場所だった紹興。
三人が持っていたノスタルジーは重なる。
中国はこんなに巨大なのに、なんとも不思議だな、と思う。
彼ら以外にも有名人物を複数輩出しており、ここに来ればそれらの故居を訪ねることができる。

時刻は17時少し前で、目の前の銀行に電話番号変更の手続きをするために立ち寄った。
雨が降り止んではまた振り出した。
「この傘は中国で買ったものだけど、10元!」
私がそういうと、「寧波はしょっちゅう雨が降るから、安い傘じゃないとダメなの」
ジューチーユーもそう言った。
私がこのあと昆明に向かうことを伝えると、
「南方は湿気があるけど昆明はなくて過ごしやすいよ」
場所によって民族も習慣も違えば、気候も全然違う。
ぐるり旅の目的は、それを体感することにある。
不愉快な暑さに湿気だが、不愉快さも含めて旅の醍醐味であると思う。
これが西域に入ると今度は乾燥と格闘するに違いない。そんなのも楽しみだ。

ジューチーユーは21時の高鉄をとっていた。
市区から彼女が利用する紹興北站まではバスで一時間ほどかかるため、19時半にはお別れしようね、と話していた。
それまで少し時間があったので、歩き回って見つけたスタバに入り涼みがてらに休んだ。
汗をかくからなのか、喉が異常に乾いていたので最大サイズ。
まるでシャワーを浴びたようにびしゃびしゃな身体。
次から次へとしたたり流れ落ちてくる大粒の汗。
最大サイズのコーヒーでも補いきれないな、とそんなことを考えながらも。
ジューチーユーと過ごした一日はとても楽しくて、彼女は控え目でそんなに自分から話をするタイプではなかったが、私が話題をふると楽しそうによくしゃべった。
私は若い人が苦手で、友達も少し離れた年上が多い。
ジューチーユーは若さ溢れる今どきの女の子だったけど、なぜか苦手な感じがすることなく、居心地がとてもよかった。
「阿姨、阿姨、」(おばさん)
そんな風に呼びかけれれるのはあまりない経験で、友達の姪っ子だけれど本当の姪っ子と一緒にいるような感覚だった。
彼女は来年の6月に大学を卒業したあと、就職することなくまた学校に入るのだという。
日本は中国ほど勉強に対するプレッシャーがないんだよ、そんな話題でおしゃべりしながら、素直でまっすぐに育ち、いやいやではなく自ら進んで勉強に励む彼女は素晴らしいなと思った。

二人ともおなかはすいていなかったけれど、時間が少し怪しくなってきたので軽く食べに行くことにした。
「ダイエットになるし食べなくてもいい」
そう言った彼女だけど、学生の身でありながらわざわざ高鉄に乗ってやってきてくれた女の子をご飯も食べさせずに帰すわけにはいかない。

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選んだのは近くにあった麺のお店。
その後彼女と別れ、紹興站まで歩いて戻ることにした。

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途中で道に迷い入り込んだのは、昔ながらの建物が残る美しい路地。
「書聖故里」と名が付き、どうやらここは観光客も訪れる場所のようで観光案内の看板もあったが、それでも古い住居に今も変わらず人々が暮らす素朴な雰囲気があった。
建物の中を覗くと、食事している家族。ドラマの音声が漏れ聞こえてくる家もあった。

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住宅の扉は細長い板を並べて立てたもの。
並べる順番が決まっているのか、1、2、3、と番号が振られている。

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偶然出合うことができたのも、歩いていたからだ。
道に迷うのも悪くないな、と思った。

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無事紹興站へたどり着き、その隣にはお風呂の施設があるみたいだったけれど、時間が心配だったのでやめた。
駅構内へ入場し、商店で食べ物などを買い占める。
これから昆明まで、およそ30時間の列車旅。
明日はまるまる列車での移動となり、明後日の早朝にようやく到着となる。
大事なのはお酒だったが、小さな商店には白酒はなく黄酒のみだった。
ビールだと度数が低くて足りなくなるため強いお酒が必要で、黄酒を買った。
せっかくの紹興、でも小瓶があったのはこの湖北省のもの。
度数は35度、成分を見ると肉従容やクコなど漢方が添加されている薬酒だ。
(※あとから気づいたがこれは黄酒ではなく白酒の薬酒だった)

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ようやく列車に乗り込んだ。
紹興発、昆明行きのZ290次。

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始発は寧波で、二番目の駅からの乗車となる。
今まで10時間以上はあったけれど、これほど長い列車に乗るのは初めてだ。
長い列車で下段ベッドを確保できたのは幸運だった。
けれどもとても賑やかな家族と同じ部屋。
家族はモンスターな子供二人を連れていて、四人部屋に六人が旅を共にすることになった。
小さなモンスターは暴れ放題で、これからの30時間が少し不安になった。

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買っておいた二瓶の薬酒のうち、一瓶を開けて飲んだ。
ごとりごとり、と静かに振動しながら進む列車。
時々通り過ぎる灯り。
少なくとも私にとっては心地よい狭いベッド。
これほど贅沢な酒のつまみはない、とほろ酔いのなか思う。
深夜を過ぎてもおさまらない小さなモンスターを除いては。

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〈記 7月4日 昆明行き寝台車にて〉

参考:
荷物預かり 5元
黄酒博物館 30元
周恩来故居 18元
魯迅故里 無料
紹興―昆明行き列車 804元

18年38天旅行◇合肥ー紹興 
北京ー合肥ー紹興



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2018-08-23

38日間周遊 〈5日目〉 紹興ー昆明

2018年7月4日、昨夜紹興站を出発して寝台列車での移動、目的地である昆明に到着するのは明朝4時。
今日はまる一日列車の中である。
やることもないので思う存分寝坊しようと思っていたけれど、一度6時頃目が覚めて、寝たり起きたりをしながら、結局起き上がったのは11頃だった。

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ベッド四つの部屋の中には私と女性とおじいちゃんおばあちゃんに孫二人の六人。
早い時間に女性が下車してからは一日このおじいちゃんおばあちゃん孫二人と部屋を共にすることになった。
ところがこの孫ふたりが大変なモンスターだった。
昨夜乗車した時にはせっかく手に入れた下段のベッドはこの家族の荷物で埋まり、四人部屋に六人いるものだから私の居場所はなかった。
なんとかベッドは明け渡してもらえたが私の荷物の置き場所がなく、キャリーバックはベッドの上に置いた。
ベッドの上に座っていても、モンスター二人が投げるものが飛んできて気が休まるときはなく、さらに私の荷物にも手を出すので、部屋を出る時には荷物を持って出なければならなかった。
しかし部屋を出るとふざけて鍵をかけられてしまうので、これもまた困ったものだった。
のんびり車窓風景を楽しみながらこの一日を過ごそうと思っていたが、それはとても叶いそうもない。
諦めて旅行記を書く作業をした。

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今日の食事はカップラーメンとなった。
車内販売で果物や食事も回ってくるが、無難なカップラーメンでいくことにした。
おばあちゃんも車内販売の麺を食べ始めたが、モンスターのちゃぶ台返しにより、スープも麺も一面に散らばり無残な結果に終わった。
窓もテーブルもベッドも床も、そして私の顔も、ぐちゃぐちゃだ。なんてことだ。

旅行記を書き終えて、徐々に暮れ行く外の風景を見た。
山が続き時々集落や街が通り過ぎる。
いったい今はどのへんだろう。

やがて夜になり、星が散らばりだした。
ごとりごとりと進みながら、ふと銀河鉄道の夜を思い出した。
宮沢賢治は幼いころから線路や野原で遊び、そうした記憶と感受性が結びついて数々の作品が生み出された。
銀河鉄道の夜はそうして手掛けられた未完の作品である。
またこの作品は、妹を亡くした悲しみを収めるために樺太に向かった列車旅が直接的に関係している。
いずれにしても賢治にとって列車というのは重要なファクターだった。
山の間を抜け、いくつものトンネルを通り、そのたびに眺めていた星空は途切れて、鉄道建設とトンネル建設は切り離せない関係にあるのに、銀河鉄道の夜にはトンネルは出てこないんだよな、ふとそんなことを思った。

列車は暗い山の中を走ったが、時折灯りをともした家々が通り過ぎ、一瞬だけそれぞれの家の中が見えては流れていった。
暗がりの中に浮かび上がって見えたのはそれぞれの生活で、それはまるで、私たちが列車に乗って走り過ぎていくのではなく、一人ひとりのさまざまな人生がまるで走馬灯のように流れ去っていくかのようだった。
私はいま、どこかのしらない人の人生を一瞬一瞬のぞきこんでいるみたいだ。

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楽しみにしていた車内でのお酒。
買う時には黄酒だと思っていたら、ひっくり返してラベルを見てみると原材料名に白酒とある。
これは白酒に漢方を加え着色されたお酒なのだった。
白酒と黄酒では、蒸留酒と醸造酒でまったく違う。
それなのに気づかないで飲んでいたなんて、結局私はなんにも味がわかっていないということだ。

明日は4時に到着するので朝早い。
お酒を飲み終え0時を迎え、そろそろ寝ようかと思ったが、やっぱりそうはいかない。
モンスターの片方が大声を上げて泣き出し、これが結局、昆明站到着まで続いた。
そして結局、ただの一睡もすることなく、列車は終着駅に到着してしまった。

〈記 7月5日 昆明にて〉

’18・38日周遊②昆明・河口(西南)編へ続く⇒

◆北京ー合肥ー紹興◆(第1日目~第5日目)

【6月30日】
羽田ー北京ー     [夜行列車泊]

【7月1日】
ー合肥 ~李鴻章故居~明教寺(曹公教弩台跡)~蘆州府城隍廟~逍遥津公園(張遼墓) [合肥泊]

【7月2日】
ー盧州~周瑜墓ー三河古鎮ー合肥ー  [夜行列車泊]

【7月3日】
ー紹興~黄酒博物館~大善塔~倉橋直街~周恩来故居~魯迅故里~書聖故里ー [夜行列車泊]

【7月4日】
紹興ー昆明行き列車      [夜行列車泊]


《中国旅のあしあと》 ☆地域別の足跡はこちら☆

《旅のあしあと》 ☆時系列編の足跡はこちら☆


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まゆ

Author:まゆ
中国が大好き。お酒も大好き。
中国へ行く度に、スケールの大きさに圧倒されます。各地を旅行し街歩きし、体感したことを綴っていきます。

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