2020-09-01
自貢・宜賓22日間周遊 〈1日目〉 自貢・自流井
2020年7月20日、いよいよ今年の夏休みが始まった。
コロナウイルスの影響で2学期の授業開始が二カ月以上遅れ、16週分の授業を詰め込み、ようやく終了したのが7月第一週目。それからテストを行い、期末書類を作成し、よし一カ月半の夏休みだ!とこの7月20日から、22日間にも亘る近場旅行を急遽計画した。
元はと言えばこの夏は宜賓に越して初めての夏休みで、甘粛周遊を妄想していた。
夏には規制も緩むかなと、コロナへの警戒も緩み始めた街の様子を見て期待していたが、しかし期待は外れそれは依然厳しそうだった。
実際のところはもう、外国人であっても省外へ出ること自体は可能である。トラブルはあるだろうが、禁止されているわけではない。
けれども夏休みが近づき大学の事務方に相談してみると、不可の回答。
日本も同様だが、地元に根を張った高校以下の教育現場と異なり、大学は学生が全国に散らばる。そういった面がありかなり慎重になっているようだ。
大学教師としては仕方ないかなとそれは受け入れている。
「でも、四川省内ならいいよ」
事務の先生はそう言ってくれた。そうして成都を出発点にして四川の田舎を回ってみようと考えてみたが、これも7月のある日。大学上層部の会議で、外国籍のみ移動を制限すると、新たな通達が発表されてしまった。
「成都で会おうね」
秋から他省の大学院への進学を決めた学生と会う約束をしていたが、それも不可となった。仮に行先が成都だとしても、私の場合、もし行けば大学の許可が出るまで宜賓へ戻れなくなる。さらに許可を得て戻ってから自費で二週間の隔離。
それはさすがにしんどいなと、おとなしく近場旅行を決めた。聞いたところによると、重慶のある大学は中国籍の先生までみな旅行自体禁止になったそうなので、「楽しんでね」と温かく声をかけてもらえただけでもありがたかった。
そうしていよいよ決定した自貢・宜賓周遊旅行である。
決めたはいいが、6月7月は忙しく、準備もろくにできずに出発となってしまった。
それでもなんとか事前に旅行計画書を作成し、大学事務へ提出していた。自分でいうのもなんだが、詳細かつ完璧な旅行計画書である。
これをPDFで事務へ送り、旅行中は時々報告を入れる。そして帰宅したら利用したすべての交通機関のナンバーなどの情報を報告することになっている。
これらは労働節旅行のトラブルを踏まえているので、そういう意味では前回のあれこれは役に立っているといえる。
大学、ホテル、派出所、公安、出入境管理局…多くの人へかける面倒と引き換えに得られる旅の楽しみ。今でも時折、もうどこの派出所やお役所か混乱するほど、携帯に「その後」の確認の電話が入ってくる。
悪いけれど、お願いします。とこころの中で。
しかし今回は事前に自貢、宜賓の出入境管理局に私の旅行計画書は送付済みで、どこにいついて何をするのか明確になっているので、前回ほどの混乱はないだろうと期待している。
下調べはろくにできなかった。しかしいよいよ出発だ。
ところが出発数日前に学生の論文チェックがどかんと回ってきて、連日徹夜状態となってしまった。自分に火をつけて仕事が片付いたのは、前日の夜だった。
7月8月は無給なのに、私頑張るなぁ、なんて思ったけれど。ああ、1月から5月まで半年近く有給で休んだじゃないかと思い返す。今年は異常な年になったなぁと思うけれど、しかし毎年繰り返しいうような異常気象、あんなのと同様にもう何が異常で何が通常なのかわからない。
それでも自分自身は平穏に生活できていること、これに感謝しよう。

徹夜続きが終わりを迎え、明日は出発という前夜。
遅い時間だったけれど街へ繰り出し、深夜というか、もうすぐ朝を迎える時間までザリガニを肴に飲んだ。
それだけ、解放感でいっぱいな夜だった。
午前10時頃にアラームで起き、けれども寝不足でふらふら。
少しずつエンジンを温めるように、部屋の掃除をし、洗濯をし、旅行の荷物を準備し、部屋のコンセントを抜き。
マンションを出たのはもう14時を過ぎた時間だった。

まず向かったのは、老城区にある宜賓市第二医院。
前回のトラブルを踏まえ、今回は事前に核酸検査を受けていた。受けたのは木曜日、四日前。その結果をコロナ陰性証明書として旅先で提示することができる。
前回行く先々で提出を求められたのは、隔離証明だった。それはもう何度も隔離施設のスタッフと話したけれど「そういうものはない」で話は進まないし、3月にやった隔離証明なんぞ今意味があるのかとも思うしで、それなら陰性証明書を持っておこうと考えた。
日本でも散々いわれているように、陰性証明だって完全ではないだろう。でもないよりはある方がいいに決まっているし、中国では陰性結果=大丈夫、という認識で規定としては通るので、あれば有効だ。
ちょっと古びた病院で、発熱外来窓口となっているのは感染症対応の病棟だった。おそらくコロナで特別に用意された窓口だろう。隔離施設にいた時とは異なり、今度は喉の粘膜を採取した。それから採血。
総額で357.66元、日本円で5700円ほど。日本では4万~5万円すると聞いたから、安くて助かった。
初めての病院でてこずった。まず迷う。もう20人ほどに窓口を訊いたが、人によって答えがまったく違うしで…。受付や支払いなどの流れも日本とはまったく違い、それは検査日だけでなく検査結果受け取りの今日も同じような状態になってしまった。
無事検査結果を受け取ると、血液検査、喉の粘膜採取、ともに陰性が表示されていた。ぺらぺらな紙二枚で破いてしまいそうだが、大事な書類。大学へ確認してみると、三カ月有効だから旅行中はこれでいけるだろう、とのこと。
ほんとか?
ちょっとそれには疑問を感じるけれど、各地での登記上問題ないのならいい。
旅でいちばんわくわくするのは、出発の直前。
おかしなもので、宜賓を離れるのが惜しくてこのあともだらだら街を散歩し、旅の出発を惜しんだ。早く出発しろよ、と自分でも思うけれども。
しばらくは自貢だから、お昼ごはんはここで食べていこうと、慣れた道に店を選んだ。お昼ご飯といっても、もう16時という時間である。

選んだのは、宜賓の街中にでんとする中華建築、大観楼から東にのびる通り、東街の中頃からひょいと曲がったところにある庶民的な食堂だ。
食堂というのも少し違和感がある。というのも、店の奥行きはわずか1mほど。そこによくもここでというようにうまく、調理場とテーブルが四つ並んでいる。もはや部屋の形状を成していないが、これでも‟食堂“といっていいだろうか。
宜賓にはこのように、奥行きがほぼないに等しいお店が多々ある。
場所のコストパフォーマンスは秀逸だ。これには、ドアがない開放的な食堂が一般に受け入れられている中国、四川の風土もあるだろう。
こんな奥行き1mほどのお店だが、従業員は三人もいる。さらに「スタッフ募集」の張り紙まである。
おばあちゃんが奥にある狭い流しの端を利用して野菜を切り、敷地ぎりぎりに設置された調理台で麺をゆでるのはもう一人の女性。お客に声をかける女性はお客用のテーブルに腰かけて抄手の皮で餡を包む。
いつ通りがかってもお客が多い店で、商売もなかなかよさそうだと感じていた。面積当たりの売り上げなんていう数値が出るならば、それが意味があるかないかは置いておいて、ここはピカイチだろうと思う。

頼んでみたのは、初めて目にした熏肉麺に三鮮抄手。
熏肉麺は、スープ麺を期待していたらまさかの汁なし麺だった。字面から、燻製肉だろうか。牛肉が入った油麺で、味付け自体は宜賓名物燃麺と同じピリ辛。
三鮮は、三鮮麺というのをこちらでよく見かけるので、宜賓の麺だと思っていた。けれど百度で見てみるとそういうわけでもなさそう。
よく行く麵屋さんでいつも「ない」と言われるのでその実態を知ることはなかったが、辛くない清湯麺だということだけはわかっていた。今回はその抄手版。
百度では、エビやアワビ、筍を使った麺だと紹介されていたが、おそらく宜賓の三鮮麺はそれほど豪華ではないだろう。どのお店も価格は5元から7元程度だからだ。案の定ここで出してくれた三鮮抄手もそう豪華な雰囲気はなく、昆布と少量の筍が入っているのみ。でも、これで十分おいしい。

こうしておなかいっぱいになり、時間を確認し驚いた。なんともう間もなく17時を迎える。自貢がいくら宜賓の近隣都市でも、もう少しすれば長距離バスも最終が出てしまうだろう。
もうバスじゃ間に合わない、とやむなくタクシーで高速道路バスターミナルへ。宜賓は昨年ようやく高速鉄道の開通を迎えたが、自貢にはまだ高鉄がない。バスを逃せば、もう手段がなくなってしまう。
タクシーの運転手さんに急いでもらいバスターミナルへ。
心配していた外国人への警戒もなくすんなりバスチケットを購入し、17時半、無事に自貢へ向かうバスに乗車した。

自貢は、宜賓のすぐ北にある中級都市である。
四川省全体を見てみれば、宜賓と同じく四川盆地南部に位置し、省都の成都からは南に200㎞の距離にある。
私はすでに何度かこの都市を訪れていたけれど、観光で訪れたことはなく、いずれも日帰りだった。
先日も用事があり来ることがあったが、それも日帰り。けれどもふと思い立ちほんの少しだけ街を散策してみた。

古くから賑わうのは自流井区。
これは、自貢の代名詞といってもよい塩井戸、有名な自流井があった地区である。
宜賓が酒都なら、自貢は塩都。
古くから塩で栄えた地域で、自貢は塩で自貢たりえると言っても過言ではないほど。自貢の地名も、有名な塩井戸、自流井と貢井の頭二文字をとってその名としている。
この自貢の名の半分を担い、また政府機関があるのが都市の中心、自流井区だ。

このエリアを訪れるのはその時が初めてで、発展から遅れたようないかにも地方都市といった素朴な街並みが私の胸をきゅんとさせた。
バスを降りてすぐ、古いレンガ造りの煙突をみつけた。
古い工場に違いない。
そうしてそこに近づいてみようとするも、どうにもルートが見つからず、いつしか古い住宅地へ入っていた。

そこは一体、もう崩壊寸前というより、すでに崩壊していた。
建物はすでにゴミ屋敷となり、一歩踏み入れることさえもう不可能だった。
荒れ果て、もう建築物としての体を成していないそれら。もう捨てられて久しい時間が経っていることは誰の目にもあきらか。それでも残る、住所を示す標識。
こんなところに入る私は異常だな、と思った。それくらい、もうぼろぼろだったのだ。
それでも歩き回っていると、ここ一帯が政府により取り壊しが決定しすでに封鎖され、住民からは捨てられたエリアだということがわかった。
一体を取り囲むその中のいくつかの場所には出入口があったはずだが、それらは全て厳重に封鎖され立ち入り禁止になっていた。
なら私は不法侵入してしまったのだろうか。どうやら私は、たった一カ所の出入り口をみつけ、そこから入ってしまったようだった。

ゴミ屋敷の並びとなったかつての住宅地を歩いていると、開放された建物の入り口で大きな口を開けて眠るおじいさんがいた。
椅子に座ったまま、眠りに落ちている。おじいさんの大きく開けられた口をみるに、80歳は超しているだろう。
おじいさん、ここに一人、暮らしているの?
辺りは一帯、ゴミ屋敷。おじいさんの他には人の気配もない。夜はまっくらだろう。
おじいさんは服屋だった。
狭いその部屋にはたくさんの老人向けの服が掛っている。
ここじゃ、誰も通らないよ。もう、誰も買わないよ。
それでもそのおじいさんにとってはきっと、ここで毎日店を開け店先でお客を待つのが、今までずうっと繰り返してきた日常であり、そして今の日常なんだろう。
そんなふうに想像をして、とても寂しい気持ちになった。
みんないなくなったここに残って。広範囲に封鎖されたこの場所で、誰もいなくてもここに居続ける。
住民がひとり、またひとりとここを離れ、建物が崩壊しどの家も廃棄物の山になるその経過を、この椅子に座りながら眺め、どんな気持ちだったのだろう。
悲しい気持ちは余計なお世話だ。
でも、やっぱり悲しい気持ちになった。

こうして取り壊し地区を抜けて煙突を諦め、街を散策した。
北の方に歩いて行くとどこにもかしこにも、倒壊寸前の古い住居が散らばっている。
宜賓と似ているな、と思った。
形あるものいつかはそれが崩れ失われる。
この街も同様に、そうした時間の流れにあらがうことなく、さまざまなものの消滅を待っている。

街中には、張飛の廟である自貢桓候宮を見つけた。
しかしこちらも、正面はこれほどまでに精緻で美しいのに、すでに封鎖され、外から様子を伺うに内部はもう荒れ屋敷となっているみたいだった。清乾隆帝の時代に建設が始まったもののようで、各地によく見る同姓の出資により建てられた書院を思わせるような派手さ。よく見れば、陶器の破片が装飾に用いられている。
関羽の廟、関帝廟はたくさんあるが、張飛の廟はここ以外に見たことがない。なかなか珍しいものではないだろうか。
こうして自貢を少し散策しながら、この日大学から通知を得、四川省の各地を回る旅を諦め、近場である自貢と宜賓の周遊を決めたのだった。

自貢へ到着したのは18時半。
路線バスに乗り予約したホテルへ。ホテルは先日散策したばかりの自流井区を選んだ。
街の賑わいが始まる、釜渓河のほとり。雄飛假日酒店はなかなかよい立地だ。
ホテルのチェックインは予想通り多少難儀した。
前回と同様に私の行動履歴を説明し、ここで四川省の健康码と接続するも、「24時間以内に結果が出ます」の表示。これでは間に合わないよと、5月に珙県の役所職員に教えてもらい地元の警察に手伝ってもらい登録した国家政務服務平台に接続するも、あろうことか警察が設定してくれた暗証番号を思い出せない。
こうして四苦八苦しながらもようやく接続に成功し、危険区へ行っていない証明を表示することができた。見てみれば、さっそく私の行動履歴は「宜賓、自貢」に切り替わっている。…すごい。
さらに、案の定というべきか、「核酸検査結果証明はありますか?」とフロント。やっぱり病院に行き陰性結果をもらっておいてよかった。
ここで意外だったのは、自貢までの長距離バスのチケットの提示も求められたこと。これはかなり厳格なチェックだ。
今回の旅程でいちばん‟お街”の滞在となる、ここ自流井。これは今後の旅先が少し不安になる。
しかし心強いのは、私の旅程を事細かく市の機関や現地公安が先に知っておいてくれていることだ。おそらく、よほどのことがなければ受け入れてもらえるだろうと思う。
宜賓も自貢も、外国人が非常に少ない都市である。
特にここ数年になりようやく都市的発展に乗り出した宜賓は、外国人というだけで目立つ。
労働節の時の旅行では各地のお役所と関り、業務上とはいえ連絡先の交換もあり。中国のおもしろさではあって、このような業務的関わりであっても友達になったかのようなやり取りができることも少なくないし、実際今度行くときにも連絡入れてみようかなんて考えてもいる。
外国人が珍しい土地柄を活かして、各地の公安やお役所と知り合いになっておくことは、私にとってもメリットがある。今回の対外国人の厳しさは、見方を変えればこうした思わぬ機会を私に与えてくれたと、言えないこともない。

こうして、自貢最初の夜を迎えた。
22日間の、周遊。
おなかはあまり空いていなかったけれど、とりあえずホテルを出たのは23時過ぎ。雨がしとしと降っている。
部屋の窓からは釜渓河の色鮮やかなライトアップがまだ見えたけれど、昼間賑わっていた周辺は一帯灯りを落としていた。
河から北に、古くからの繁華街が広がっている。真っ暗な中にぽつりぽつりと電球を灯しながらいつ来るかわからないお客を待つタバコ売り。
私が覗くと、はっとこちらを見あげ、なんだか申し訳ない気持ちになる。ごめんね、私の目当ては夜食だよ…。

この辺りは十字口と呼ばれている。十字口のなだらかな傾斜を登っていくと、左手には一定の感覚であの閉鎖地区へ繋がる階段に出会う。そのすべてがレンガなどで固く封鎖されていることを私は知っている。
赤い中国結びの街灯に照らされた大通りから覗き込むと、それらは墨を塗ったように真っ暗だった。あのおじいさんはこの暗闇の中にいるのかな。
そうして歩いていくと、やがて大きな交差点へ。
左手には自貢市第一医院。
入り口横には、古びた病棟に張りぼてのように新し気な発熱外来窓口が、灯りをつけている。
宜賓には春節期間もコロナ患者が出なかったと聞いている。自貢には10数人出たと聞いている。全国的には軽傷だった地区だといえるだろう。それでもまだ、コロナウイルスは終息を向かえない。もうここにはいない。でも、また来るかもしれないから終われないのだ。そして、ずっとこの地にいるのだから状況は他の中国人と変わらないとはいっても、外国人ということで私は他人にプレッシャーを与えている。
この大通りはT字路になっている。
突き当りは右から左に傾斜していて、どちらに進もう。真っ暗でどちらもお店の気配はしなかったが、左手に下ってみることにした。前回散策した時は、古びた住宅が広がっていたエリアだ。
そうしてしばらく歩いて行くと、これが正解。
降り出した雨の中で、大きなシートを屋根にして、いくつもの露店が向こうに裸電球を連ねている。

さぁどのお店にしようなんて思ったけれど、最初のお店で声をかけられ、ついついそこに。
宜賓名物の烧烤のお店だった。

ここに来てまた烧烤かぁとも思うけれどこれは仕方ない。
日本でいえば焼き鳥屋さんみたいな感じ。
おなかがそう空いていなくても、ちょっと一杯。深夜までやっている呑兵衛にはもってこい。
私とそう変わらないくらいの夫婦だった。
かごを差し出してくれて、それに好きな串を載せる。宜賓は烧烤のメッカだけれど、烧烤は基本は複数でわいわい食べるもの。一本一本で選ばせてくれるお店は実はとても少ない。メニューごとに10本20本単位であることはざらで、中には30本なんてお店も。
そんな中、このかごに選ばせてくれるシステムはありがたかった。
せっかくだから、私が今まで出会ったことがない串を選ぼう、そうして選んだのがこちら。

お酒は白酒の郎酒とビール。
焼きあがった串をいただくと、口から火を吹くほど辛い。宜賓の烧烤もけっこう辛いものだが、自貢だから辛いのかそれともこの店が辛いのか、それとも唐辛子の塊に当たってしまったか。

とりわけ美味しかったのは、マントウのようなもの。
実態は未確認だが、一口大のマントウらしきものがなんと烧烤としてみごとに成立している。
さらに興味を持った、日本でいうチーズボールみたいな揚げ物みたいな串。こちらはチーズボールではなかったが、食感はマントウの方と似ていて、なんだか揚げパンのよう。
それから意外なうまさだったのは、シイタケ。シイタケの烧烤はもちろん宜賓にも成都にもあるが、食感と味覚が日本人が想像するシイタケ串とはまったく違う。中国の烧烤でシイタケは、油をかなり吸いしなしなになる。そういうものなのだ。ところがこちらのシイタケは、まるで日本の焼き鳥屋さんで頼む香ばしいシイタケ串。ただ異なるのはその辛さだけ。
自貢まで来て私はやっぱりこれか、なんて思ったけれど、優し気な夫婦とともにこのお店が気に入った。
六晩ここに滞在するが、またぜひこのお店に来たいと思った。マントウの串だけでも来る価値ありだ。

そんなふうに満足しながらも、もう深夜1時を過ぎている。
奥さんはテーブルにふせ、もう一組のお客は帰った。親父さんは屋根代わりのシートにたまった雨水を、下から突いてじゃーっとこぼしている。
私もあまり長居はできないよな、と急ぎめにお酒を飲んでいると、一人の男性客が席に座った。
地面には子猫。生まれたばかりのような小さな子猫。
猫は野放しにしてよい生き物ではない。可愛さに目先だけ同情してはいけない。
そんな常識も日本ではまだまだ浸透しないけれど、中国にはその欠片もない。悪意ではなく、知らないのだ。
小さな小さな虎猫は、くりくりと大きな目をこちらに覗かせて私に警戒する。
「マオマオ」
そう言って手を叩くも、虎猫はびくっとして身構える。
私はしばらく放って、またそちらに目を向ける。しかし目を向けただけで、身構える。
お店の奥さんがそばを通った。
虎猫は警戒し、またびくっと身構えた。ここの飼い猫じゃあないんだ。
どうやら、烧烤のおこぼれを狙いに来る野良のようだ。こんなに小さくてお母さんはいないのかな。がりがりに痩せた子猫。
人の罪だよなぁと思う。

帰り道、もう深夜2時だった。
おばあちゃんが一人で店番をする小さな商店でビールと白酒を買い、歩いてホテルに戻る。
ぽたん、ぽたん。
と屋根を伝って落ちる雨音。
私にとって、とびきりの時間の始まりだ。きっとあっという間の22日間だろうから、こころから味わおう。
ぽたん、ぽたん。
釜渓河のライトアップはすっかり灯りを落とし、真っ暗。
こんなに真っ暗なのかと驚くほど、生活の気配を消した河のほとりだった。
〈記 7月20日 自貢・自流井にて〉
参考:
核酸検査費用 357.66元
宜賓市区路線バス 2元
燻肉麺・三鮮抄手 15元
柑橘ジュース 12元
宜賓市街→高速道路バスターミナル タクシー 15元
宜賓→自貢 長距離バス 28元
自貢市区路線バス 2元
烧烤 73元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈2日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
コロナウイルスの影響で2学期の授業開始が二カ月以上遅れ、16週分の授業を詰め込み、ようやく終了したのが7月第一週目。それからテストを行い、期末書類を作成し、よし一カ月半の夏休みだ!とこの7月20日から、22日間にも亘る近場旅行を急遽計画した。
元はと言えばこの夏は宜賓に越して初めての夏休みで、甘粛周遊を妄想していた。
夏には規制も緩むかなと、コロナへの警戒も緩み始めた街の様子を見て期待していたが、しかし期待は外れそれは依然厳しそうだった。
実際のところはもう、外国人であっても省外へ出ること自体は可能である。トラブルはあるだろうが、禁止されているわけではない。
けれども夏休みが近づき大学の事務方に相談してみると、不可の回答。
日本も同様だが、地元に根を張った高校以下の教育現場と異なり、大学は学生が全国に散らばる。そういった面がありかなり慎重になっているようだ。
大学教師としては仕方ないかなとそれは受け入れている。
「でも、四川省内ならいいよ」
事務の先生はそう言ってくれた。そうして成都を出発点にして四川の田舎を回ってみようと考えてみたが、これも7月のある日。大学上層部の会議で、外国籍のみ移動を制限すると、新たな通達が発表されてしまった。
「成都で会おうね」
秋から他省の大学院への進学を決めた学生と会う約束をしていたが、それも不可となった。仮に行先が成都だとしても、私の場合、もし行けば大学の許可が出るまで宜賓へ戻れなくなる。さらに許可を得て戻ってから自費で二週間の隔離。
それはさすがにしんどいなと、おとなしく近場旅行を決めた。聞いたところによると、重慶のある大学は中国籍の先生までみな旅行自体禁止になったそうなので、「楽しんでね」と温かく声をかけてもらえただけでもありがたかった。
そうしていよいよ決定した自貢・宜賓周遊旅行である。
決めたはいいが、6月7月は忙しく、準備もろくにできずに出発となってしまった。
それでもなんとか事前に旅行計画書を作成し、大学事務へ提出していた。自分でいうのもなんだが、詳細かつ完璧な旅行計画書である。
これをPDFで事務へ送り、旅行中は時々報告を入れる。そして帰宅したら利用したすべての交通機関のナンバーなどの情報を報告することになっている。
これらは労働節旅行のトラブルを踏まえているので、そういう意味では前回のあれこれは役に立っているといえる。
大学、ホテル、派出所、公安、出入境管理局…多くの人へかける面倒と引き換えに得られる旅の楽しみ。今でも時折、もうどこの派出所やお役所か混乱するほど、携帯に「その後」の確認の電話が入ってくる。
悪いけれど、お願いします。とこころの中で。
しかし今回は事前に自貢、宜賓の出入境管理局に私の旅行計画書は送付済みで、どこにいついて何をするのか明確になっているので、前回ほどの混乱はないだろうと期待している。
下調べはろくにできなかった。しかしいよいよ出発だ。
ところが出発数日前に学生の論文チェックがどかんと回ってきて、連日徹夜状態となってしまった。自分に火をつけて仕事が片付いたのは、前日の夜だった。
7月8月は無給なのに、私頑張るなぁ、なんて思ったけれど。ああ、1月から5月まで半年近く有給で休んだじゃないかと思い返す。今年は異常な年になったなぁと思うけれど、しかし毎年繰り返しいうような異常気象、あんなのと同様にもう何が異常で何が通常なのかわからない。
それでも自分自身は平穏に生活できていること、これに感謝しよう。

徹夜続きが終わりを迎え、明日は出発という前夜。
遅い時間だったけれど街へ繰り出し、深夜というか、もうすぐ朝を迎える時間までザリガニを肴に飲んだ。
それだけ、解放感でいっぱいな夜だった。
午前10時頃にアラームで起き、けれども寝不足でふらふら。
少しずつエンジンを温めるように、部屋の掃除をし、洗濯をし、旅行の荷物を準備し、部屋のコンセントを抜き。
マンションを出たのはもう14時を過ぎた時間だった。

まず向かったのは、老城区にある宜賓市第二医院。
前回のトラブルを踏まえ、今回は事前に核酸検査を受けていた。受けたのは木曜日、四日前。その結果をコロナ陰性証明書として旅先で提示することができる。
前回行く先々で提出を求められたのは、隔離証明だった。それはもう何度も隔離施設のスタッフと話したけれど「そういうものはない」で話は進まないし、3月にやった隔離証明なんぞ今意味があるのかとも思うしで、それなら陰性証明書を持っておこうと考えた。
日本でも散々いわれているように、陰性証明だって完全ではないだろう。でもないよりはある方がいいに決まっているし、中国では陰性結果=大丈夫、という認識で規定としては通るので、あれば有効だ。
ちょっと古びた病院で、発熱外来窓口となっているのは感染症対応の病棟だった。おそらくコロナで特別に用意された窓口だろう。隔離施設にいた時とは異なり、今度は喉の粘膜を採取した。それから採血。
総額で357.66元、日本円で5700円ほど。日本では4万~5万円すると聞いたから、安くて助かった。
初めての病院でてこずった。まず迷う。もう20人ほどに窓口を訊いたが、人によって答えがまったく違うしで…。受付や支払いなどの流れも日本とはまったく違い、それは検査日だけでなく検査結果受け取りの今日も同じような状態になってしまった。
無事検査結果を受け取ると、血液検査、喉の粘膜採取、ともに陰性が表示されていた。ぺらぺらな紙二枚で破いてしまいそうだが、大事な書類。大学へ確認してみると、三カ月有効だから旅行中はこれでいけるだろう、とのこと。
ほんとか?
ちょっとそれには疑問を感じるけれど、各地での登記上問題ないのならいい。
旅でいちばんわくわくするのは、出発の直前。
おかしなもので、宜賓を離れるのが惜しくてこのあともだらだら街を散歩し、旅の出発を惜しんだ。早く出発しろよ、と自分でも思うけれども。
しばらくは自貢だから、お昼ごはんはここで食べていこうと、慣れた道に店を選んだ。お昼ご飯といっても、もう16時という時間である。

選んだのは、宜賓の街中にでんとする中華建築、大観楼から東にのびる通り、東街の中頃からひょいと曲がったところにある庶民的な食堂だ。
食堂というのも少し違和感がある。というのも、店の奥行きはわずか1mほど。そこによくもここでというようにうまく、調理場とテーブルが四つ並んでいる。もはや部屋の形状を成していないが、これでも‟食堂“といっていいだろうか。
宜賓にはこのように、奥行きがほぼないに等しいお店が多々ある。
場所のコストパフォーマンスは秀逸だ。これには、ドアがない開放的な食堂が一般に受け入れられている中国、四川の風土もあるだろう。
こんな奥行き1mほどのお店だが、従業員は三人もいる。さらに「スタッフ募集」の張り紙まである。
おばあちゃんが奥にある狭い流しの端を利用して野菜を切り、敷地ぎりぎりに設置された調理台で麺をゆでるのはもう一人の女性。お客に声をかける女性はお客用のテーブルに腰かけて抄手の皮で餡を包む。
いつ通りがかってもお客が多い店で、商売もなかなかよさそうだと感じていた。面積当たりの売り上げなんていう数値が出るならば、それが意味があるかないかは置いておいて、ここはピカイチだろうと思う。

頼んでみたのは、初めて目にした熏肉麺に三鮮抄手。
熏肉麺は、スープ麺を期待していたらまさかの汁なし麺だった。字面から、燻製肉だろうか。牛肉が入った油麺で、味付け自体は宜賓名物燃麺と同じピリ辛。
三鮮は、三鮮麺というのをこちらでよく見かけるので、宜賓の麺だと思っていた。けれど百度で見てみるとそういうわけでもなさそう。
よく行く麵屋さんでいつも「ない」と言われるのでその実態を知ることはなかったが、辛くない清湯麺だということだけはわかっていた。今回はその抄手版。
百度では、エビやアワビ、筍を使った麺だと紹介されていたが、おそらく宜賓の三鮮麺はそれほど豪華ではないだろう。どのお店も価格は5元から7元程度だからだ。案の定ここで出してくれた三鮮抄手もそう豪華な雰囲気はなく、昆布と少量の筍が入っているのみ。でも、これで十分おいしい。

こうしておなかいっぱいになり、時間を確認し驚いた。なんともう間もなく17時を迎える。自貢がいくら宜賓の近隣都市でも、もう少しすれば長距離バスも最終が出てしまうだろう。
もうバスじゃ間に合わない、とやむなくタクシーで高速道路バスターミナルへ。宜賓は昨年ようやく高速鉄道の開通を迎えたが、自貢にはまだ高鉄がない。バスを逃せば、もう手段がなくなってしまう。
タクシーの運転手さんに急いでもらいバスターミナルへ。
心配していた外国人への警戒もなくすんなりバスチケットを購入し、17時半、無事に自貢へ向かうバスに乗車した。

自貢は、宜賓のすぐ北にある中級都市である。
四川省全体を見てみれば、宜賓と同じく四川盆地南部に位置し、省都の成都からは南に200㎞の距離にある。
私はすでに何度かこの都市を訪れていたけれど、観光で訪れたことはなく、いずれも日帰りだった。
先日も用事があり来ることがあったが、それも日帰り。けれどもふと思い立ちほんの少しだけ街を散策してみた。

古くから賑わうのは自流井区。
これは、自貢の代名詞といってもよい塩井戸、有名な自流井があった地区である。
宜賓が酒都なら、自貢は塩都。
古くから塩で栄えた地域で、自貢は塩で自貢たりえると言っても過言ではないほど。自貢の地名も、有名な塩井戸、自流井と貢井の頭二文字をとってその名としている。
この自貢の名の半分を担い、また政府機関があるのが都市の中心、自流井区だ。

このエリアを訪れるのはその時が初めてで、発展から遅れたようないかにも地方都市といった素朴な街並みが私の胸をきゅんとさせた。
バスを降りてすぐ、古いレンガ造りの煙突をみつけた。
古い工場に違いない。
そうしてそこに近づいてみようとするも、どうにもルートが見つからず、いつしか古い住宅地へ入っていた。

そこは一体、もう崩壊寸前というより、すでに崩壊していた。
建物はすでにゴミ屋敷となり、一歩踏み入れることさえもう不可能だった。
荒れ果て、もう建築物としての体を成していないそれら。もう捨てられて久しい時間が経っていることは誰の目にもあきらか。それでも残る、住所を示す標識。
こんなところに入る私は異常だな、と思った。それくらい、もうぼろぼろだったのだ。
それでも歩き回っていると、ここ一帯が政府により取り壊しが決定しすでに封鎖され、住民からは捨てられたエリアだということがわかった。
一体を取り囲むその中のいくつかの場所には出入口があったはずだが、それらは全て厳重に封鎖され立ち入り禁止になっていた。
なら私は不法侵入してしまったのだろうか。どうやら私は、たった一カ所の出入り口をみつけ、そこから入ってしまったようだった。

ゴミ屋敷の並びとなったかつての住宅地を歩いていると、開放された建物の入り口で大きな口を開けて眠るおじいさんがいた。
椅子に座ったまま、眠りに落ちている。おじいさんの大きく開けられた口をみるに、80歳は超しているだろう。
おじいさん、ここに一人、暮らしているの?
辺りは一帯、ゴミ屋敷。おじいさんの他には人の気配もない。夜はまっくらだろう。
おじいさんは服屋だった。
狭いその部屋にはたくさんの老人向けの服が掛っている。
ここじゃ、誰も通らないよ。もう、誰も買わないよ。
それでもそのおじいさんにとってはきっと、ここで毎日店を開け店先でお客を待つのが、今までずうっと繰り返してきた日常であり、そして今の日常なんだろう。
そんなふうに想像をして、とても寂しい気持ちになった。
みんないなくなったここに残って。広範囲に封鎖されたこの場所で、誰もいなくてもここに居続ける。
住民がひとり、またひとりとここを離れ、建物が崩壊しどの家も廃棄物の山になるその経過を、この椅子に座りながら眺め、どんな気持ちだったのだろう。
悲しい気持ちは余計なお世話だ。
でも、やっぱり悲しい気持ちになった。

こうして取り壊し地区を抜けて煙突を諦め、街を散策した。
北の方に歩いて行くとどこにもかしこにも、倒壊寸前の古い住居が散らばっている。
宜賓と似ているな、と思った。
形あるものいつかはそれが崩れ失われる。
この街も同様に、そうした時間の流れにあらがうことなく、さまざまなものの消滅を待っている。

街中には、張飛の廟である自貢桓候宮を見つけた。
しかしこちらも、正面はこれほどまでに精緻で美しいのに、すでに封鎖され、外から様子を伺うに内部はもう荒れ屋敷となっているみたいだった。清乾隆帝の時代に建設が始まったもののようで、各地によく見る同姓の出資により建てられた書院を思わせるような派手さ。よく見れば、陶器の破片が装飾に用いられている。
関羽の廟、関帝廟はたくさんあるが、張飛の廟はここ以外に見たことがない。なかなか珍しいものではないだろうか。
こうして自貢を少し散策しながら、この日大学から通知を得、四川省の各地を回る旅を諦め、近場である自貢と宜賓の周遊を決めたのだった。

自貢へ到着したのは18時半。
路線バスに乗り予約したホテルへ。ホテルは先日散策したばかりの自流井区を選んだ。
街の賑わいが始まる、釜渓河のほとり。雄飛假日酒店はなかなかよい立地だ。
ホテルのチェックインは予想通り多少難儀した。
前回と同様に私の行動履歴を説明し、ここで四川省の健康码と接続するも、「24時間以内に結果が出ます」の表示。これでは間に合わないよと、5月に珙県の役所職員に教えてもらい地元の警察に手伝ってもらい登録した国家政務服務平台に接続するも、あろうことか警察が設定してくれた暗証番号を思い出せない。
こうして四苦八苦しながらもようやく接続に成功し、危険区へ行っていない証明を表示することができた。見てみれば、さっそく私の行動履歴は「宜賓、自貢」に切り替わっている。…すごい。
さらに、案の定というべきか、「核酸検査結果証明はありますか?」とフロント。やっぱり病院に行き陰性結果をもらっておいてよかった。
ここで意外だったのは、自貢までの長距離バスのチケットの提示も求められたこと。これはかなり厳格なチェックだ。
今回の旅程でいちばん‟お街”の滞在となる、ここ自流井。これは今後の旅先が少し不安になる。
しかし心強いのは、私の旅程を事細かく市の機関や現地公安が先に知っておいてくれていることだ。おそらく、よほどのことがなければ受け入れてもらえるだろうと思う。
宜賓も自貢も、外国人が非常に少ない都市である。
特にここ数年になりようやく都市的発展に乗り出した宜賓は、外国人というだけで目立つ。
労働節の時の旅行では各地のお役所と関り、業務上とはいえ連絡先の交換もあり。中国のおもしろさではあって、このような業務的関わりであっても友達になったかのようなやり取りができることも少なくないし、実際今度行くときにも連絡入れてみようかなんて考えてもいる。
外国人が珍しい土地柄を活かして、各地の公安やお役所と知り合いになっておくことは、私にとってもメリットがある。今回の対外国人の厳しさは、見方を変えればこうした思わぬ機会を私に与えてくれたと、言えないこともない。

こうして、自貢最初の夜を迎えた。
22日間の、周遊。
おなかはあまり空いていなかったけれど、とりあえずホテルを出たのは23時過ぎ。雨がしとしと降っている。
部屋の窓からは釜渓河の色鮮やかなライトアップがまだ見えたけれど、昼間賑わっていた周辺は一帯灯りを落としていた。
河から北に、古くからの繁華街が広がっている。真っ暗な中にぽつりぽつりと電球を灯しながらいつ来るかわからないお客を待つタバコ売り。
私が覗くと、はっとこちらを見あげ、なんだか申し訳ない気持ちになる。ごめんね、私の目当ては夜食だよ…。

この辺りは十字口と呼ばれている。十字口のなだらかな傾斜を登っていくと、左手には一定の感覚であの閉鎖地区へ繋がる階段に出会う。そのすべてがレンガなどで固く封鎖されていることを私は知っている。
赤い中国結びの街灯に照らされた大通りから覗き込むと、それらは墨を塗ったように真っ暗だった。あのおじいさんはこの暗闇の中にいるのかな。
そうして歩いていくと、やがて大きな交差点へ。
左手には自貢市第一医院。
入り口横には、古びた病棟に張りぼてのように新し気な発熱外来窓口が、灯りをつけている。
宜賓には春節期間もコロナ患者が出なかったと聞いている。自貢には10数人出たと聞いている。全国的には軽傷だった地区だといえるだろう。それでもまだ、コロナウイルスは終息を向かえない。もうここにはいない。でも、また来るかもしれないから終われないのだ。そして、ずっとこの地にいるのだから状況は他の中国人と変わらないとはいっても、外国人ということで私は他人にプレッシャーを与えている。
この大通りはT字路になっている。
突き当りは右から左に傾斜していて、どちらに進もう。真っ暗でどちらもお店の気配はしなかったが、左手に下ってみることにした。前回散策した時は、古びた住宅が広がっていたエリアだ。
そうしてしばらく歩いて行くと、これが正解。
降り出した雨の中で、大きなシートを屋根にして、いくつもの露店が向こうに裸電球を連ねている。

さぁどのお店にしようなんて思ったけれど、最初のお店で声をかけられ、ついついそこに。
宜賓名物の烧烤のお店だった。

ここに来てまた烧烤かぁとも思うけれどこれは仕方ない。
日本でいえば焼き鳥屋さんみたいな感じ。
おなかがそう空いていなくても、ちょっと一杯。深夜までやっている呑兵衛にはもってこい。
私とそう変わらないくらいの夫婦だった。
かごを差し出してくれて、それに好きな串を載せる。宜賓は烧烤のメッカだけれど、烧烤は基本は複数でわいわい食べるもの。一本一本で選ばせてくれるお店は実はとても少ない。メニューごとに10本20本単位であることはざらで、中には30本なんてお店も。
そんな中、このかごに選ばせてくれるシステムはありがたかった。
せっかくだから、私が今まで出会ったことがない串を選ぼう、そうして選んだのがこちら。

お酒は白酒の郎酒とビール。
焼きあがった串をいただくと、口から火を吹くほど辛い。宜賓の烧烤もけっこう辛いものだが、自貢だから辛いのかそれともこの店が辛いのか、それとも唐辛子の塊に当たってしまったか。

とりわけ美味しかったのは、マントウのようなもの。
実態は未確認だが、一口大のマントウらしきものがなんと烧烤としてみごとに成立している。
さらに興味を持った、日本でいうチーズボールみたいな揚げ物みたいな串。こちらはチーズボールではなかったが、食感はマントウの方と似ていて、なんだか揚げパンのよう。
それから意外なうまさだったのは、シイタケ。シイタケの烧烤はもちろん宜賓にも成都にもあるが、食感と味覚が日本人が想像するシイタケ串とはまったく違う。中国の烧烤でシイタケは、油をかなり吸いしなしなになる。そういうものなのだ。ところがこちらのシイタケは、まるで日本の焼き鳥屋さんで頼む香ばしいシイタケ串。ただ異なるのはその辛さだけ。
自貢まで来て私はやっぱりこれか、なんて思ったけれど、優し気な夫婦とともにこのお店が気に入った。
六晩ここに滞在するが、またぜひこのお店に来たいと思った。マントウの串だけでも来る価値ありだ。

そんなふうに満足しながらも、もう深夜1時を過ぎている。
奥さんはテーブルにふせ、もう一組のお客は帰った。親父さんは屋根代わりのシートにたまった雨水を、下から突いてじゃーっとこぼしている。
私もあまり長居はできないよな、と急ぎめにお酒を飲んでいると、一人の男性客が席に座った。
地面には子猫。生まれたばかりのような小さな子猫。
猫は野放しにしてよい生き物ではない。可愛さに目先だけ同情してはいけない。
そんな常識も日本ではまだまだ浸透しないけれど、中国にはその欠片もない。悪意ではなく、知らないのだ。
小さな小さな虎猫は、くりくりと大きな目をこちらに覗かせて私に警戒する。
「マオマオ」
そう言って手を叩くも、虎猫はびくっとして身構える。
私はしばらく放って、またそちらに目を向ける。しかし目を向けただけで、身構える。
お店の奥さんがそばを通った。
虎猫は警戒し、またびくっと身構えた。ここの飼い猫じゃあないんだ。
どうやら、烧烤のおこぼれを狙いに来る野良のようだ。こんなに小さくてお母さんはいないのかな。がりがりに痩せた子猫。
人の罪だよなぁと思う。

帰り道、もう深夜2時だった。
おばあちゃんが一人で店番をする小さな商店でビールと白酒を買い、歩いてホテルに戻る。
ぽたん、ぽたん。
と屋根を伝って落ちる雨音。
私にとって、とびきりの時間の始まりだ。きっとあっという間の22日間だろうから、こころから味わおう。
ぽたん、ぽたん。
釜渓河のライトアップはすっかり灯りを落とし、真っ暗。
こんなに真っ暗なのかと驚くほど、生活の気配を消した河のほとりだった。
〈記 7月20日 自貢・自流井にて〉
参考:
核酸検査費用 357.66元
宜賓市区路線バス 2元
燻肉麺・三鮮抄手 15元
柑橘ジュース 12元
宜賓市街→高速道路バスターミナル タクシー 15元
宜賓→自貢 長距離バス 28元
自貢市区路線バス 2元
烧烤 73元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈2日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
スポンサーサイト
2020-09-01
自貢・宜賓22日間周遊 〈2日目〉 自貢・自流井
2020年7月21日、朝9時頃。激しいノックのあと「掃除するからそのまま寝ていて」とおばちゃんたちが部屋に入り掃除をしてくれた記憶の次は、もう昼の12時だった。
5月に仕事が再開してから徐々に徐々に寝る時間が遅くなり、学期末の多忙を言い訳にはできないが、最近では朝を迎えてからようやく眠り、昼過ぎに起きるのが習慣になってしまっていた。
せっかくの旅行、これではもったいない。焦りとともにホテルを出発したのは13時だった。
濡れるか濡れないかくらいの小雨が降り、気温はそう高くないのに汗がべたべたしそうな湿気だ。
今日の予定は二つの博物館。‟自貢塩業歴史博物館”に、‟恐竜博物館”。
自貢を代表する三つのキーワード、塩、恐竜、灯会。
今日はまず、塩と恐竜について触れてみようと考えている。
もともとは箱物施設があまり好きではない私で、たとえば地名がつく**博物館なんてのは中国の観光では定番ルートだが、私はあまり好まない。しかし敢えて、今回の旅行スタートは博物館めぐりで決めてみた。
まず行こうと決めていたのは、塩業歴史博物館。
前回の散策で、釜渓河に突き出すような中華建築をすぐそこに見つけ、地図で見てみればどうやらあれが塩業博物館のようだった。まずは一番行きやすいところから行ってみよう。

ホテルを出て川沿いに、解放路を北上した。すると程なくして前回の散策で見つけた張飛の廟、桓候宮が見えてきた。
やっぱりあまりにも壮麗だ。しかし、門を覗くことさえ許さないというように、巨大な板で入り口は塞がれている。

ここから右折し釜渓河へ出た。こちらはホテル方面を振り返って。
少し高めのビルの向こうに小さく見えるのが宿泊しているホテルだ。
河には何人か人が下りていて、雨の中釣りを楽しんでいる。そういえばこの前も、ここで老人たちが独特の方法で釣りに盛り上がっていたなぁと思い出す。
こちら側の岸からまるで吊り橋のように釣り糸を対岸に架ける。どうやって架けたのかはわからないが、すこし弛んだそれには、一定の感覚で釣り針がついた釣り糸が垂れているのだ。水面に浸かった針には見事に小魚が食らいついていた。

そのまま川沿いに歩いて行くと、その先には川に突き出したような中華伝統建築が目立っている。
そして前回は気づかなかったが、その向こうにもそれは豪奢な寺院が見えた。

建物に近づき、これが塩業博物館だろうと覗いてみると、しかしどうも違う。
門の上部には、‟王爺宮“の文字。

内部はお茶館になっていて、お茶しないでタダで覗くのはちょっとよくないような雰囲気だ。
建物、特に屋根が素晴らしく、調べていないがおそらく清代建築だろう。これは今度、時間がある時に改めてお茶しに来よう。
地図を見てみると、塩業歴史博物館はこの一歩内側の通りだった。先ほど桓候宮で右折せずにそのまま進めばよかったのだ。
けれども、本当にすぐそこ。巨大で豪奢は建築はかなりの存在感を放ち、近づく前にそれとわかった。

激しい軒ぞり、重なる屋根。それはまるで、動物が角でおのれの強さを示すかのように、豪勢さをアピールしている。

入場口には体温計を持った係員がいて、国家政務服務平台で健康コードを出すよう指示が書いてある。まずはチケットを購入し、そこで登記表に記入する。そしてここで入場する時にも検温し、表に記入する。
私の名前を見て、「少数民族か?外国人か?」と訊かれ少しひやりとしたけれど、「外国人」と答えるとすんなり入れてもらえた。

こちらは、入り口でお客を出迎えるかつての写真。

自貢は、別名を塩都―古代から塩業で栄えた場所である。
日本では塩といえば海水から得られる塩だが、広大な大地と数億年もの地質的な歴史をもつ中国は海水に依存しない。
内陸部には塩を得る手段として塩湖があり、また井戸を掘り地下から塩水を汲み取る方法もある。
そういえば昨年10月の青海省西寧旅行では、塩の売買で栄えた小さな集落を見つけた。そしてその塩とは塩湖から採られたものだった。新疆を旅していても、大地に白い塊がまるで雪のように散らばるのをよく目にする。
新疆、青海、チベットなど、こうした超内陸地は塩湖による塩業が盛んだ。
では一方で井戸式の採塩はというと、こちらは四川を中心とした中国南部の内陸地、その中でもとりわけ盛んだったのが、窪んだ地形に位置するここ自貢地域だというわけだ。

千年塩都の呼び名をもつ、自貢。
その地名も、塩井戸で有名な自流井と貢井の頭文字から命名されているものだ。
この地区における塩業、その初めの記録を見つけることができるのは後漢時代。日中戦争期に沿岸部が壊滅的打撃を受け海水を利用した採塩が難しくなってからは、自貢地区の塩業は軍需を得、さらに栄えた。結果、軍需により都市に制定された場所である。
もっとも塩業が栄えた清から民国時代にかけては、この自流井地区だけでも1000に近いほどの塩井戸があったのだとか。しかもその時すでに廃井戸になっていたものは、なんと11800以上。これはちょっと、栄えたとか特産だったとか、もうそういうレベルを超えている。
自貢といえば、自貢料理。
四川を代表する美食であり、美食王国四川の中でも自貢は美食の府といわれる。その自貢料理は、肝心の肉よりもはるかに大量に使用した山盛りの唐辛子と、それからここで採られた塩。
まさしく、塩なければこの都市なし、といっても過言ではない。
このように、自貢を知りたければ塩の歴史を学ばなければ話にならない、と来てみた塩業歴史博物館である。
私でもあの鋭角三角形が林立する塩井戸の姿は知っていたけれど、でもあれがどういう仕組みでどうなっているのかは、知らなかった。

入場してみると、内部もそれは見事な建築だった。
ここは塩御殿―清乾隆帝の時代、1736年創建の西秦会館を改修して展示館にしたものだ。
会館の文字を見てわかるように、こちらは同郷の商人が出資して建てられたもの。陝西省の塩商人の御殿だという。

その豪奢さ、壮麗さ、細部に施された縁起。
ただ塩というひとつの産物だけで、どれだけ商業が栄えたのか視覚的に伝わってくる。
建物の保存状態も非常にいい。

この広場をぐるりと取り囲むようにしたロ型回廊が、展示室になっているようだ。
そこに上がろうと正面に進むと、子供が集まりなにか演目の練習をしていた。


それでは、展示を一つひとつ見ていこう。
まずは、中国で行われている塩業について。こちらは塩業分布図。
青が、海水による採塩地区。
緑が、塩湖による採塩地区。
そして赤が、井戸式の採塩地区。
黄色は塩業なし。
中国において海水による採塩は、5、6千年も前にすでに始まっていた。21世紀初頭、その生産量は2600万トンに達し、中国国内でのシェアは70%以上、世界第一の生産量。
一方塩湖による採塩の歴史は、2、3千年前に遡る。とりわけ青海省は塩の世界と呼ばれるほどの産地で、今世紀初頭、中国における塩湖からの生産量は370万トンに達し、国内シェアは10%ほど。
そして自貢に代表される井戸式採塩の歴史は二千年以上前、戦国時代に遡る。国内の埋蔵量は64000億トンと推定され、そのうち四川、重慶における埋蔵量は60500億トンだといわれている。
今世紀までに採掘された塩はすでに742万トンに達し、国内のシェアは20%前後。
と、このような解説に引き込まれる。
このような規模は広大な大地をもつ中国だからこそ。より広大な領土を得ようとしてきた中国の歴史がなんとなく気持ちわかったような気分になる。

こちらは、四川周辺の拡大。
塩の生産地が、自貢を中心とした四川南東部に集中しているのがわかる。
この中でも抜きんでた塩産地だった自貢に井戸式採塩の歴史が登場するのは、後漢時代の76~88年。晋代に規模が拡大し、唐宋代にその名が広まり、明清代にさらなる発展をしもっとも栄えた。現代に至っても塩都としての地位はゆるがず、自貢における年間生産量は200万トンを超す。

こちらは塩鉱石。
岩塩とはまた違うのだ。自貢でも西部には岩塩の産地があるようだが、自貢の採塩対象には、地下塩水とともにこのような塩鉱石がある。

こちらは凛々しい表情の男性像。
誰かと思えば、都江堰を建設した李氷だった。李氷は、都江堰の建設により四川一帯の治水を行い、肥沃な大地をもたらした功績で有名な人だ。
しかしその李氷がまさか塩井戸建設にも関わっていたとは。彼は前255年~前251に蜀郡守となり、その際治水の経験を生かして、現在の成都双龍地区に中国初めての塩井戸を掘ったのだという。
私はこのことを知らなかったが、都江堰だけでなく、こちらももっとアピールされるべき功績ではないだろうか。それとも私が知らなかっただけで、世の中では常識なのか。
現代の中国のすがたも、彼の努力と知恵があってこそ存在するのだと思うと、偉人という言葉では足りないような偉大な存在に思う。

続いては、前漢時代に用いられた工具。これらを使って井戸は掘られたのだろうか。

各地の採塩遺跡の紹介や各地の塩井戸の紹介が古い展示とともに並ぶ。
その中で、こちらは重慶の雲陽の塩井戸の様子。
もくもくと上がる白いものは煙ではなく湯気。塩水を煮る湯気なのだという。
巨大な井戸に、釣瓶が落とされる。この中に落ちたら大変だ。想像もしていなかった井戸の半径の大きさに驚いた。

こちらはスポイトのように柄を引き吸い上げる塩井戸。

体験コーナーがあったが、スポイトを引けば圧はかかるし水が引き上げられる感覚もあったのだけど、とうとう水は出てこなかった。

塩井戸と一言にいっても、まったく様々なのだということがわかる。
このように各地の井戸の様子が模型になり展示されているのだけど、残念なことに光が反射してよく見えなかった。

続いていよいよ、自貢式の塩井戸の展示へ。
自貢をはじめ四川の各地では多く、‟卓筒式“という方法が採用されていた。それは革新的な採塩方式で、後世にも技術的な恩恵を与える発明だったようだ。
数多くの、卓筒式にまつわる資料が展示されていた。

初めは説明を読んでもよく理解できなかったが、‟卓筒式井戸”とは私流の翻訳にすると、‟テコと車の原理を利用した人力ドリルにより大地を掘り進め、湧き出た塩水を竹筒スポイトで吸収する式”の井戸、となる。
と、それはわかったが、現存する資料やレプリカの展示を見ても、どうもいまいち想像ができない。


ドリル部分にもいろいろあるようだ。
このシャベル状の長い鉄棒もそう。

これもそう。

それから時代を進めると、もっと複雑に進化した、まるで武器のようなドリルも登場する。

鉄製の物がドリルで、竹筒状のものがスポイト。
竹の王国である四川。竹の形状と丈夫さは、まさしく適材適所の使われ方だ。

また模型があり、この模型を見てようやく仕組がわかった。
初めに見た巨大な組木は、ここに人が乗りテコでドリルを上下させるものだった。組木には木板が載り、そこを人の足で体重をかけると、てこの原理で繋がり吊り下げられた鉄製ドリルが上下する。その圧によって井戸最深部は削られ、塩水が湧き出たのを今度は竹筒で吸い込むのだ。

このような写真も残る。
こちらは木板を踏むタイプではなく、車を回し塩水を吸い込んだ竹筒を引っ張り上げる。

こんなに大きな車もあった。こちらは車の中に人が入り、回す。
表現は悪いが、ハムスターの回し車を思い出した。

こちらは、井戸に組まれた天車の模型。
この鋭角の三角が当時は一帯に林立していたという。今では自貢塩井戸のイメージそのものとなった。
この三角のてっぺんから、釣瓶落としのように竹スポイトを落としまた引き上げる。

こちらは漢代の天車の模型。

そして左から右に、徐々に複雑化していく。

清代になり、このような三角状の天車に。

そして‟脚”の数はどんどん増えてきて、最後には12脚に。この12脚タイプは1950年代のものだという。


模型だと当然小さいが、現物はかなり巨大な建造物。
この一本一本の脚はまた、このように複数の木材をまとめて作られている。


こちらは天車の修復作業時の写真。
たくさんの人が脚の登っているが、人と天車の大きさの比に驚きだ。
高さもかなりあり、修復作業だけでもかなり危険なことだっただろう。

こちらは自貢歴代の井戸最高深度。
特筆すべきは1000mを超した清代で、そして60年代にはなんと3000mを超している。これはちょっと、想像ができない。富士山の高さとほぼ同じ?まさか。これはもう、人智や技術というよりもただ人の執念のようだ。

これら天車は人力で働くもの。
塩業で栄えたこの地の背景には、数知れない肉体労働、血と汗と涙がある。
ここに展示された写真には、採掘に携わった多くの労働者のすがたが写る。見ればだれもたくましい体つきをしていて、苦労と引き換えに得られた都市発展なのだと教えられる。


このロ字型展示室の奥にも、塩御殿は広がっている。それは豪勢なお屋敷だ。
奥もまた展示室になっていたので、軽く覗いてみた。

こちらは、自貢は塩の産地ですよ、恐竜の発掘現場ですよ、といった軽めの紹介だった。
映像があり、ちょっと見てみる。
数億年前、海の底から大地は隆起した。陸地となった新疆や青海やチベットに対し、四川一帯は低地だったために一面海のような湖―巴蜀湖を形成した。
その後、ジュラ紀だったか三畳紀だったか、ヒマラヤ山脈の地殻変動により巴蜀湖はだんだんと縮小し、そして四川盆地の中でもとりわけ陥没した自貢周辺に海水は集まった…とこんな感じだったかと思う。
遥かな古代、恐竜時代の恩恵を受ける人間。-古代のお塩、なんていってみればなんともロマンだ。

最後にこちらは、現代版天車の模型。
時代は変わり新たな技術が採用されても、基本原理は同じなんだなぁと感じさせる。こうした塩井戸発掘技術は、石油採掘にも大いに生かされているのだという。
塩業歴史博物館を出たのは、もうすぐ16時という時間。ここでもうすっかり恐竜博物館を諦めた。
明日は有名な塩井戸を見学しに行く。恐竜博物館はそのすぐ横なので、明日時間を見て行ってみよう、と二日目にしてすでに予定改変。

塩業博物館の横にはずらりと古い建築が並んでいた。
石造りの建物はなんとも清代を彷彿とさせる雰囲気で、おそらくそうなんだろう。中には塩やお酒など特産品を売るお店が入っている。


石造りはこの湿気地獄の四川でも持ちがいいが、一方で弱いのは木造建築。
この向こうに続く建物に古く装飾されたうだつは見事だったが、もう半分壊れた状態で、そのうちのいくつかはすでに立ち退き、内部は倒壊している。

四川は内陸にあるため、北京時間からすると日没が遅い。
今で20時を過ぎてようやく日没を迎える。
空がまだ明るさを残している20時前、夕ご飯を探しに出発した。

十字口を登り、五星街へ、檀木街とそこから裏道に入り探すが、どうも探しているような飲食の賑わいに出会わない。
小さな食堂はちらほらと見つかるのだけど、飲みたい私はもうすぐ閉店を迎えるだろうそれらを素通りした。
中国は広大で、沿岸部の首都北京から西の国境までは実質時差が4時間以上ある。それなのに全土統一時間を採用していて、実をいえばそれはそれで便利なのだけど、食事についていえば感覚がちょっと狂ってしまう。
四川は夜が遅いけれど生活に支障がないから生活は北京時間通りだし、それはいいけれども、起きる時間、食事の時間なんていうものも北京と全く同じ。
20時でまだ明るい。それなのに徐々に黄昏時を迎える時間に閉店の準備をする食堂は多い。夜はこれからなのに…。そうして私はいつも飲み屋にいってしまうのだ。

路地裏の真っ暗闇にいくつか素朴な食堂を見つけた。しかしここもやはり、すでに家族のまかないタイムに入っている。

こうしてうろうろしながら賑やかで明るい道を横に入っていった暗闇の中に、数店舗並ぶ自貢料理のお店を見つけた。
中を覗けば、お客が大量のお酒を開けて盛り上がっている。ここならばまだ閉店を迎えなさそうだ、そう思い入ってみた。
宜賓や成都であれば、店に‟自貢“などとどこの料理かわかるようにアピールしているからわかりやすい。けれども当たり前といえば当たり前か、自貢に来てみればこちらの料理はこちらでは日常なので、どれが自貢料理のお店かどれがご当地グルメか、見ただけではわからない。
お店の外からメニューを覗き、メニューで判断するしかない。
自貢料理は、辛くてしょっぱくて、それから大皿料理が多いのが特徴。
一人じゃ食べきれない、それを承知でやってきた。
「私は宜賓に住んでいる外国人なんだけど、どれが自貢のおすすめ?」
訊いてみると、やっぱり無難な料理を勧められてしまう。
「この牛肉ならひとりでも食べきれるよ」
牛肉もいいが、自貢はウサギが有名。まずはウサギ料理を食べたい。
以前食べたことある自貢料理はいずれもみなウサギ料理だった。昨年は冷吃兔を成都で食べた。冷吃兔もいいけど…と思いメニューの‟鮮鍋兔“を指し「これはどう?」と訊いてみる。
すると、「それはダメ、食べきれない」
でもなぁ、それを言うと一人行動をしている以上一生無縁になってしまう。
食べきれなかったら持ち帰るから、とそのまま鮮鍋兔を注文した。
「辛さは元のままでいい?」そう訊く老板に、
「元のまま!」と慌てて答える。


華やかな色彩、一皿56元、私にとってはぜいたくな一皿である。
真っ赤なスープに沈んだ細かなウサギ肉はなかなかお箸につかまってくれなくて難儀したが、おいしい。
レモングラスが入っているのかな?と思うような爽やかな辛さとしょっぱさ、酸味がある。もちろんレモングラスを使う料理ではないので、感覚違い。唐辛子に、花椒に、生姜に、大蒜。それから、塩。これらの調味料が手を繋いだ味覚だ。
あぁこれが‟鮮”の味かぁと納得する。
もう少しゆっくり飲みたかったけれど、お店をもう閉めたい様子。
食べきれないよと言われた大皿を完食し、昨晩見つけた烧烤ロードで飲み直すことにした。
やっぱりこの辺りで飲むならここで決まりのようだ。
ずらりと露天のお店が並び、いつ雨が降り出してもいいように上手にシートを掛けて屋根代わりにしている。
烧烤だけでなく、自貢料理のお店もたくさんあり(さらに露天席!)、他にも素朴な麺、などなどがずらりと深夜まで賑わいを見せている。商店もあるしケーキ屋さんも足マッサージのお店もあるし、滞在中はここで決まりだなとこころに決めた。

歩いていけば次々と声がかかる。
どのお店もテーブルがたくさんあるので、一人客の私が席を占領することもない。遠慮しなくていい雰囲気もいい。
けれど今夜はもうおなかいっぱい。
最後は昨晩と同じ烧烤に行き、食べ物よりもお酒メインでいくことにした。

「少しだけでもいい?」
そう訊くと、夫婦は私のことを覚えていてくれた。
「もちろんもちろん」と席を勧める。
私の目当ては、意外なうまさだったマントウの串。マントウがわずかに油を吸い香ばしくなり、さらに激辛なこの不思議な味覚。隣のお店にも見えたから、自貢ならではか、または宜賓にもあるのに私が知らないだけか。

すでに白酒を空けている。ビールにすべきか迷ったけれど、ここでも白酒でいくことにした。そうしてその後はビール。
なかなかに飲んで、老板奥さんが優しく接してくれたのも居心地がよかった。
「宜賓から旅行に来ていて、26日までここにいるよ」
また来るね、そういって帰路。
歌い出したくなるような、浮かれた気分の帰り道。
〈記 7月21日 自貢・自流井にて〉
参考:
塩業歴史博物館 20元
夕食(鮮鍋兔) 80元
烧烤 55元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈3日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
5月に仕事が再開してから徐々に徐々に寝る時間が遅くなり、学期末の多忙を言い訳にはできないが、最近では朝を迎えてからようやく眠り、昼過ぎに起きるのが習慣になってしまっていた。
せっかくの旅行、これではもったいない。焦りとともにホテルを出発したのは13時だった。
濡れるか濡れないかくらいの小雨が降り、気温はそう高くないのに汗がべたべたしそうな湿気だ。
今日の予定は二つの博物館。‟自貢塩業歴史博物館”に、‟恐竜博物館”。
自貢を代表する三つのキーワード、塩、恐竜、灯会。
今日はまず、塩と恐竜について触れてみようと考えている。
もともとは箱物施設があまり好きではない私で、たとえば地名がつく**博物館なんてのは中国の観光では定番ルートだが、私はあまり好まない。しかし敢えて、今回の旅行スタートは博物館めぐりで決めてみた。
まず行こうと決めていたのは、塩業歴史博物館。
前回の散策で、釜渓河に突き出すような中華建築をすぐそこに見つけ、地図で見てみればどうやらあれが塩業博物館のようだった。まずは一番行きやすいところから行ってみよう。

ホテルを出て川沿いに、解放路を北上した。すると程なくして前回の散策で見つけた張飛の廟、桓候宮が見えてきた。
やっぱりあまりにも壮麗だ。しかし、門を覗くことさえ許さないというように、巨大な板で入り口は塞がれている。

ここから右折し釜渓河へ出た。こちらはホテル方面を振り返って。
少し高めのビルの向こうに小さく見えるのが宿泊しているホテルだ。
河には何人か人が下りていて、雨の中釣りを楽しんでいる。そういえばこの前も、ここで老人たちが独特の方法で釣りに盛り上がっていたなぁと思い出す。
こちら側の岸からまるで吊り橋のように釣り糸を対岸に架ける。どうやって架けたのかはわからないが、すこし弛んだそれには、一定の感覚で釣り針がついた釣り糸が垂れているのだ。水面に浸かった針には見事に小魚が食らいついていた。

そのまま川沿いに歩いて行くと、その先には川に突き出したような中華伝統建築が目立っている。
そして前回は気づかなかったが、その向こうにもそれは豪奢な寺院が見えた。

建物に近づき、これが塩業博物館だろうと覗いてみると、しかしどうも違う。
門の上部には、‟王爺宮“の文字。

内部はお茶館になっていて、お茶しないでタダで覗くのはちょっとよくないような雰囲気だ。
建物、特に屋根が素晴らしく、調べていないがおそらく清代建築だろう。これは今度、時間がある時に改めてお茶しに来よう。
地図を見てみると、塩業歴史博物館はこの一歩内側の通りだった。先ほど桓候宮で右折せずにそのまま進めばよかったのだ。
けれども、本当にすぐそこ。巨大で豪奢は建築はかなりの存在感を放ち、近づく前にそれとわかった。

激しい軒ぞり、重なる屋根。それはまるで、動物が角でおのれの強さを示すかのように、豪勢さをアピールしている。

入場口には体温計を持った係員がいて、国家政務服務平台で健康コードを出すよう指示が書いてある。まずはチケットを購入し、そこで登記表に記入する。そしてここで入場する時にも検温し、表に記入する。
私の名前を見て、「少数民族か?外国人か?」と訊かれ少しひやりとしたけれど、「外国人」と答えるとすんなり入れてもらえた。

こちらは、入り口でお客を出迎えるかつての写真。

自貢は、別名を塩都―古代から塩業で栄えた場所である。
日本では塩といえば海水から得られる塩だが、広大な大地と数億年もの地質的な歴史をもつ中国は海水に依存しない。
内陸部には塩を得る手段として塩湖があり、また井戸を掘り地下から塩水を汲み取る方法もある。
そういえば昨年10月の青海省西寧旅行では、塩の売買で栄えた小さな集落を見つけた。そしてその塩とは塩湖から採られたものだった。新疆を旅していても、大地に白い塊がまるで雪のように散らばるのをよく目にする。
新疆、青海、チベットなど、こうした超内陸地は塩湖による塩業が盛んだ。
では一方で井戸式の採塩はというと、こちらは四川を中心とした中国南部の内陸地、その中でもとりわけ盛んだったのが、窪んだ地形に位置するここ自貢地域だというわけだ。

千年塩都の呼び名をもつ、自貢。
その地名も、塩井戸で有名な自流井と貢井の頭文字から命名されているものだ。
この地区における塩業、その初めの記録を見つけることができるのは後漢時代。日中戦争期に沿岸部が壊滅的打撃を受け海水を利用した採塩が難しくなってからは、自貢地区の塩業は軍需を得、さらに栄えた。結果、軍需により都市に制定された場所である。
もっとも塩業が栄えた清から民国時代にかけては、この自流井地区だけでも1000に近いほどの塩井戸があったのだとか。しかもその時すでに廃井戸になっていたものは、なんと11800以上。これはちょっと、栄えたとか特産だったとか、もうそういうレベルを超えている。
自貢といえば、自貢料理。
四川を代表する美食であり、美食王国四川の中でも自貢は美食の府といわれる。その自貢料理は、肝心の肉よりもはるかに大量に使用した山盛りの唐辛子と、それからここで採られた塩。
まさしく、塩なければこの都市なし、といっても過言ではない。
このように、自貢を知りたければ塩の歴史を学ばなければ話にならない、と来てみた塩業歴史博物館である。
私でもあの鋭角三角形が林立する塩井戸の姿は知っていたけれど、でもあれがどういう仕組みでどうなっているのかは、知らなかった。

入場してみると、内部もそれは見事な建築だった。
ここは塩御殿―清乾隆帝の時代、1736年創建の西秦会館を改修して展示館にしたものだ。
会館の文字を見てわかるように、こちらは同郷の商人が出資して建てられたもの。陝西省の塩商人の御殿だという。

その豪奢さ、壮麗さ、細部に施された縁起。
ただ塩というひとつの産物だけで、どれだけ商業が栄えたのか視覚的に伝わってくる。
建物の保存状態も非常にいい。

この広場をぐるりと取り囲むようにしたロ型回廊が、展示室になっているようだ。
そこに上がろうと正面に進むと、子供が集まりなにか演目の練習をしていた。


それでは、展示を一つひとつ見ていこう。
まずは、中国で行われている塩業について。こちらは塩業分布図。
青が、海水による採塩地区。
緑が、塩湖による採塩地区。
そして赤が、井戸式の採塩地区。
黄色は塩業なし。
中国において海水による採塩は、5、6千年も前にすでに始まっていた。21世紀初頭、その生産量は2600万トンに達し、中国国内でのシェアは70%以上、世界第一の生産量。
一方塩湖による採塩の歴史は、2、3千年前に遡る。とりわけ青海省は塩の世界と呼ばれるほどの産地で、今世紀初頭、中国における塩湖からの生産量は370万トンに達し、国内シェアは10%ほど。
そして自貢に代表される井戸式採塩の歴史は二千年以上前、戦国時代に遡る。国内の埋蔵量は64000億トンと推定され、そのうち四川、重慶における埋蔵量は60500億トンだといわれている。
今世紀までに採掘された塩はすでに742万トンに達し、国内のシェアは20%前後。
と、このような解説に引き込まれる。
このような規模は広大な大地をもつ中国だからこそ。より広大な領土を得ようとしてきた中国の歴史がなんとなく気持ちわかったような気分になる。

こちらは、四川周辺の拡大。
塩の生産地が、自貢を中心とした四川南東部に集中しているのがわかる。
この中でも抜きんでた塩産地だった自貢に井戸式採塩の歴史が登場するのは、後漢時代の76~88年。晋代に規模が拡大し、唐宋代にその名が広まり、明清代にさらなる発展をしもっとも栄えた。現代に至っても塩都としての地位はゆるがず、自貢における年間生産量は200万トンを超す。

こちらは塩鉱石。
岩塩とはまた違うのだ。自貢でも西部には岩塩の産地があるようだが、自貢の採塩対象には、地下塩水とともにこのような塩鉱石がある。

こちらは凛々しい表情の男性像。
誰かと思えば、都江堰を建設した李氷だった。李氷は、都江堰の建設により四川一帯の治水を行い、肥沃な大地をもたらした功績で有名な人だ。
しかしその李氷がまさか塩井戸建設にも関わっていたとは。彼は前255年~前251に蜀郡守となり、その際治水の経験を生かして、現在の成都双龍地区に中国初めての塩井戸を掘ったのだという。
私はこのことを知らなかったが、都江堰だけでなく、こちらももっとアピールされるべき功績ではないだろうか。それとも私が知らなかっただけで、世の中では常識なのか。
現代の中国のすがたも、彼の努力と知恵があってこそ存在するのだと思うと、偉人という言葉では足りないような偉大な存在に思う。

続いては、前漢時代に用いられた工具。これらを使って井戸は掘られたのだろうか。

各地の採塩遺跡の紹介や各地の塩井戸の紹介が古い展示とともに並ぶ。
その中で、こちらは重慶の雲陽の塩井戸の様子。
もくもくと上がる白いものは煙ではなく湯気。塩水を煮る湯気なのだという。
巨大な井戸に、釣瓶が落とされる。この中に落ちたら大変だ。想像もしていなかった井戸の半径の大きさに驚いた。

こちらはスポイトのように柄を引き吸い上げる塩井戸。

体験コーナーがあったが、スポイトを引けば圧はかかるし水が引き上げられる感覚もあったのだけど、とうとう水は出てこなかった。

塩井戸と一言にいっても、まったく様々なのだということがわかる。
このように各地の井戸の様子が模型になり展示されているのだけど、残念なことに光が反射してよく見えなかった。

続いていよいよ、自貢式の塩井戸の展示へ。
自貢をはじめ四川の各地では多く、‟卓筒式“という方法が採用されていた。それは革新的な採塩方式で、後世にも技術的な恩恵を与える発明だったようだ。
数多くの、卓筒式にまつわる資料が展示されていた。

初めは説明を読んでもよく理解できなかったが、‟卓筒式井戸”とは私流の翻訳にすると、‟テコと車の原理を利用した人力ドリルにより大地を掘り進め、湧き出た塩水を竹筒スポイトで吸収する式”の井戸、となる。
と、それはわかったが、現存する資料やレプリカの展示を見ても、どうもいまいち想像ができない。


ドリル部分にもいろいろあるようだ。
このシャベル状の長い鉄棒もそう。

これもそう。

それから時代を進めると、もっと複雑に進化した、まるで武器のようなドリルも登場する。

鉄製の物がドリルで、竹筒状のものがスポイト。
竹の王国である四川。竹の形状と丈夫さは、まさしく適材適所の使われ方だ。

また模型があり、この模型を見てようやく仕組がわかった。
初めに見た巨大な組木は、ここに人が乗りテコでドリルを上下させるものだった。組木には木板が載り、そこを人の足で体重をかけると、てこの原理で繋がり吊り下げられた鉄製ドリルが上下する。その圧によって井戸最深部は削られ、塩水が湧き出たのを今度は竹筒で吸い込むのだ。

このような写真も残る。
こちらは木板を踏むタイプではなく、車を回し塩水を吸い込んだ竹筒を引っ張り上げる。

こんなに大きな車もあった。こちらは車の中に人が入り、回す。
表現は悪いが、ハムスターの回し車を思い出した。

こちらは、井戸に組まれた天車の模型。
この鋭角の三角が当時は一帯に林立していたという。今では自貢塩井戸のイメージそのものとなった。
この三角のてっぺんから、釣瓶落としのように竹スポイトを落としまた引き上げる。

こちらは漢代の天車の模型。

そして左から右に、徐々に複雑化していく。

清代になり、このような三角状の天車に。

そして‟脚”の数はどんどん増えてきて、最後には12脚に。この12脚タイプは1950年代のものだという。


模型だと当然小さいが、現物はかなり巨大な建造物。
この一本一本の脚はまた、このように複数の木材をまとめて作られている。


こちらは天車の修復作業時の写真。
たくさんの人が脚の登っているが、人と天車の大きさの比に驚きだ。
高さもかなりあり、修復作業だけでもかなり危険なことだっただろう。

こちらは自貢歴代の井戸最高深度。
特筆すべきは1000mを超した清代で、そして60年代にはなんと3000mを超している。これはちょっと、想像ができない。富士山の高さとほぼ同じ?まさか。これはもう、人智や技術というよりもただ人の執念のようだ。

これら天車は人力で働くもの。
塩業で栄えたこの地の背景には、数知れない肉体労働、血と汗と涙がある。
ここに展示された写真には、採掘に携わった多くの労働者のすがたが写る。見ればだれもたくましい体つきをしていて、苦労と引き換えに得られた都市発展なのだと教えられる。


このロ字型展示室の奥にも、塩御殿は広がっている。それは豪勢なお屋敷だ。
奥もまた展示室になっていたので、軽く覗いてみた。

こちらは、自貢は塩の産地ですよ、恐竜の発掘現場ですよ、といった軽めの紹介だった。
映像があり、ちょっと見てみる。
数億年前、海の底から大地は隆起した。陸地となった新疆や青海やチベットに対し、四川一帯は低地だったために一面海のような湖―巴蜀湖を形成した。
その後、ジュラ紀だったか三畳紀だったか、ヒマラヤ山脈の地殻変動により巴蜀湖はだんだんと縮小し、そして四川盆地の中でもとりわけ陥没した自貢周辺に海水は集まった…とこんな感じだったかと思う。
遥かな古代、恐竜時代の恩恵を受ける人間。-古代のお塩、なんていってみればなんともロマンだ。

最後にこちらは、現代版天車の模型。
時代は変わり新たな技術が採用されても、基本原理は同じなんだなぁと感じさせる。こうした塩井戸発掘技術は、石油採掘にも大いに生かされているのだという。
塩業歴史博物館を出たのは、もうすぐ16時という時間。ここでもうすっかり恐竜博物館を諦めた。
明日は有名な塩井戸を見学しに行く。恐竜博物館はそのすぐ横なので、明日時間を見て行ってみよう、と二日目にしてすでに予定改変。

塩業博物館の横にはずらりと古い建築が並んでいた。
石造りの建物はなんとも清代を彷彿とさせる雰囲気で、おそらくそうなんだろう。中には塩やお酒など特産品を売るお店が入っている。


石造りはこの湿気地獄の四川でも持ちがいいが、一方で弱いのは木造建築。
この向こうに続く建物に古く装飾されたうだつは見事だったが、もう半分壊れた状態で、そのうちのいくつかはすでに立ち退き、内部は倒壊している。

四川は内陸にあるため、北京時間からすると日没が遅い。
今で20時を過ぎてようやく日没を迎える。
空がまだ明るさを残している20時前、夕ご飯を探しに出発した。

十字口を登り、五星街へ、檀木街とそこから裏道に入り探すが、どうも探しているような飲食の賑わいに出会わない。
小さな食堂はちらほらと見つかるのだけど、飲みたい私はもうすぐ閉店を迎えるだろうそれらを素通りした。
中国は広大で、沿岸部の首都北京から西の国境までは実質時差が4時間以上ある。それなのに全土統一時間を採用していて、実をいえばそれはそれで便利なのだけど、食事についていえば感覚がちょっと狂ってしまう。
四川は夜が遅いけれど生活に支障がないから生活は北京時間通りだし、それはいいけれども、起きる時間、食事の時間なんていうものも北京と全く同じ。
20時でまだ明るい。それなのに徐々に黄昏時を迎える時間に閉店の準備をする食堂は多い。夜はこれからなのに…。そうして私はいつも飲み屋にいってしまうのだ。

路地裏の真っ暗闇にいくつか素朴な食堂を見つけた。しかしここもやはり、すでに家族のまかないタイムに入っている。

こうしてうろうろしながら賑やかで明るい道を横に入っていった暗闇の中に、数店舗並ぶ自貢料理のお店を見つけた。
中を覗けば、お客が大量のお酒を開けて盛り上がっている。ここならばまだ閉店を迎えなさそうだ、そう思い入ってみた。
宜賓や成都であれば、店に‟自貢“などとどこの料理かわかるようにアピールしているからわかりやすい。けれども当たり前といえば当たり前か、自貢に来てみればこちらの料理はこちらでは日常なので、どれが自貢料理のお店かどれがご当地グルメか、見ただけではわからない。
お店の外からメニューを覗き、メニューで判断するしかない。
自貢料理は、辛くてしょっぱくて、それから大皿料理が多いのが特徴。
一人じゃ食べきれない、それを承知でやってきた。
「私は宜賓に住んでいる外国人なんだけど、どれが自貢のおすすめ?」
訊いてみると、やっぱり無難な料理を勧められてしまう。
「この牛肉ならひとりでも食べきれるよ」
牛肉もいいが、自貢はウサギが有名。まずはウサギ料理を食べたい。
以前食べたことある自貢料理はいずれもみなウサギ料理だった。昨年は冷吃兔を成都で食べた。冷吃兔もいいけど…と思いメニューの‟鮮鍋兔“を指し「これはどう?」と訊いてみる。
すると、「それはダメ、食べきれない」
でもなぁ、それを言うと一人行動をしている以上一生無縁になってしまう。
食べきれなかったら持ち帰るから、とそのまま鮮鍋兔を注文した。
「辛さは元のままでいい?」そう訊く老板に、
「元のまま!」と慌てて答える。


華やかな色彩、一皿56元、私にとってはぜいたくな一皿である。
真っ赤なスープに沈んだ細かなウサギ肉はなかなかお箸につかまってくれなくて難儀したが、おいしい。
レモングラスが入っているのかな?と思うような爽やかな辛さとしょっぱさ、酸味がある。もちろんレモングラスを使う料理ではないので、感覚違い。唐辛子に、花椒に、生姜に、大蒜。それから、塩。これらの調味料が手を繋いだ味覚だ。
あぁこれが‟鮮”の味かぁと納得する。
もう少しゆっくり飲みたかったけれど、お店をもう閉めたい様子。
食べきれないよと言われた大皿を完食し、昨晩見つけた烧烤ロードで飲み直すことにした。
やっぱりこの辺りで飲むならここで決まりのようだ。
ずらりと露天のお店が並び、いつ雨が降り出してもいいように上手にシートを掛けて屋根代わりにしている。
烧烤だけでなく、自貢料理のお店もたくさんあり(さらに露天席!)、他にも素朴な麺、などなどがずらりと深夜まで賑わいを見せている。商店もあるしケーキ屋さんも足マッサージのお店もあるし、滞在中はここで決まりだなとこころに決めた。

歩いていけば次々と声がかかる。
どのお店もテーブルがたくさんあるので、一人客の私が席を占領することもない。遠慮しなくていい雰囲気もいい。
けれど今夜はもうおなかいっぱい。
最後は昨晩と同じ烧烤に行き、食べ物よりもお酒メインでいくことにした。

「少しだけでもいい?」
そう訊くと、夫婦は私のことを覚えていてくれた。
「もちろんもちろん」と席を勧める。
私の目当ては、意外なうまさだったマントウの串。マントウがわずかに油を吸い香ばしくなり、さらに激辛なこの不思議な味覚。隣のお店にも見えたから、自貢ならではか、または宜賓にもあるのに私が知らないだけか。

すでに白酒を空けている。ビールにすべきか迷ったけれど、ここでも白酒でいくことにした。そうしてその後はビール。
なかなかに飲んで、老板奥さんが優しく接してくれたのも居心地がよかった。
「宜賓から旅行に来ていて、26日までここにいるよ」
また来るね、そういって帰路。
歌い出したくなるような、浮かれた気分の帰り道。
〈記 7月21日 自貢・自流井にて〉
参考:
塩業歴史博物館 20元
夕食(鮮鍋兔) 80元
烧烤 55元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈3日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
2020-09-01
自貢・宜賓22日間周遊 〈3日目〉 自貢・自流井
2020年7月22日、なんと軽い二日酔いで起きることができなかった。旅行スタートから調子に乗り過ぎたみたい。
この日も昨日と同様に、ホテルの掃除係は朝の9時にやってきた。世の中では、9時というのはもうすでに出発していて当然の時刻なのだろうか。
私は何をするにも遅いので、今回の旅も午前中の出発は実現しそうもない。
頭痛い、どうしたものか…と、それでもなんとか起きだしホテルを出たのは13時を過ぎていた。

自貢土産のお店が並ぶ。
兎肉や牛肉、それと並んでお土産の定番は自家製のベーコンにソーセージ。このように干されて売られている。
日本のそれとはもう別物なので、四川に来たらぜひ買って帰りたいこれらの中国田舎の味。日本の畜肉製品は世界に自慢できる美味しさと技術だと思うけれど、それらが洗練された贅沢の追求だとすれば、こちらは加工食品の原点。けれども残念、日本では海外からの畜肉製品の持ち込みを禁じているのでそれは叶わない。
私が買って持ち帰るのは大丈夫じゃないかという話だが、こちらはこちらで、料理能力が皆無という悲しい事情がある。
本日は清代の塩井戸、‟燊海井”を見学に行く。
自流井区から北東、隣の大安区まで行くので、そうぐずぐずもしていられないが、だるさをなんとかするために麺か何か食べてからバスに乗ろうと、第一病院を左に曲がった。あの露天烧烤が並ぶ通りに繋がる道だ。
ここは昔から賑わってきたような素朴な生活感が残るエリアで、あのゴミ屋敷化した取り壊し地区にも繋がっている。大通りを左右に見れば、100年は優に超すだろう古い石階段が、これまた古いマンションに続いている。


ここで立ち止まり、目に入ったこの自貢の名を冠した羅さんの抄手屋さんを覗いていると、「2階へどうぞ」と声がかかったのでここにしてみることに。
お店は狭い階段を登った二階にあり、テーブルは四つ程度の小さなお店。日本の感覚でいえば、隠れた名店みたいな立地と雰囲気だ。
しかしちょっと胃をいたわろう、と清湯の紹子麺を選ぶと、「ない」という。そうしてじゃあこれ、じゃあこれと訊いていくと、結局抄手しかないというオチで、それに。
「みんな朝に食べるものだから昼にはもうないよ」とおばちゃん。
それは確かにそうで、私が住む場所だって麺も包子も豆乳も油条も、下手したらお昼にはもうない。でもそれなら「2階へどうぞ」の前に教えてほしかったな。ここまで来てしまえば「じゃあまた今度」とは言いづらいではないか。
しかし羅さんの抄手と店名に抄手を掲げているのだから、やっぱりここはこれでいいのだろう。

出てきた紅油抄手。いわゆる四川式ワンタンだが、私はこれが大好きでよく食べる。星の数ほど食べてきたが、これを食べてみると、やっぱり美味しい。どこでも食べれる抄手なのに、このお店を覚えてしまう美味しさがあった。
辛さの中に感じる僅かな甘みがはまりそうで、違いはこれだろうか。このお店がそうなのかもしれないし、宜賓と自貢の違いかもしれない。
小碗で十分量があり、10元。宜賓での私の価格感覚だと少しだけ高いけれど、美味しいからまたここに来てみたい。
「なんだ、抄手しかないんじゃん」からの見事な逆転だった。
こうして繁華街、五星街を進み、いかにも田舎といった雰囲気の東方広場へ。そこで35路のバスに乗った。
隣の区といってもそう離れてはいない。バスに乗って20分ほどで少し郊外の寂れた雰囲気になり、その中にぽつりぽつりと見える瓦屋根や赤レンガの煙突にどきどきしていると、間もなくして燊海井へ到着した。
ここ一帯は自然公園のようになっており、その向こう山の中には真っ白な塔のようなオブジェが見えた。革命烈士陵だ。
目的の燊海井は、一目でそれとわかった。
黒い瓦屋根の建物に、巨大な鋭角の木組みが空に向かってのびている。これがあの、天車だ。
ここは清代道光帝の時代、1835年に完成した塩工場。
自貢には数々の塩井戸遺跡が残るようで、しかし塩都、自貢で観光といったらまずこの燊海井の名が挙がる。まさしく自貢観光の定番だ。他の遺跡も興味惹かれるが、まずはここを訪れなければ始まらない。

入場は簡単だった。登記表に登記し検温した体温を記入するだけでOK。
チケットを購入し入場した。

するともう入った瞬間に‟それ”があったから驚いた。
天車である。
昨日の博物館ではたくさんの模型を目にしたが、実物を見るとやはり迫力がある。しかも、往時はこれよりももっともっと大きな天車もあったというのだから。
燊海井の天車は、高さ18.4m。4脚タイプで、その脚一本一本はまた、太い丸太からできている。

上から鉄棒を落とし、穴を穿っていく。そこから竹や鉄のスポイトを落とし塩水を吸い上げる。
そんな作業をするのだから、頑丈でなければ成り立たなかっただろう。
太い丸太に、幾重にもきつく巻かれたロープ。
天車は屋根を穿ち、空にのびる。

やはり、昨日塩業歴史博物館で予習してきたのはよかった。説明看板もすんなりと頭に入っていく。
この木組みに設置された板を3、4人が同時に踏み、すると吊るされた鉄製のドリルが穴に落下し、その破壊力で掘削される。同時に水を注入することで粉砕された岩と水を吸い上げ、さらに掘り進めたのだという。
ドリルといっても、叩きつけるような状態。そのさまざまな形状の鉄棒を、昨日いくつも見学した。

井戸は塞がれている。
こんなに小さな直径だとは思わなかった。直径11cm、本当に、ただ鉄棒が入るだけの大きさだ。
ガスが出るから火気厳禁、の文字。

この燊海井が塩井戸の中でもっとも有名となったわけを挙げるとしたら、まずひとつ。
世界で初めて、人力掘削で地下1000mを突破したこと。
1835年に、1001.42mを記録し、現在は1100mだそう。1835年といえば、およそ200年前。
前人未踏の領域、1000mを掘った技術に感嘆するというよりは、塩を求め掘り続けたその毎日の継続と、その継続がそこまでの結果をもたらしてしまうそのことに驚く。
かつての人々は当然のこと、けっして記録を狙い掘り進めたわけではない。ただ毎日の生活のために、目の前にある仕事を汗流しながらこなしていただけだ。
それは一方でこの地の恵みを表し、けれどもまた一方では、社会の中で生きていくことがどれだけ大変なことかを伝えるよう。たとえ、資源に恵まれ栄えた場所であっても。
前人未到の深度1000m人力掘削。そしてもうひとつは、天然ガスの生産だ。
ここはなんと、塩水だけでなく天然ガスも放出しているのだそう。そしてそのままそれを利用して、塩の制作を行っているということだ。塩井戸の掘削を行っていたら、天然ガスが湧いた。ちょうどいい、これを使って塩を炊こう。これこそ一挙両得だ。
一日に8500㎥もの天然ガスが自然放出され、それを管で工場内に送り塩水の過熱に利用している。
確かに、井戸の前に立っているだけでなんだかガス臭い。井戸の穴に顔を近づけくんくんしている私はちょっとおかしい人みたい。

天車を離れすぐ目の前の建物に進んでみる。
一階には竹管を通してガスを工場の二階へ送る小部屋があった。驚くのは、パイプも竹製。

石階段を登っていくと、工場はとてもシンプルな作り。
左手に帳場があり、その先に神さまを祀った部屋、その向こうに現在も使われる狭い作業部屋があった。
神さまを祀った部屋には、一階に滑り落ちることができる滑り台が設置されていた。設置されていたのは金属製の現代版だったが、その出入口自体は往時からのもの。かつてはもしかしたらここに梯子かなにかが掛かっていたのかもしれない。なにしろ天然ガスが常時炎を上げる木製工場。きっと非常口だ。



そしてそれら小部屋の正面、二階の大部分は、いくつもの釜がもくもくと湯気を上げている。灶房、かまど部屋だ。
扇風機が数台並び、その前で上半身裸になった作業員が、スマホで休憩。それは暑いよなぁと思う。自貢がそういう場所なのか、今年が異常なのか、ただでさえサウナに匹敵する蒸し暑さ。なんの苦労もないただの旅行者である私でさえ気を失いそうなのだ。その上、ここは屋内で火を焚き、塩水を炊いているのだから。
観光客は柵の手前から見学することができる。柵を越え竈に近づくことは叶わないが、安全問題以前に、この暑さではその気も起きない。

床は一面、温泉が湧き出る山中みたいに一面化学反応を起こしていて、端々には結晶化した塩がつららを作っている。

丸太から垂れる裸電球が嬉しい。
湯気を受けてぼろぼろになった梁や柱。柱にはファイルや日めくりカレンダーが下がり、ここが今も現役な作業場であることを実感させる。
白酒工場もそうだが、蒸す、沸騰させる工程がある工場はもう蒸し暑くて、行員は裸同然で作業する。日本ではちょっと考えられない光景だが、人の手で行われるからこそのことだ。そうして生まれた製品は貴い。

“燊海井”の燊の文字は日本にはない漢字。この文字は見ての通り、木の文字の上に火が三つ。この火には絶えず燃え続ける天然ガスと、商売が燃えるように栄えるという意味が掛け合わされている。
釜の下で激しく噴射される青い火を遠くから覗き見ながら、この名前に込められたかつての人々の願いを思う。
いったいいくつの釜があるだろう、毎日湧く塩水は500トン以上で、鍋80釜以上にもなるのだという。
この工場も、ある時塩水が枯渇してしまい50年代には一度生産を停止した。しかしその後設備が整えられ、現在もこうして稼働している。
もくもく上がる湯気を眺めながらここから離れられずにいると、階下からギギッと何かの金属音がした。そうして、きゅるきゅるとそれは続く。

もしや!と思い下を覗くと、なんと天車にのびたワイヤーが動いている。
これは、もしや…!
慌てて下に降り先ほどの井戸穴に行ってみると、案の定、井戸の栓は抜かれ、ワイヤーが動いている。
すでにスポイトの投下は完了し、今は引き上げに入っているところのようだ。

出てくる瞬間を逃すまいぞ、とカメラを構えるも、1000mを超した深さはなかなかのようで、いつまで経ってもスポイト管は姿を現さない。

しかし出る時はあっという間だった。
とうとう出た!と思ったら、男性はその長い鉄管を隣の木桶にひょいと移し、工具のようなもので管を開放した。


すると、ものすごい勢いで塩水が飛び出し、しかしあっという間。管は空になった。一度の投下で、採取される塩水はこれだけか。
真っ白に泡を立てていた塩水はものの数秒で茶色い液体となり、数分で泥のような表面を作った。
囲んでいた数名の観光客は、「熱いのか?冷たいのか?」と言いかわるがわる手を入れる。「…冷たいな。熱くないぞ」
地下から湧き出る水というと、私もつい温泉のような熱水を想像してしまう。私も手を入れてみたが、冷たいというほどでもなく、常温。確かに、熱くなるような原因もないか。


しかしこれは大変な作業だなと思う。
見上げれば、おそらくドリルや管を交換しやすいように、屋根には切込みが入っている。これを取り換えるだけでも大きな作業だっただろう。

運よくスポイト作業を見学することができ、再びかまど部屋へ、そしてそこを抜けて工場の裏手に入ってみた。
かまど部屋を抜けるとそこには塩保管庫があったが、覗いてみればきちんど現代版パッケージの塩が山積みされている。
2007年頃にここを見学した方が、ここでお土産に購入したお塩がとっても美味しかったと話していた。また自貢料理でも、ここ燊海井で生産された塩がもっともふさわしいといわれているのだそう。
中国ではもちろん有名だろうけど、内陸で掘られ地下から採取された古代のお塩、海水塩が一般の日本で売り出してみたらおもしろいと思うのだけれど。


そのまま裏へ回ってみると、近代的工場と同様に、幾本もの管がのびてどこかと繋がっている。
しかし素晴らしいのは、これらの管が全て、竹であること。楠竹を使い、それをまた竹のテープでぐるぐると補強してある。
さすが竹の王国。
竹は本当に有能で、様々な種類の竹を用途で使い分けることができるし、頑丈でまた耐久性がある。展示品を見れば、木材がぼろぼろになっていくのに対して、竹はほとんどノーダメージ。これには驚いた。
鉄管が塩水によって腐食を受けるのに対し、竹は腐食を起こさない。また塩水だけでなく、天然ガスもこの竹管で送るのだという。スポイトにし、パイプにし、補強テープにし、建築資材にし。自貢を塩の都にまで発展させた、陰の立役者である。

こちらは日干し台。ここで塩水を干して乾燥させる。

ここから工場を眺めてみると、この場所が今残っていることに感謝したくなった。
かつては、この周辺1㎞ほどの範囲には、200近い天車が林立していたのだそう。
それが、今はここだけ。
写真は残るけれども、それでも想像は及ばない。
この工場はひとつ、またひとつと崩されていく天車をここから眺め、ひとつ、またひとつと建っていく新しい住居を見守ってきた。
清が崩壊し民国期を迎え、内戦、日中戦争、新国家成立、文革、その激動の時代の中で、ここだけはその姿を残した。
やがてたった一本だけになっても。
それはあえて残したものだろうか、それともたまたま残ったものだろうか。
一度は工場としての機能を失い、ここもまた消えてしまっても不思議はなかっただろう。
けれども少なくとも今、こうしていまだ稼働している。
かつての‟車”はもう動かせないけれど、代わりにその補助としてワイヤーが使われているけれど、この工場もこの井戸も、紛れもなく生きている。
逞しさ、と表現すれば正しいだろう。
けれどもどうしてか、私には逞しさよりもどこか、哀愁を伴うように感じられるのだ。
自分を使い懸命に生きてきた人々は、各々の天寿を全うし去っていった。幾世代もの人々の人生を眺め、そして見送った。
かつては自分も多数の天車の一本に過ぎなかったが、いつの頃か最後の一本になり、そうしてやがて最後という言葉も使われなくなり、唯一の天車になった。
この天を突く車はきっと、これからもここでこの街の変化を見守り、これからも数え切れないほどの人を見送るんだろう。
そんなことを想像すると、この古い木組みに歴史というよりも未来を見るような感覚を得て、そしてそこにあるのは逞しさというよりも哀愁のような気がしてならないのだ。

下には、「大地に尋ねる」と命名されたブロンズ像があった。かつての様子の再現だ。
数人が上に乗り、板を踏む。右手にあるのは井戸穴だ。
塩は富。去年日本を発つ前に見た中国ドラマ、唐砖を思い出す。
現代の考古学者助手が、発掘現場から唐代にタイムスリップしてしまう。その初めのシーンで、主人公は塩の精製で評価され王朝の人間ドラマに巻き込まれていくのだ。
当時塩はとても貴重なもので、庶民がなんとか手に入れることのできる塩でも、精度が悪く苦いものだった。味の良い塩は上流の人間でないと口にすることができないほどだったと、そんな当時の様子が想像できる場面だった。
それよりもずっと時代は下るが、1914年の民国時代、当時の塩の価格は1斤(250g)が40文。2100文で銀1両、なんて言われても現代人の私にはよくわからないが、燊海井は毎日銀533両もの売り上げを得られる塩を生産していたという。
昨日の豪勢な塩御殿を思い出す。
塩で儲けた商人だけでなく、肉体労働をしていた労働者が富んでいたらいいなと想像してみるが、実際どうだったのか私は知らない。

天車方面へ向かうと、牛滚凼と書かれた池があった。中には牛のブロンズ像、英語でバスルーム オブ バッファローズなんて書かれている。バスルーム?と思ったが、これはあながち間違いではないようだ。

この向かいの建物の中には、巨大な回し車があった。
その横にはまた牛のブロンズ像。どうやら、当時この巨大な車を回していたのはかれら牛たちだったようだ。
説明には、初めは人力で回していたが8~14人もの人が要るので、後に牛3、4頭でこれを回すようになったのだと書いてある。
確かに、ものすごい力を必要としそうだ。そりゃ、牛に水浴びさせてあげたくもなるよな、と思ってみたり。

この車は丸太と竹でできている。竹の強度がすばらしいものであることがわかる。
こちらはブレーキ、ブレーキも竹でできているのだ。
この車は塩水を採取するためのスポイトをロープで引き上げるものだ。
ここから向こうの天車にのびたロープを、車を回して引く。
では先ほどの引き上げはどうしたのかというと、この車ではなく隣室に設置された現代の機械がワイヤーを引いたものだ。今はもう、これらの車を使用することはない。しかし当時のものをうまく保存し、井戸自体をそのまま生かしているのは嬉しいことだ。


こうして最後に売店で、お土産の塩を一袋買って燊海井をあとにした。
一袋10元。バスソルトやマッサージ用の塩、贈答用の塩なども目を引いた。
料理をしない私、どうやってこのお塩を活かそう。料理はダメでも、蒸した野菜を塩だけで食べるのなんて最高だ。しかし、蒸し器すらないからまずそこから。ちなみに部屋では、去年石垣島で買った塩も‟順番待ち”をしている。

この辺りは少し僻地で、古くから継続されるような生活がありそうした住居が建ち並んでいた。
バスに乗らずにしばらく歩いてみようと、進んでみる。


四川散歩で私がとりわけ好きなのは、こうした瓦屋根。
細かな瓦屋根は日本のそれとは違うけれども、それでもどこか日本の農村部を思い出すような温かい気持ちになる。

ここであちらこちらに見られるのは、赤レンガに黒い瓦。
レンガ造りの住居自体は中国にはもともと多いもので、宜賓でもあちこちに見られる。けれども、自貢はとりわけ赤レンガが目を引くな、と前回の散策から感じていた。
四川南部には赤い土や岩石が多いけれども、それと関係があるのか。ここを歩いていて赤レンガ建築の多いこと。しかしそれにしたって宜賓のはここまで赤くはない。

歩いて行くと徐々に街に近づいていく。すると、踏切に出会った。
私が大好きな線路だ。
すぐそこには倉庫のような長いレンガ建築があり、黒い貨物車が見える。
そこには真っ青な車両がライトをつけ、ポォーポォーッと警笛を幾度も鳴らした。


やがて遮断機が下り、真っ青な車両がこちらへ。
鉄道が好きといいながら私は完全無知なので、これがどういう車両なのかはわからない。
予想外に‟うしろ”がなく、作業員を乗せた‟あたま”は、カーブの向こうへ消えていった。


線路に面した長い建物は、私の勘でいうと1900年前後の建築だろう。
そこにはお店が入り、ごく普通に営業している。
「何やってるんだ?」と不審そうに声をかけられたので、いつものごとく不気味な笑顔でごまかし、線路から下りた。

不思議なのは、この線路も倉庫も、百度地図に出てこないこと。
この線路はどこからのびて、どこへ繋がるのか。
この先にはずっと先に自貢站があるはずだから、先ほどの青い‟あたま”はいずれ自貢站へ到着するのだろう。
けれども百度地図を最大限に拡大し探してみるも、自貢站から枝分かれした線路が途中まで表示され、そしてその線路は途中で途切れ消えている。
地図に載らない線路、どきどきするのは私の子供じみた期待だ。

こちらは、赤いレンガの建物。
いたるところに「D級危険、近づくな」「借家禁止」と真新しい表示が貼られている。A級が最高度かそれともB、Cと上がってくのかなとつまらないことを考えながらも、当然これはDが最高だろう。
そんなに危険そうにも見えないけれど、瓦屋根もレンガも、地震が来ればひとたまりもないだろう。
たった一軒のマッサージ屋だけが残っている。
今、宜賓も自貢も、街の古い住居を一掃する大改革に乗り出したところだ。今ある古びた建物は、もう間もなく消えてゆく。


街に出て、ここで路線バスに乗り十字口まで帰ってきた。
一時は青空を見せた空も真っ白で、ホテルに戻りしばらくもしないうちに雨がざーっと降り出した。

夕ご飯に出掛けたのは21時過ぎ。
行こうかなと思っていたお店を調べてみたら20時半までだったので、今から他を探し回る気力もなく、例の露天ロードへ。

昨日の烧烤は今夜はおあずけ。今夜はその先にある自貢料理の露天の並びへ。
この辺りのお店はみな申し合わせたように外観そっくり。

このようにお店にはおすすめ料理を紹介した看板が並ぶけれど、みなフォーマットが一緒。同じお店かと思ったほどだ。すみっこにお酒の広告が入っていたので、きっとそういう看板サービスがあるのだろう。
この並びの一軒目でお店から声をかけられたので、迷わずそこに。
隣のテーブルではおじいさんがぐでんぐでんに酔っ払っている。手が付けられないほどに、ぐでんぐでんに。
お店の女性に、「宜賓から旅行に来ていて、自貢のご当地グルメが食べたいんだけど、どれがおすすめ?」と声をかける。
ここでポイントは、宜賓に暮らしているのを伝えること。
宜賓と自貢はお隣なので似た部分はあるし、いつでも簡単に食べれるメニューもある。例えばもし私が日本から来たならば、いや上海から来たならば、ここで烧烤だとか烤魚だとかはたまた燃麺だったとしてもまぁ、特色料理を食べたことにはなり損はないだろう。けれどお隣に暮らす私にしてみれば、それは特色ではない。日常だ。
数年前に新疆の奥地で、友人の友人が私を出迎えてくれた。
なにが食べたい?といわれて、私は「特色料理」と答えたのだ。その意味は、新疆の定番はあらかたもう口にした私にとっては、新疆の中でもその場所ならではのもの、という意味だったのだけれど。結果ごちそうしてくれたのは、あろうことか四川の烤魚だったのだ。
「中国の特色料理だよ」
たしかに、とてもおいしかったけれど。このような誤解はよくあるものだ。
そんな不安を抱えつつ店員さんに相談してみると、開口一番に出てきたのは仔姜田鶏、カエル料理だった。
兎と迷うなぁと思うけれど、兎は昨日食べた。それに、メニューにも仔姜田鶏は特色料理の欄に載っており、一方食べようと迷っていた冷吃兔は普通メニューの方。
しかし気になったのは、仔姜田鶏は価格が時価となっていること。値段を訊いてみるも、一斤いくらだから200元だとかなんとかでよくわからない。200元?まさかおかずが一皿そんなにするはずはないよね?聞き間違い?
何度か確認しても私の聞き方が悪いのか、要領を得ない。もうそれを頼んでしまうことにした。

こちらが、仔姜田鶏。
非常においしい。新鮮な生姜の香りが効いていて、辛味も爽やか。それに対し、唐辛子と花椒の麻辣がけっこう強く、口の中はヒリヒリ。
田鶏とは、カエルのことである。宜賓にもカエルを使った南瓜田鶏という料理がある。
四川でカエルは欠かせない需要の高い食料で、市場に行くと生きたままカエルが山になって売られている。緑のカエルではなく、かといって牛蛙のような巨大カエルでもなく、手のひら大のごついカエルだ。
私が初めてカエルを食べたのは安徽省だった。その時のカエルはぶつぶつした皮がついていてけっこう生々しかった記憶がある。カエルのぶつ切り状態だった。それに対し四川でカエルといえば美蛙魚頭鍋という火鍋が大人気だが、カエルは皮が剥かれるものの、骨はばらされることなく輪郭そのままで食す。それにびっくりする人もいるかもしれないが、肉は手羽先のようにするりと骨から剥がれ、骨が若干細かいものの食べやすく美味。よくカエルは鶏肉に似ているなんて話を耳にするが、本当にその通りだなと思う。

カエルを生姜と唐辛子の山の中から発掘しながら、白酒にビールを飲んだ。今夜はビールだけにしようと思ったけれど、仕方ない。酒好きであれば、飲まずにはいられない料理だ。
カエルの骨は細かいので、口の中で選別をしてから肉だけ飲み込む。そんな作業中もひりひりと私の口内を容赦なく攻撃する。
お通しで出してくれた水煮落花生をチェイサーにしながら、とうとう完食してしまった。

そして、途中でリヤカーを引き売りにきたおばちゃんから四川式寒天の冰粉を買い、辛いのと交互に食べて口を冷ます。こんなのも、四川ならではの楽しみ方だ。
他にも果物売りやいろんな売り子が席をまわって来るけれど、これらは迷惑な押し売りではないから、声を掛けられたらきちんと返事をすべき。そしてこうした露天を回る物売りも、楽しさのひとつだ。
しかし大変。いざ食べ終わりお会計してみると、なんと200元を超している。やっぱり高かったのか?それとも?正直きつかったし、いくらなんでも高すぎだとは思うけれど、初めにひるまず確認しなかった私が悪い。一斤いくらだから200元なんとか…と、確かにそんなことを話していた店員さんを思い出せば、もうどう考えても私の問題だった。


こうして高額の夕食をしておきながらどうも温かい汁ものが食べたくなり、散歩ついでに通りがかったおばちゃんの麵屋さんで、炸醤麺を食べた。
お世辞ではなく、気のせいではなく、美味しかった。一碗8元。もう深夜1時を過ぎているというのに、こんな金額では割に合わない。そんなことを考えていると、男性が二人入店した。
自貢ならまたいつでも来れる。うつくしい炸醤麺は本当に美味しかったから、かならずまた来よう。
深夜にも賑やかな飲み屋街を通り過ぎると一転、人気のない通り。それぞれの建物の前には守衛さん用の小さなボックス小屋があり、さりげなく覗きながら通り過ぎると、どの親父さんも横になって寝ている。
真っ暗な釜渓河沿いを歩きながらホテルへ戻り、ばたりと倒れた。
〈記 7月23日 自貢・自流井にて〉
参考:
抄手 10元
路線バス 2元
燊海井 27元
塩1袋 10元
冰粉 6元
仔姜田鶏 224元
炸醤麺 8元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈4日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
この日も昨日と同様に、ホテルの掃除係は朝の9時にやってきた。世の中では、9時というのはもうすでに出発していて当然の時刻なのだろうか。
私は何をするにも遅いので、今回の旅も午前中の出発は実現しそうもない。
頭痛い、どうしたものか…と、それでもなんとか起きだしホテルを出たのは13時を過ぎていた。

自貢土産のお店が並ぶ。
兎肉や牛肉、それと並んでお土産の定番は自家製のベーコンにソーセージ。このように干されて売られている。
日本のそれとはもう別物なので、四川に来たらぜひ買って帰りたいこれらの中国田舎の味。日本の畜肉製品は世界に自慢できる美味しさと技術だと思うけれど、それらが洗練された贅沢の追求だとすれば、こちらは加工食品の原点。けれども残念、日本では海外からの畜肉製品の持ち込みを禁じているのでそれは叶わない。
私が買って持ち帰るのは大丈夫じゃないかという話だが、こちらはこちらで、料理能力が皆無という悲しい事情がある。
本日は清代の塩井戸、‟燊海井”を見学に行く。
自流井区から北東、隣の大安区まで行くので、そうぐずぐずもしていられないが、だるさをなんとかするために麺か何か食べてからバスに乗ろうと、第一病院を左に曲がった。あの露天烧烤が並ぶ通りに繋がる道だ。
ここは昔から賑わってきたような素朴な生活感が残るエリアで、あのゴミ屋敷化した取り壊し地区にも繋がっている。大通りを左右に見れば、100年は優に超すだろう古い石階段が、これまた古いマンションに続いている。


ここで立ち止まり、目に入ったこの自貢の名を冠した羅さんの抄手屋さんを覗いていると、「2階へどうぞ」と声がかかったのでここにしてみることに。
お店は狭い階段を登った二階にあり、テーブルは四つ程度の小さなお店。日本の感覚でいえば、隠れた名店みたいな立地と雰囲気だ。
しかしちょっと胃をいたわろう、と清湯の紹子麺を選ぶと、「ない」という。そうしてじゃあこれ、じゃあこれと訊いていくと、結局抄手しかないというオチで、それに。
「みんな朝に食べるものだから昼にはもうないよ」とおばちゃん。
それは確かにそうで、私が住む場所だって麺も包子も豆乳も油条も、下手したらお昼にはもうない。でもそれなら「2階へどうぞ」の前に教えてほしかったな。ここまで来てしまえば「じゃあまた今度」とは言いづらいではないか。
しかし羅さんの抄手と店名に抄手を掲げているのだから、やっぱりここはこれでいいのだろう。

出てきた紅油抄手。いわゆる四川式ワンタンだが、私はこれが大好きでよく食べる。星の数ほど食べてきたが、これを食べてみると、やっぱり美味しい。どこでも食べれる抄手なのに、このお店を覚えてしまう美味しさがあった。
辛さの中に感じる僅かな甘みがはまりそうで、違いはこれだろうか。このお店がそうなのかもしれないし、宜賓と自貢の違いかもしれない。
小碗で十分量があり、10元。宜賓での私の価格感覚だと少しだけ高いけれど、美味しいからまたここに来てみたい。
「なんだ、抄手しかないんじゃん」からの見事な逆転だった。
こうして繁華街、五星街を進み、いかにも田舎といった雰囲気の東方広場へ。そこで35路のバスに乗った。
隣の区といってもそう離れてはいない。バスに乗って20分ほどで少し郊外の寂れた雰囲気になり、その中にぽつりぽつりと見える瓦屋根や赤レンガの煙突にどきどきしていると、間もなくして燊海井へ到着した。
ここ一帯は自然公園のようになっており、その向こう山の中には真っ白な塔のようなオブジェが見えた。革命烈士陵だ。
目的の燊海井は、一目でそれとわかった。
黒い瓦屋根の建物に、巨大な鋭角の木組みが空に向かってのびている。これがあの、天車だ。
ここは清代道光帝の時代、1835年に完成した塩工場。
自貢には数々の塩井戸遺跡が残るようで、しかし塩都、自貢で観光といったらまずこの燊海井の名が挙がる。まさしく自貢観光の定番だ。他の遺跡も興味惹かれるが、まずはここを訪れなければ始まらない。

入場は簡単だった。登記表に登記し検温した体温を記入するだけでOK。
チケットを購入し入場した。

するともう入った瞬間に‟それ”があったから驚いた。
天車である。
昨日の博物館ではたくさんの模型を目にしたが、実物を見るとやはり迫力がある。しかも、往時はこれよりももっともっと大きな天車もあったというのだから。
燊海井の天車は、高さ18.4m。4脚タイプで、その脚一本一本はまた、太い丸太からできている。

上から鉄棒を落とし、穴を穿っていく。そこから竹や鉄のスポイトを落とし塩水を吸い上げる。
そんな作業をするのだから、頑丈でなければ成り立たなかっただろう。
太い丸太に、幾重にもきつく巻かれたロープ。
天車は屋根を穿ち、空にのびる。

やはり、昨日塩業歴史博物館で予習してきたのはよかった。説明看板もすんなりと頭に入っていく。
この木組みに設置された板を3、4人が同時に踏み、すると吊るされた鉄製のドリルが穴に落下し、その破壊力で掘削される。同時に水を注入することで粉砕された岩と水を吸い上げ、さらに掘り進めたのだという。
ドリルといっても、叩きつけるような状態。そのさまざまな形状の鉄棒を、昨日いくつも見学した。

井戸は塞がれている。
こんなに小さな直径だとは思わなかった。直径11cm、本当に、ただ鉄棒が入るだけの大きさだ。
ガスが出るから火気厳禁、の文字。

この燊海井が塩井戸の中でもっとも有名となったわけを挙げるとしたら、まずひとつ。
世界で初めて、人力掘削で地下1000mを突破したこと。
1835年に、1001.42mを記録し、現在は1100mだそう。1835年といえば、およそ200年前。
前人未踏の領域、1000mを掘った技術に感嘆するというよりは、塩を求め掘り続けたその毎日の継続と、その継続がそこまでの結果をもたらしてしまうそのことに驚く。
かつての人々は当然のこと、けっして記録を狙い掘り進めたわけではない。ただ毎日の生活のために、目の前にある仕事を汗流しながらこなしていただけだ。
それは一方でこの地の恵みを表し、けれどもまた一方では、社会の中で生きていくことがどれだけ大変なことかを伝えるよう。たとえ、資源に恵まれ栄えた場所であっても。
前人未到の深度1000m人力掘削。そしてもうひとつは、天然ガスの生産だ。
ここはなんと、塩水だけでなく天然ガスも放出しているのだそう。そしてそのままそれを利用して、塩の制作を行っているということだ。塩井戸の掘削を行っていたら、天然ガスが湧いた。ちょうどいい、これを使って塩を炊こう。これこそ一挙両得だ。
一日に8500㎥もの天然ガスが自然放出され、それを管で工場内に送り塩水の過熱に利用している。
確かに、井戸の前に立っているだけでなんだかガス臭い。井戸の穴に顔を近づけくんくんしている私はちょっとおかしい人みたい。

天車を離れすぐ目の前の建物に進んでみる。
一階には竹管を通してガスを工場の二階へ送る小部屋があった。驚くのは、パイプも竹製。

石階段を登っていくと、工場はとてもシンプルな作り。
左手に帳場があり、その先に神さまを祀った部屋、その向こうに現在も使われる狭い作業部屋があった。
神さまを祀った部屋には、一階に滑り落ちることができる滑り台が設置されていた。設置されていたのは金属製の現代版だったが、その出入口自体は往時からのもの。かつてはもしかしたらここに梯子かなにかが掛かっていたのかもしれない。なにしろ天然ガスが常時炎を上げる木製工場。きっと非常口だ。



そしてそれら小部屋の正面、二階の大部分は、いくつもの釜がもくもくと湯気を上げている。灶房、かまど部屋だ。
扇風機が数台並び、その前で上半身裸になった作業員が、スマホで休憩。それは暑いよなぁと思う。自貢がそういう場所なのか、今年が異常なのか、ただでさえサウナに匹敵する蒸し暑さ。なんの苦労もないただの旅行者である私でさえ気を失いそうなのだ。その上、ここは屋内で火を焚き、塩水を炊いているのだから。
観光客は柵の手前から見学することができる。柵を越え竈に近づくことは叶わないが、安全問題以前に、この暑さではその気も起きない。

床は一面、温泉が湧き出る山中みたいに一面化学反応を起こしていて、端々には結晶化した塩がつららを作っている。

丸太から垂れる裸電球が嬉しい。
湯気を受けてぼろぼろになった梁や柱。柱にはファイルや日めくりカレンダーが下がり、ここが今も現役な作業場であることを実感させる。
白酒工場もそうだが、蒸す、沸騰させる工程がある工場はもう蒸し暑くて、行員は裸同然で作業する。日本ではちょっと考えられない光景だが、人の手で行われるからこそのことだ。そうして生まれた製品は貴い。

“燊海井”の燊の文字は日本にはない漢字。この文字は見ての通り、木の文字の上に火が三つ。この火には絶えず燃え続ける天然ガスと、商売が燃えるように栄えるという意味が掛け合わされている。
釜の下で激しく噴射される青い火を遠くから覗き見ながら、この名前に込められたかつての人々の願いを思う。
いったいいくつの釜があるだろう、毎日湧く塩水は500トン以上で、鍋80釜以上にもなるのだという。
この工場も、ある時塩水が枯渇してしまい50年代には一度生産を停止した。しかしその後設備が整えられ、現在もこうして稼働している。
もくもく上がる湯気を眺めながらここから離れられずにいると、階下からギギッと何かの金属音がした。そうして、きゅるきゅるとそれは続く。

もしや!と思い下を覗くと、なんと天車にのびたワイヤーが動いている。
これは、もしや…!
慌てて下に降り先ほどの井戸穴に行ってみると、案の定、井戸の栓は抜かれ、ワイヤーが動いている。
すでにスポイトの投下は完了し、今は引き上げに入っているところのようだ。

出てくる瞬間を逃すまいぞ、とカメラを構えるも、1000mを超した深さはなかなかのようで、いつまで経ってもスポイト管は姿を現さない。

しかし出る時はあっという間だった。
とうとう出た!と思ったら、男性はその長い鉄管を隣の木桶にひょいと移し、工具のようなもので管を開放した。


すると、ものすごい勢いで塩水が飛び出し、しかしあっという間。管は空になった。一度の投下で、採取される塩水はこれだけか。
真っ白に泡を立てていた塩水はものの数秒で茶色い液体となり、数分で泥のような表面を作った。
囲んでいた数名の観光客は、「熱いのか?冷たいのか?」と言いかわるがわる手を入れる。「…冷たいな。熱くないぞ」
地下から湧き出る水というと、私もつい温泉のような熱水を想像してしまう。私も手を入れてみたが、冷たいというほどでもなく、常温。確かに、熱くなるような原因もないか。


しかしこれは大変な作業だなと思う。
見上げれば、おそらくドリルや管を交換しやすいように、屋根には切込みが入っている。これを取り換えるだけでも大きな作業だっただろう。

運よくスポイト作業を見学することができ、再びかまど部屋へ、そしてそこを抜けて工場の裏手に入ってみた。
かまど部屋を抜けるとそこには塩保管庫があったが、覗いてみればきちんど現代版パッケージの塩が山積みされている。
2007年頃にここを見学した方が、ここでお土産に購入したお塩がとっても美味しかったと話していた。また自貢料理でも、ここ燊海井で生産された塩がもっともふさわしいといわれているのだそう。
中国ではもちろん有名だろうけど、内陸で掘られ地下から採取された古代のお塩、海水塩が一般の日本で売り出してみたらおもしろいと思うのだけれど。


そのまま裏へ回ってみると、近代的工場と同様に、幾本もの管がのびてどこかと繋がっている。
しかし素晴らしいのは、これらの管が全て、竹であること。楠竹を使い、それをまた竹のテープでぐるぐると補強してある。
さすが竹の王国。
竹は本当に有能で、様々な種類の竹を用途で使い分けることができるし、頑丈でまた耐久性がある。展示品を見れば、木材がぼろぼろになっていくのに対して、竹はほとんどノーダメージ。これには驚いた。
鉄管が塩水によって腐食を受けるのに対し、竹は腐食を起こさない。また塩水だけでなく、天然ガスもこの竹管で送るのだという。スポイトにし、パイプにし、補強テープにし、建築資材にし。自貢を塩の都にまで発展させた、陰の立役者である。

こちらは日干し台。ここで塩水を干して乾燥させる。

ここから工場を眺めてみると、この場所が今残っていることに感謝したくなった。
かつては、この周辺1㎞ほどの範囲には、200近い天車が林立していたのだそう。
それが、今はここだけ。
写真は残るけれども、それでも想像は及ばない。
この工場はひとつ、またひとつと崩されていく天車をここから眺め、ひとつ、またひとつと建っていく新しい住居を見守ってきた。
清が崩壊し民国期を迎え、内戦、日中戦争、新国家成立、文革、その激動の時代の中で、ここだけはその姿を残した。
やがてたった一本だけになっても。
それはあえて残したものだろうか、それともたまたま残ったものだろうか。
一度は工場としての機能を失い、ここもまた消えてしまっても不思議はなかっただろう。
けれども少なくとも今、こうしていまだ稼働している。
かつての‟車”はもう動かせないけれど、代わりにその補助としてワイヤーが使われているけれど、この工場もこの井戸も、紛れもなく生きている。
逞しさ、と表現すれば正しいだろう。
けれどもどうしてか、私には逞しさよりもどこか、哀愁を伴うように感じられるのだ。
自分を使い懸命に生きてきた人々は、各々の天寿を全うし去っていった。幾世代もの人々の人生を眺め、そして見送った。
かつては自分も多数の天車の一本に過ぎなかったが、いつの頃か最後の一本になり、そうしてやがて最後という言葉も使われなくなり、唯一の天車になった。
この天を突く車はきっと、これからもここでこの街の変化を見守り、これからも数え切れないほどの人を見送るんだろう。
そんなことを想像すると、この古い木組みに歴史というよりも未来を見るような感覚を得て、そしてそこにあるのは逞しさというよりも哀愁のような気がしてならないのだ。

下には、「大地に尋ねる」と命名されたブロンズ像があった。かつての様子の再現だ。
数人が上に乗り、板を踏む。右手にあるのは井戸穴だ。
塩は富。去年日本を発つ前に見た中国ドラマ、唐砖を思い出す。
現代の考古学者助手が、発掘現場から唐代にタイムスリップしてしまう。その初めのシーンで、主人公は塩の精製で評価され王朝の人間ドラマに巻き込まれていくのだ。
当時塩はとても貴重なもので、庶民がなんとか手に入れることのできる塩でも、精度が悪く苦いものだった。味の良い塩は上流の人間でないと口にすることができないほどだったと、そんな当時の様子が想像できる場面だった。
それよりもずっと時代は下るが、1914年の民国時代、当時の塩の価格は1斤(250g)が40文。2100文で銀1両、なんて言われても現代人の私にはよくわからないが、燊海井は毎日銀533両もの売り上げを得られる塩を生産していたという。
昨日の豪勢な塩御殿を思い出す。
塩で儲けた商人だけでなく、肉体労働をしていた労働者が富んでいたらいいなと想像してみるが、実際どうだったのか私は知らない。

天車方面へ向かうと、牛滚凼と書かれた池があった。中には牛のブロンズ像、英語でバスルーム オブ バッファローズなんて書かれている。バスルーム?と思ったが、これはあながち間違いではないようだ。

この向かいの建物の中には、巨大な回し車があった。
その横にはまた牛のブロンズ像。どうやら、当時この巨大な車を回していたのはかれら牛たちだったようだ。
説明には、初めは人力で回していたが8~14人もの人が要るので、後に牛3、4頭でこれを回すようになったのだと書いてある。
確かに、ものすごい力を必要としそうだ。そりゃ、牛に水浴びさせてあげたくもなるよな、と思ってみたり。

この車は丸太と竹でできている。竹の強度がすばらしいものであることがわかる。
こちらはブレーキ、ブレーキも竹でできているのだ。
この車は塩水を採取するためのスポイトをロープで引き上げるものだ。
ここから向こうの天車にのびたロープを、車を回して引く。
では先ほどの引き上げはどうしたのかというと、この車ではなく隣室に設置された現代の機械がワイヤーを引いたものだ。今はもう、これらの車を使用することはない。しかし当時のものをうまく保存し、井戸自体をそのまま生かしているのは嬉しいことだ。


こうして最後に売店で、お土産の塩を一袋買って燊海井をあとにした。
一袋10元。バスソルトやマッサージ用の塩、贈答用の塩なども目を引いた。
料理をしない私、どうやってこのお塩を活かそう。料理はダメでも、蒸した野菜を塩だけで食べるのなんて最高だ。しかし、蒸し器すらないからまずそこから。ちなみに部屋では、去年石垣島で買った塩も‟順番待ち”をしている。

この辺りは少し僻地で、古くから継続されるような生活がありそうした住居が建ち並んでいた。
バスに乗らずにしばらく歩いてみようと、進んでみる。


四川散歩で私がとりわけ好きなのは、こうした瓦屋根。
細かな瓦屋根は日本のそれとは違うけれども、それでもどこか日本の農村部を思い出すような温かい気持ちになる。

ここであちらこちらに見られるのは、赤レンガに黒い瓦。
レンガ造りの住居自体は中国にはもともと多いもので、宜賓でもあちこちに見られる。けれども、自貢はとりわけ赤レンガが目を引くな、と前回の散策から感じていた。
四川南部には赤い土や岩石が多いけれども、それと関係があるのか。ここを歩いていて赤レンガ建築の多いこと。しかしそれにしたって宜賓のはここまで赤くはない。

歩いて行くと徐々に街に近づいていく。すると、踏切に出会った。
私が大好きな線路だ。
すぐそこには倉庫のような長いレンガ建築があり、黒い貨物車が見える。
そこには真っ青な車両がライトをつけ、ポォーポォーッと警笛を幾度も鳴らした。


やがて遮断機が下り、真っ青な車両がこちらへ。
鉄道が好きといいながら私は完全無知なので、これがどういう車両なのかはわからない。
予想外に‟うしろ”がなく、作業員を乗せた‟あたま”は、カーブの向こうへ消えていった。


線路に面した長い建物は、私の勘でいうと1900年前後の建築だろう。
そこにはお店が入り、ごく普通に営業している。
「何やってるんだ?」と不審そうに声をかけられたので、いつものごとく不気味な笑顔でごまかし、線路から下りた。

不思議なのは、この線路も倉庫も、百度地図に出てこないこと。
この線路はどこからのびて、どこへ繋がるのか。
この先にはずっと先に自貢站があるはずだから、先ほどの青い‟あたま”はいずれ自貢站へ到着するのだろう。
けれども百度地図を最大限に拡大し探してみるも、自貢站から枝分かれした線路が途中まで表示され、そしてその線路は途中で途切れ消えている。
地図に載らない線路、どきどきするのは私の子供じみた期待だ。

こちらは、赤いレンガの建物。
いたるところに「D級危険、近づくな」「借家禁止」と真新しい表示が貼られている。A級が最高度かそれともB、Cと上がってくのかなとつまらないことを考えながらも、当然これはDが最高だろう。
そんなに危険そうにも見えないけれど、瓦屋根もレンガも、地震が来ればひとたまりもないだろう。
たった一軒のマッサージ屋だけが残っている。
今、宜賓も自貢も、街の古い住居を一掃する大改革に乗り出したところだ。今ある古びた建物は、もう間もなく消えてゆく。


街に出て、ここで路線バスに乗り十字口まで帰ってきた。
一時は青空を見せた空も真っ白で、ホテルに戻りしばらくもしないうちに雨がざーっと降り出した。

夕ご飯に出掛けたのは21時過ぎ。
行こうかなと思っていたお店を調べてみたら20時半までだったので、今から他を探し回る気力もなく、例の露天ロードへ。

昨日の烧烤は今夜はおあずけ。今夜はその先にある自貢料理の露天の並びへ。
この辺りのお店はみな申し合わせたように外観そっくり。

このようにお店にはおすすめ料理を紹介した看板が並ぶけれど、みなフォーマットが一緒。同じお店かと思ったほどだ。すみっこにお酒の広告が入っていたので、きっとそういう看板サービスがあるのだろう。
この並びの一軒目でお店から声をかけられたので、迷わずそこに。
隣のテーブルではおじいさんがぐでんぐでんに酔っ払っている。手が付けられないほどに、ぐでんぐでんに。
お店の女性に、「宜賓から旅行に来ていて、自貢のご当地グルメが食べたいんだけど、どれがおすすめ?」と声をかける。
ここでポイントは、宜賓に暮らしているのを伝えること。
宜賓と自貢はお隣なので似た部分はあるし、いつでも簡単に食べれるメニューもある。例えばもし私が日本から来たならば、いや上海から来たならば、ここで烧烤だとか烤魚だとかはたまた燃麺だったとしてもまぁ、特色料理を食べたことにはなり損はないだろう。けれどお隣に暮らす私にしてみれば、それは特色ではない。日常だ。
数年前に新疆の奥地で、友人の友人が私を出迎えてくれた。
なにが食べたい?といわれて、私は「特色料理」と答えたのだ。その意味は、新疆の定番はあらかたもう口にした私にとっては、新疆の中でもその場所ならではのもの、という意味だったのだけれど。結果ごちそうしてくれたのは、あろうことか四川の烤魚だったのだ。
「中国の特色料理だよ」
たしかに、とてもおいしかったけれど。このような誤解はよくあるものだ。
そんな不安を抱えつつ店員さんに相談してみると、開口一番に出てきたのは仔姜田鶏、カエル料理だった。
兎と迷うなぁと思うけれど、兎は昨日食べた。それに、メニューにも仔姜田鶏は特色料理の欄に載っており、一方食べようと迷っていた冷吃兔は普通メニューの方。
しかし気になったのは、仔姜田鶏は価格が時価となっていること。値段を訊いてみるも、一斤いくらだから200元だとかなんとかでよくわからない。200元?まさかおかずが一皿そんなにするはずはないよね?聞き間違い?
何度か確認しても私の聞き方が悪いのか、要領を得ない。もうそれを頼んでしまうことにした。

こちらが、仔姜田鶏。
非常においしい。新鮮な生姜の香りが効いていて、辛味も爽やか。それに対し、唐辛子と花椒の麻辣がけっこう強く、口の中はヒリヒリ。
田鶏とは、カエルのことである。宜賓にもカエルを使った南瓜田鶏という料理がある。
四川でカエルは欠かせない需要の高い食料で、市場に行くと生きたままカエルが山になって売られている。緑のカエルではなく、かといって牛蛙のような巨大カエルでもなく、手のひら大のごついカエルだ。
私が初めてカエルを食べたのは安徽省だった。その時のカエルはぶつぶつした皮がついていてけっこう生々しかった記憶がある。カエルのぶつ切り状態だった。それに対し四川でカエルといえば美蛙魚頭鍋という火鍋が大人気だが、カエルは皮が剥かれるものの、骨はばらされることなく輪郭そのままで食す。それにびっくりする人もいるかもしれないが、肉は手羽先のようにするりと骨から剥がれ、骨が若干細かいものの食べやすく美味。よくカエルは鶏肉に似ているなんて話を耳にするが、本当にその通りだなと思う。

カエルを生姜と唐辛子の山の中から発掘しながら、白酒にビールを飲んだ。今夜はビールだけにしようと思ったけれど、仕方ない。酒好きであれば、飲まずにはいられない料理だ。
カエルの骨は細かいので、口の中で選別をしてから肉だけ飲み込む。そんな作業中もひりひりと私の口内を容赦なく攻撃する。
お通しで出してくれた水煮落花生をチェイサーにしながら、とうとう完食してしまった。

そして、途中でリヤカーを引き売りにきたおばちゃんから四川式寒天の冰粉を買い、辛いのと交互に食べて口を冷ます。こんなのも、四川ならではの楽しみ方だ。
他にも果物売りやいろんな売り子が席をまわって来るけれど、これらは迷惑な押し売りではないから、声を掛けられたらきちんと返事をすべき。そしてこうした露天を回る物売りも、楽しさのひとつだ。
しかし大変。いざ食べ終わりお会計してみると、なんと200元を超している。やっぱり高かったのか?それとも?正直きつかったし、いくらなんでも高すぎだとは思うけれど、初めにひるまず確認しなかった私が悪い。一斤いくらだから200元なんとか…と、確かにそんなことを話していた店員さんを思い出せば、もうどう考えても私の問題だった。


こうして高額の夕食をしておきながらどうも温かい汁ものが食べたくなり、散歩ついでに通りがかったおばちゃんの麵屋さんで、炸醤麺を食べた。
お世辞ではなく、気のせいではなく、美味しかった。一碗8元。もう深夜1時を過ぎているというのに、こんな金額では割に合わない。そんなことを考えていると、男性が二人入店した。
自貢ならまたいつでも来れる。うつくしい炸醤麺は本当に美味しかったから、かならずまた来よう。
深夜にも賑やかな飲み屋街を通り過ぎると一転、人気のない通り。それぞれの建物の前には守衛さん用の小さなボックス小屋があり、さりげなく覗きながら通り過ぎると、どの親父さんも横になって寝ている。
真っ暗な釜渓河沿いを歩きながらホテルへ戻り、ばたりと倒れた。
〈記 7月23日 自貢・自流井にて〉
参考:
抄手 10元
路線バス 2元
燊海井 27元
塩1袋 10元
冰粉 6元
仔姜田鶏 224元
炸醤麺 8元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈4日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
2020-09-01
自貢・宜賓22日間周遊 〈4日目〉 自貢・自流井
2020年7月23日、本日も相変わらずで13時を過ぎての出発となった。
昨晩というか一度目を覚ました時、空はもうすでに明るみ始めていた。けれどそのあと手、腕、脚のかゆみで眠いのに眠れず苦しんだ記憶が残る。
四川の夏は蚊との戦い。それは日本の比ではないと思う。一昨年に四川に滞在したときも手足はひどいことになり、掻きむしって血だらけになった。
しかし、どうも蚊だけではない?と思い始めたのもその一昨年。ひとつ疑っているのは、アレルギー。日本に帰ったり四川を離れると症状がぴたりと収まるので、病院で確かめたことはないが、どうやら麻辣料理の中に含まれる何かが蚊とは違うぷつぷつを呼んでいる?そんな気もするし、部屋のダニかもしれないと思ったり。
とにかく地獄のようにかゆいのに、また骨皮部分のような掻きにくいところがかゆくなり、ところが四川を離れるとぱたりと止むのだ。
そうして一晩、明日は痒み止めを買うぞとそればかりぐるぐると考え、気づけば昼だった。

ホテルから十字口を歩き、第一病院を右折。向かうのは、‟彩灯博物館”。
もともと博物館などの箱物にはそう興味がないのだけど、自貢を代表する三つのキーワード、塩、恐竜、灯会を紹介する博物館がここには揃っているので、これらは一通り覗いてみたかった。
しかし恐竜博物館はすでに一昨日、昨日と間に合わず失敗。おそらく今回は時間がないかなと諦めつつ、今日は初めに立てた計画通りに彩灯博物館へ行ってみることにした。
自貢は灯会―元宵節のランタン祭が有名で、哈爾濱の氷祭りと並べ称される。世界から観光客が集まる規模で、時期的に難しいかなと思うけれど、死ぬまでに一度行ってみたいイベント。
そのランタン祭自体は中国全土の伝統文化で歴史も長い。博物館でどのような展示がされているか、楽しみにしていた。

彩灯博物館は、すでに何度も通っている東方広場と敷地を並べる彩灯公園内にある。釜渓河から歩いてすぐなので、慌てず歩く。
まずは東方公園入口へ。
このいかにも昭和期にできたという非スマート感がいい。街のシンボルかのようにそびえる中華風塔もまた、10年20年に昔っぽく作りましたよという胡散臭さ満載で、しかも下から見上げてもすでに廃墟化していることがすぐにわかる。廃墟化した完成度の低い塔が街の景観を担っている、このちぐはぐさは日本ではちょっとありえないことで、大変失礼な言い方をしているけども、でも私が好きなもののひとつであることは間違いない。
若者で賑わう東方広場には、飲食店やファッションのお店やチェーン店が肩を並べる。
せっかくの旅行だしまずは何か食べておくかと入ってみたのは、前回の散策から気になっていた麵屋さん。

こんな若者のお店の中に囲まれるようにして、ここには数店舗おばあちゃん、おばちゃんくらいの年齢の人が麵屋を並べている。
おもしろかったのは、なんだか日本のラーメン屋さんみたいなカウンター。厨房を向いて座るこうしたカウンターは、中国ではあまり見かけないような気がする。
二軒迷い、こちらにした。お店に身体を向けるとおばあちゃんが私に声をかけた。
ここでも非常に迷ったが、結局普通の牛肉麺に。

ところが、この牛肉麺がめちゃくちゃ美味しかった。
成都も宜賓も、四川式牛肉麺はどこも同じだと思っていた。星の数ほど食べてきた結論である。
油が多く、唐辛子と花椒で辛い。そこにサイコロ状の牛肉や筋、それから山盛りのパクチーがのる。
ところがここの牛肉麺にはパクチーがのっていなかった。そしてスープも宜賓の燃湯麺のように真っ赤。麺も拉麺のようなきめ細かさ。
一口食べてみて、「おいしい」と思った。昨日の抄手と同じで、辛味の中に甘みがある。糖が入っているよなぁ…ともう一口。今までこの味覚の抄手にも牛肉麺にも出会ったことがなかったので、もしかして自貢ならではだろうか。

こうして満足して東方広場を横断していると、辛いものの次には甘いもの冷たいものが欲しくなった。
そこで通りがかったミルクティー屋さんへ。

ここで目に入ったのは、豆腐ミルクティー。このお店は豆腐のトッピングが売りのようだ。
しかもそこには、「静岡豆腐ミルクティー」の文字。私は静岡人だが、豆腐が静岡を代表するなんて聞いたことがない。写真にはまるで流行りのタピオカのように、こんもり盛られた豆腐がおいしそうなんだかそうじゃないんだか、よくわからない。
成都を中心に人気なお店に茶百道がある。私も大好きだが、少しだけ高い。そこには静岡抹茶という抹茶ラテのようなものがあり、お店のデザインも少し茶百道に似ていたからそれに影響を受けての静岡メニューなのかもしれないが。私が選んだのは結局定番のオレオミルクティー。
ここから東方広場をぐるりと抜け、いよいよ彩灯公園敷地内に進入した。
木々がこんもりとした公園には緑がぬるそうな池があり、アヒルボートが繁盛している。思わず乗ってみたくなったけど、左手に彩灯博物館を見つけ、そちらに進んだ。

暗い雰囲気の博物館に、今日は休館日かと思ったほど。
コロナウイルス関連の登記も検温もなく、形ばかり注意を促すQRコード表示があるだけ。
観光地に入る時にはマスクをつけているが、完全に無人で私はマスクを外した。

第一展示室から順に見ていくと、初めは人類に灯というものが登場した石器時代からのスタートだった。
寧夏には、3万年前の石器時代に石壁に灯りを使用していた遺跡が見つかっているのだとか。寂しい様子で、ぐるりと各時代の燭台などがガラスケースに展示されている。

次の展示室に進むと、真ん中に巨大な燭台が並んでいる。
‟百枝灯樹”と名がある。
唐代楊貴妃の姉である韓国夫人が、青銅器で高さ数十mにもおよぶ燭台を並べ鑑賞したという記録が史書に残っているそう。
唐代にランタン祭はかなり盛り上がっていたという。私も中国の歴史ドラマでそのシーンを見たことがある。夜間外出禁止令が出ていたが、元宵節のランタン祭の時だけはそれが解禁され、身分の上下関係なく富む者も貧しい者も街に繰り出し楽しんだとか。
この時代になると民間の人々も簡単なランタンや灯りでは満足しなくなり、その規模は拡大していったのだと説明されていた。当時ランタン祭のことを、灯影之会と呼んでいた記録が残る。これが基になり、現代の灯会、灯節という呼び方が生まれた。
唐代はランタン祭において、ひとつの発展期だったといえるだろう。


こちらの絵は、当時のランタン祭の様子を描いたもの。多くの人が灯りを手に下げ、船に乗り池に映る月を眺めたりしている。

南宋時代には、蔵灯閣というものができた。
詩人陸遊が、ランタン祭後に民間人がそのうつくしいランタンを捨て火にくべているのを見て驚き惜しみ、当時の県府役人にランタンを納めるための建物を依頼したのだという。そうして自ら、蔵灯閣という字を書き扁額にした。
明清は、ランタン祭がもっとも勢いをもった時代だったそう。
ランタンの形状もさまざまになり、またその材料も、陶器、金属、ガラス、木製と多岐に亘り、装飾もより華美になっていった。
この時代になるとランタン祭は全国全土に浸透し、都市部から小さな農村に至るまで、行われた。ランタンに花火、銅鑼を鳴らし舞い元宵節を迎え、時代と共にその様子はますます華麗に、複雑に、賑やかに、祝う期間もどんどん長くなっていったという。

清代の自貢灯会にまつわる石碑が残る。こちらは五皇灯会の碑文。
この碑文は自貢の貢井区艾叶郷竹林村に見つかったもので、文字は擦れてもはやほとんど確認できないが、そこには清乾隆帝の時代、そこの五皇洞という廟で行われていた灯会の様子が記されているのだそう。
このように、自貢には各地にランタン祭に関する史跡が残っている。

こちらは‟灯杆”、またの名を‟灯竿坝”。自貢の産品であり、ランタン文化を伝える物。おもしろいのは、自貢には、この灯杆を地名にした場所や、また‟灯りを点ける”という意味になる‟点灯”を地名にしたところが十カ所ほどあるというのだ。そうしたところには灯会の史跡が残っていたりと、いずれも自貢におけるランタンの歴史を現代に伝えるものだろう。

こうして階段を上がっていき、暗い展示を進んでいく。お客はほかに誰もいない。あまりの蒸し暑さに眩暈を覚えながら、この辺りから私の気力はカラータイマーを鳴らし始めた。

こちらは自貢西部にある栄県に残る、灯会について記した石窟。

左手は今いる自流井区に残る石碑、右手は先ほどの五皇洞の石碑。いずれも灯会についての記録が残る。

こちらは自貢の地図。
先ほど見たように、灯会にまつわる地名と、灯会にまつわる遺跡が残る場所。合わせて22カ所。
自貢もおもしろい場所で、塩井戸の見学をしたけれども、各所にはやはり古い塩井戸遺跡が残るのだという。塩井戸遺跡に灯会遺跡、それを探しに行く旅もそれはおもしろそうだ。
宜賓で酒工場遺跡を見つけてみたい私だが、これが情報がない。それに比べて自貢の遺跡探しの方が情報はありそう。
全国的な伝統文化である、灯会。
ではどうして自貢のような地方都市がその代表として名を上げたのだろうか。
やはりその重要な背景として、塩都としての発展があるようだ。塩、灯会、恐竜に料理。それぞれは全く別の分野に見えて、自貢の発展の背景にお互いに絡み合っている。
太古の恩恵があり恐竜調査の拠点になり、同様に太古の地殻変動から恵みを得て塩業が始まった。その塩からこの地の食文化が花開き、そうした経済発展により伝統技術も成熟し人々の生活や文化も豊かになり、灯会の成熟を迎えた。ここでまた一回りし、スタート地点の恐竜に。太古の恐竜たちは、今では灯会の重要なモチーフだ。

現代の自貢におけるランタン祭のスタート地点は、1964年。2月13日から3月13日まで行われた。
公園内の湖には1225ものランタン作品が祭を彩り、開催期間中、41万人以上もの参加者が訪れた。
それから毎年行われ、記述はなかったがおそらく文革で一時中断をしているのだと思う。文革終息後、78年に再開した。



こうして展示はどんどん階を上げていく。
これらを見て、想像していたランタンとちょっと違うと感じた人もいるかもしれない。この規模はもうランタンという言葉をとうに超していて、日本人のイメージだと青森のねぶた祭だとか仙台の七夕祭りに近いかもしれない。
そして私のセンスない表現でいえば、中国版エレクトロニカルパレード…みたいな。
竹で作った骨組みに、ざまざまな色彩のシルク布を貼り付け作られた、演出の為のランタンだ。


こちらは超巨大な灯篭。この灯籠は宮灯と呼ばれていて、その宮灯を、陶器をつかって巨大に制作したもののようだ。
一つひとつはお皿やお椀などの食器で、これらが紐で括り付けられている。見上げると首が痛くなる高さで、吹き抜けを貫き最上階まで達している。

私のカラータイマーは点滅を速めていった。そのため、ここに展示されていた各地のランタン、ランタン祭については解説を読むには至っていない。
けれども、読み込めばかなりの通になれそうな情報量だった。残念なことにはこの時の私には気力と時間がなく、また精通してみようという意欲もなく。正直、自貢灯会については詳しくなってみたいけれども、中国全土に範囲を広げれば自滅しそうな予感を覚えおじけづいたというのも、ある。

仙居花灯。仙居は浙江省。これはうつくしいな、と目を引いた。
色紙の表面にぷつりぷつりと針で穴を開けて模様づけられた、針刺という技術なのだそう。

確かに中から灯りをともせば、これらの穴が輪郭となりきれいだろうな。

汴京灯籠張。汴京といえば、開封か。五角形が立体的になった姿が特徴で、それぞれの面には絵も描かれ手が込んでいる。すでに200年の歴史があるのだそう。

こちらは広東の長園竹芯灯。展示室にはぐるりと、このように切り紙で再現した灯籠も展示されていた。自貢はまた、切り絵も有名なのだそう。
実際この灯籠は、竹を彫刻したもののよう。

忠信花灯。広東省河源市連平県にある農村部に伝わるもの。
絵画、切り絵、書道、対联、詩句などが一体になったもので、多くの種類があるのだそう。客家文化のひとつで、なるほど確かに南方を思わせるような鮮やかさだなと思った。

こうして展示をぐるりとし、次の展示へ。するとそこには仏塔が。
なんとこの仏塔もランタン。竹骨にシルクの布を貼り付けて制作されている。どうやらお一人で作ったものなのか、製作者の名前もあった。気の遠くなるような作業だったに違いない。

ランタン、ランタン、ランタン…。中央の巨大なものは、一帯一路とタイトルがある。それはおいておいても、ディズニーランドの小さな世界みたいなイメージで見れば悪くない。
実際、そのすぐ隣りには、アナと雪の女王、白雪姫など、ディズニーモチーフのちょっと胡散臭い作品が並んでいる。

さらに上に上がっていくと、ランタン制作過程を説明する展示があった。興味深かったものの、どうしてかその展示の前には巨大なパンダが並び、背伸びしたり横から覗いたり。

こちらがまず第一段階。竹、今は針金かな?…で骨組みを作る。

そのあと立体化。

そのあと、シルクの薄布を貼り付けていく。全部、手作り、手作業なんだよなぁ、そんなことを実感し展示を簡単に流し見るのが申し訳なく思えてくる。
さらに上の階へ。しかしこれでも最上階ではないのだ。
私のカラータイマーはすでに壊れ、とうとう動きを止めてしまった。吹き抜けを一気に階下へ墜落するのでは、と思うほどふらふら。外ではそうでもなかったが、室内の蒸し暑さはもうサウナかと思うほどだった。

ここには、様々な材料を使った、もはやこれはランタンではないのでは?と思うような作品が並んでいた。
こちらは、試験管を使って作られた、自貢の天車。おもしろいと思うけれど、これはどうやって光らせるのだろう。

次にこちらは鳳凰。天井に届くほどの大きさ。

陶器を集めて作られていて、細かな羽はなんとみな、レンゲ。

こちらの龍の鱗は、CD?と思い解説を見てみると、ディスクと書いてある。
昔懐かしいCDを4分の1くらいに折ってはめたような鱗。


その対面にいる鳳凰は、遠目では貝かなにかを使っているように見えたが、実は繭をつかって装飾されている。いったい、いくつの繭を使っただろう。

これらの展示の中で一番好みだったのは、こちら。薬瓶の中に彩色した水を入れて繋ぎ合わせる。そうしてできた孔雀たちだ。
背後の窓から光が差し込み、まるでステンドグラスのように光をまき散らす。おもわず見とれて、花を集めては‟色水”を作った幼い頃を思い出す。しかしそれもつかの間、空が陰ったのか、あっという間に光たちは静かになった。

この彩灯博物館で残念だったのは、ぜひ暗がりの中に浮かび上がる色彩を眺めてみたかったことだ。
こうしたランタンは、闇の中に光を放ってこそ真の姿になる。
これらシルクの色彩、闇を得たらいったいどんな表情を見せるのだろう。
ここに並ぶランタンたちにどうも生気を感じないのは、光がないから?それとも闇がないから?
光だけではだめ、闇だけでもだめ。
かれらはまるで、押し入れの中で出番を待つ節句の飾りみたいだ。

この上がとうとう最上階だった。
中国の展示の良いところなのか良くないところなのか、とりあえず関連したものを大量に置いておけばいいだろう、とそんな趣旨で構成された典型的な博物館であった。
それはもう一階の時点から察知していたことだったけれど、あまりにも上に続くので、もう意地だったとしかいいようがない。カラータイマーも音を上げた。

最上階には、日本から寄贈された提灯が掛かっていた。裏を見れば「恐竜灯」と書かれていたので、ランタン祭のために送ったものだろう。
ここには自貢の灯会が世界各国と繋がっているような説明が並んでいたが、もちろん読む気力はない。日本についての説明は見当たらなかった。
しかし思いも寄らず日本関連のものを目にし、ああやっぱり私は日本人なんだよな、と感慨を抱いた。

こうして彩灯博物館を後にし、公園へ出た。
池にはいまだ大量のアヒルボートが泳ぎ回っている。その向こうに見える池に面した茶館も雰囲気がよさそうで、一人でなかったらあそこでお茶もいいななんて思ったり。


せっかくなので、昭和の廃墟を彷彿とさせる塔まで登ってみた。
この塔は灯塔というそうで、それならばもう少しメンテナンスをすればいいものを、すっかり“バブル期観光地の今”状態になっていた。周囲は荒れ放題、塔内部は一切のものが撤去され、ガラス片が散らばっている。
遠目は中華伝統建築風ではあるけれど、鉄筋コンクリート、伝統建築はシルエットだけだ。
自貢と百度で検索してみると、煌びやかな夜景写真が出てくる。街の紹介に使われる写真にはこの塔がなかなかなうつくしさをアピールしているが、すっぴんは残念なすがたである。けれども実は、そう嫌いでもないこの寂れた感じ。
これもまたこの場所の歴史のひとつであり、また遠くからでもそれなりに形になっているんならそれでもいいじゃないか、という明るさでもあるように思う。
灯塔の下にはちょっとした、これもまた昭和期を思い起こすような小さな遊園地となっており、絶叫マシーンを楽しんでいる若者がいた。

その先には閉ざされていたが爬虫類館があり、人食いワニ、巨大なニシキヘビ、などと煽る文字と写真。
爬虫類館の向こうにはお化け屋敷、それから地震体験館などと、いずれも営業はしていなかったけれど、怖い系統のお店が並んでいる。

遊園地を下ると、解放碑がそびえていた。
こうした解放碑は中国各所にあるものだが、説明をよく見てみるとこれはもともと、1941年に抗日に関わった人たちを紀念するために建てられた記念碑なのだという。
自貢も日本軍から深刻な被害を受けたと聞く。そのため、抗日デモがエスカレートした時には、ここ自貢でもけっこう大規模なものが起きたそう。
ホテルに戻り、夕食に出掛けたのは21時。
こちらでは20時から徐々に黄昏時を迎えるということもあるけれど、仕事を全て片付けてからご飯を食べに行く日々が続いて、深夜に一日唯一の食事という生活が普通になってしまった。21時で早めのご飯という感覚は、きっとどう考えてもおかしいんだろうなと思う。


ご飯の前に向かったのは、L字にカーブした釜渓河を越えたすぐのところにある自流井老街。インターネット上に出てきたので、向かってみた。
降り出した雨、釜渓河の対岸にはライトアップされた建物が並んでいて、派手さはないもののしっとりとした雰囲気がある。
その向こうには昼間に目にすることができなかったランタンが煌びやか。日本人の私にはしかしどうも、ねぶたに見えてしまう。

橋を渡ると、老街を示す牌楼はすぐそこにあった。けれどもその先は闇。
案内板があり、ここを下りた先、川沿いにずっと老街が続いていることを知った。明るいうちに来てみればよかったよ…。ここは昔塩の運搬に使われたいわゆる塩の道で、ここから先にはいろいろと史跡が残るよう。1㎞超、ずっと先には自流井、この区名にもなった塩井戸遺跡もあるようだ。
ここはおそらく今回は観光する時間がないだろうから、今度日を改めてゆっくりと散策してみたい。

橋を戻り釜渓河を北上し、飲み屋街へ向かった。
対岸は真っ暗で断念した老街。赤い提灯を並べた雰囲気あるお店があり少し興味を惹かれたけれど、一人ではちょっと寂しい。

結局迷いながらも今夜は冒険を諦め、昨晩の麵屋さんも気になったけれど、初日に出会った烧烤で無難に飲んで帰ることにした。
一日一食の日々が当たり前になり、昼間に何か食べるとどうも夜食欲がでない。それなのにどうして痩せないんだ!と思うけれど、深夜にこれだけ脂っこいものを食べて度数の強いお酒を毎晩がぶがぶ飲んでいれば、それは痩せないよなぁと、触り心地のよいおなかをなでながら思う。かといって特に肥満でもないのは、やっぱり一食だからなのか。
がりがりに痩せた虎猫が今夜は二匹。私の足元に来るから「私のことを覚えた?」と思ったけれど、手を伸ばせばびくりと跳ねる。
初め迷っていた昨晩の‟うつくしい炸鶏麺”を心に決めながら、もう一軒に浮気心を覚えていた。この露天街に同じく露天で並ぶ麵屋さん、その名も灯城拉麺。露天にテーブルを並べ、お客を待っている。この四晩いつ通っても深夜までお客がいて、覗くもメニューの表示がないし拉麺というのが気になっていた。
この晩も烧烤に辿り着く前にここを通りがかったけど、その時には親父さんが麺の束を両手に巻き、大きく振り回しているのを見た。
今夜は四晩目。あと二晩。おなかはひとつ。
迷うなぁ。
そんなことを考えながら、烧烤10本ほどで満腹になってしまった。
自貢はほんとうにいつでも来れるので、宿泊費用さえ苦しくないなら、またこうした連泊はいつでもできる。
気に入ったお店は忘れない。また、来ればいい。
宜賓だけでなく、自貢でもお気に入りの場所を増やしていこうか。たくさんのまだ見ない塩井戸遺跡を見つけ、灯会遺跡を訪れ、恐竜の発掘現場を見に行こう。
今現在、私が移動を許可されたのは宜賓と自貢、この二か所だけなのだから。
成都でさえ、今の私には海を越えた日本のように遠い。
〈記 7月24日 自貢・自流井にて〉
参考:
牛肉麺 10元
ミルクティー 10元
彩灯博物館 無料
烧烤 65元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈5日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
昨晩というか一度目を覚ました時、空はもうすでに明るみ始めていた。けれどそのあと手、腕、脚のかゆみで眠いのに眠れず苦しんだ記憶が残る。
四川の夏は蚊との戦い。それは日本の比ではないと思う。一昨年に四川に滞在したときも手足はひどいことになり、掻きむしって血だらけになった。
しかし、どうも蚊だけではない?と思い始めたのもその一昨年。ひとつ疑っているのは、アレルギー。日本に帰ったり四川を離れると症状がぴたりと収まるので、病院で確かめたことはないが、どうやら麻辣料理の中に含まれる何かが蚊とは違うぷつぷつを呼んでいる?そんな気もするし、部屋のダニかもしれないと思ったり。
とにかく地獄のようにかゆいのに、また骨皮部分のような掻きにくいところがかゆくなり、ところが四川を離れるとぱたりと止むのだ。
そうして一晩、明日は痒み止めを買うぞとそればかりぐるぐると考え、気づけば昼だった。

ホテルから十字口を歩き、第一病院を右折。向かうのは、‟彩灯博物館”。
もともと博物館などの箱物にはそう興味がないのだけど、自貢を代表する三つのキーワード、塩、恐竜、灯会を紹介する博物館がここには揃っているので、これらは一通り覗いてみたかった。
しかし恐竜博物館はすでに一昨日、昨日と間に合わず失敗。おそらく今回は時間がないかなと諦めつつ、今日は初めに立てた計画通りに彩灯博物館へ行ってみることにした。
自貢は灯会―元宵節のランタン祭が有名で、哈爾濱の氷祭りと並べ称される。世界から観光客が集まる規模で、時期的に難しいかなと思うけれど、死ぬまでに一度行ってみたいイベント。
そのランタン祭自体は中国全土の伝統文化で歴史も長い。博物館でどのような展示がされているか、楽しみにしていた。

彩灯博物館は、すでに何度も通っている東方広場と敷地を並べる彩灯公園内にある。釜渓河から歩いてすぐなので、慌てず歩く。
まずは東方公園入口へ。
このいかにも昭和期にできたという非スマート感がいい。街のシンボルかのようにそびえる中華風塔もまた、10年20年に昔っぽく作りましたよという胡散臭さ満載で、しかも下から見上げてもすでに廃墟化していることがすぐにわかる。廃墟化した完成度の低い塔が街の景観を担っている、このちぐはぐさは日本ではちょっとありえないことで、大変失礼な言い方をしているけども、でも私が好きなもののひとつであることは間違いない。
若者で賑わう東方広場には、飲食店やファッションのお店やチェーン店が肩を並べる。
せっかくの旅行だしまずは何か食べておくかと入ってみたのは、前回の散策から気になっていた麵屋さん。

こんな若者のお店の中に囲まれるようにして、ここには数店舗おばあちゃん、おばちゃんくらいの年齢の人が麵屋を並べている。
おもしろかったのは、なんだか日本のラーメン屋さんみたいなカウンター。厨房を向いて座るこうしたカウンターは、中国ではあまり見かけないような気がする。
二軒迷い、こちらにした。お店に身体を向けるとおばあちゃんが私に声をかけた。
ここでも非常に迷ったが、結局普通の牛肉麺に。

ところが、この牛肉麺がめちゃくちゃ美味しかった。
成都も宜賓も、四川式牛肉麺はどこも同じだと思っていた。星の数ほど食べてきた結論である。
油が多く、唐辛子と花椒で辛い。そこにサイコロ状の牛肉や筋、それから山盛りのパクチーがのる。
ところがここの牛肉麺にはパクチーがのっていなかった。そしてスープも宜賓の燃湯麺のように真っ赤。麺も拉麺のようなきめ細かさ。
一口食べてみて、「おいしい」と思った。昨日の抄手と同じで、辛味の中に甘みがある。糖が入っているよなぁ…ともう一口。今までこの味覚の抄手にも牛肉麺にも出会ったことがなかったので、もしかして自貢ならではだろうか。

こうして満足して東方広場を横断していると、辛いものの次には甘いもの冷たいものが欲しくなった。
そこで通りがかったミルクティー屋さんへ。

ここで目に入ったのは、豆腐ミルクティー。このお店は豆腐のトッピングが売りのようだ。
しかもそこには、「静岡豆腐ミルクティー」の文字。私は静岡人だが、豆腐が静岡を代表するなんて聞いたことがない。写真にはまるで流行りのタピオカのように、こんもり盛られた豆腐がおいしそうなんだかそうじゃないんだか、よくわからない。
成都を中心に人気なお店に茶百道がある。私も大好きだが、少しだけ高い。そこには静岡抹茶という抹茶ラテのようなものがあり、お店のデザインも少し茶百道に似ていたからそれに影響を受けての静岡メニューなのかもしれないが。私が選んだのは結局定番のオレオミルクティー。
ここから東方広場をぐるりと抜け、いよいよ彩灯公園敷地内に進入した。
木々がこんもりとした公園には緑がぬるそうな池があり、アヒルボートが繁盛している。思わず乗ってみたくなったけど、左手に彩灯博物館を見つけ、そちらに進んだ。

暗い雰囲気の博物館に、今日は休館日かと思ったほど。
コロナウイルス関連の登記も検温もなく、形ばかり注意を促すQRコード表示があるだけ。
観光地に入る時にはマスクをつけているが、完全に無人で私はマスクを外した。

第一展示室から順に見ていくと、初めは人類に灯というものが登場した石器時代からのスタートだった。
寧夏には、3万年前の石器時代に石壁に灯りを使用していた遺跡が見つかっているのだとか。寂しい様子で、ぐるりと各時代の燭台などがガラスケースに展示されている。

次の展示室に進むと、真ん中に巨大な燭台が並んでいる。
‟百枝灯樹”と名がある。
唐代楊貴妃の姉である韓国夫人が、青銅器で高さ数十mにもおよぶ燭台を並べ鑑賞したという記録が史書に残っているそう。
唐代にランタン祭はかなり盛り上がっていたという。私も中国の歴史ドラマでそのシーンを見たことがある。夜間外出禁止令が出ていたが、元宵節のランタン祭の時だけはそれが解禁され、身分の上下関係なく富む者も貧しい者も街に繰り出し楽しんだとか。
この時代になると民間の人々も簡単なランタンや灯りでは満足しなくなり、その規模は拡大していったのだと説明されていた。当時ランタン祭のことを、灯影之会と呼んでいた記録が残る。これが基になり、現代の灯会、灯節という呼び方が生まれた。
唐代はランタン祭において、ひとつの発展期だったといえるだろう。


こちらの絵は、当時のランタン祭の様子を描いたもの。多くの人が灯りを手に下げ、船に乗り池に映る月を眺めたりしている。

南宋時代には、蔵灯閣というものができた。
詩人陸遊が、ランタン祭後に民間人がそのうつくしいランタンを捨て火にくべているのを見て驚き惜しみ、当時の県府役人にランタンを納めるための建物を依頼したのだという。そうして自ら、蔵灯閣という字を書き扁額にした。
明清は、ランタン祭がもっとも勢いをもった時代だったそう。
ランタンの形状もさまざまになり、またその材料も、陶器、金属、ガラス、木製と多岐に亘り、装飾もより華美になっていった。
この時代になるとランタン祭は全国全土に浸透し、都市部から小さな農村に至るまで、行われた。ランタンに花火、銅鑼を鳴らし舞い元宵節を迎え、時代と共にその様子はますます華麗に、複雑に、賑やかに、祝う期間もどんどん長くなっていったという。

清代の自貢灯会にまつわる石碑が残る。こちらは五皇灯会の碑文。
この碑文は自貢の貢井区艾叶郷竹林村に見つかったもので、文字は擦れてもはやほとんど確認できないが、そこには清乾隆帝の時代、そこの五皇洞という廟で行われていた灯会の様子が記されているのだそう。
このように、自貢には各地にランタン祭に関する史跡が残っている。

こちらは‟灯杆”、またの名を‟灯竿坝”。自貢の産品であり、ランタン文化を伝える物。おもしろいのは、自貢には、この灯杆を地名にした場所や、また‟灯りを点ける”という意味になる‟点灯”を地名にしたところが十カ所ほどあるというのだ。そうしたところには灯会の史跡が残っていたりと、いずれも自貢におけるランタンの歴史を現代に伝えるものだろう。

こうして階段を上がっていき、暗い展示を進んでいく。お客はほかに誰もいない。あまりの蒸し暑さに眩暈を覚えながら、この辺りから私の気力はカラータイマーを鳴らし始めた。

こちらは自貢西部にある栄県に残る、灯会について記した石窟。

左手は今いる自流井区に残る石碑、右手は先ほどの五皇洞の石碑。いずれも灯会についての記録が残る。

こちらは自貢の地図。
先ほど見たように、灯会にまつわる地名と、灯会にまつわる遺跡が残る場所。合わせて22カ所。
自貢もおもしろい場所で、塩井戸の見学をしたけれども、各所にはやはり古い塩井戸遺跡が残るのだという。塩井戸遺跡に灯会遺跡、それを探しに行く旅もそれはおもしろそうだ。
宜賓で酒工場遺跡を見つけてみたい私だが、これが情報がない。それに比べて自貢の遺跡探しの方が情報はありそう。
全国的な伝統文化である、灯会。
ではどうして自貢のような地方都市がその代表として名を上げたのだろうか。
やはりその重要な背景として、塩都としての発展があるようだ。塩、灯会、恐竜に料理。それぞれは全く別の分野に見えて、自貢の発展の背景にお互いに絡み合っている。
太古の恩恵があり恐竜調査の拠点になり、同様に太古の地殻変動から恵みを得て塩業が始まった。その塩からこの地の食文化が花開き、そうした経済発展により伝統技術も成熟し人々の生活や文化も豊かになり、灯会の成熟を迎えた。ここでまた一回りし、スタート地点の恐竜に。太古の恐竜たちは、今では灯会の重要なモチーフだ。

現代の自貢におけるランタン祭のスタート地点は、1964年。2月13日から3月13日まで行われた。
公園内の湖には1225ものランタン作品が祭を彩り、開催期間中、41万人以上もの参加者が訪れた。
それから毎年行われ、記述はなかったがおそらく文革で一時中断をしているのだと思う。文革終息後、78年に再開した。



こうして展示はどんどん階を上げていく。
これらを見て、想像していたランタンとちょっと違うと感じた人もいるかもしれない。この規模はもうランタンという言葉をとうに超していて、日本人のイメージだと青森のねぶた祭だとか仙台の七夕祭りに近いかもしれない。
そして私のセンスない表現でいえば、中国版エレクトロニカルパレード…みたいな。
竹で作った骨組みに、ざまざまな色彩のシルク布を貼り付け作られた、演出の為のランタンだ。


こちらは超巨大な灯篭。この灯籠は宮灯と呼ばれていて、その宮灯を、陶器をつかって巨大に制作したもののようだ。
一つひとつはお皿やお椀などの食器で、これらが紐で括り付けられている。見上げると首が痛くなる高さで、吹き抜けを貫き最上階まで達している。

私のカラータイマーは点滅を速めていった。そのため、ここに展示されていた各地のランタン、ランタン祭については解説を読むには至っていない。
けれども、読み込めばかなりの通になれそうな情報量だった。残念なことにはこの時の私には気力と時間がなく、また精通してみようという意欲もなく。正直、自貢灯会については詳しくなってみたいけれども、中国全土に範囲を広げれば自滅しそうな予感を覚えおじけづいたというのも、ある。

仙居花灯。仙居は浙江省。これはうつくしいな、と目を引いた。
色紙の表面にぷつりぷつりと針で穴を開けて模様づけられた、針刺という技術なのだそう。

確かに中から灯りをともせば、これらの穴が輪郭となりきれいだろうな。

汴京灯籠張。汴京といえば、開封か。五角形が立体的になった姿が特徴で、それぞれの面には絵も描かれ手が込んでいる。すでに200年の歴史があるのだそう。

こちらは広東の長園竹芯灯。展示室にはぐるりと、このように切り紙で再現した灯籠も展示されていた。自貢はまた、切り絵も有名なのだそう。
実際この灯籠は、竹を彫刻したもののよう。

忠信花灯。広東省河源市連平県にある農村部に伝わるもの。
絵画、切り絵、書道、対联、詩句などが一体になったもので、多くの種類があるのだそう。客家文化のひとつで、なるほど確かに南方を思わせるような鮮やかさだなと思った。

こうして展示をぐるりとし、次の展示へ。するとそこには仏塔が。
なんとこの仏塔もランタン。竹骨にシルクの布を貼り付けて制作されている。どうやらお一人で作ったものなのか、製作者の名前もあった。気の遠くなるような作業だったに違いない。

ランタン、ランタン、ランタン…。中央の巨大なものは、一帯一路とタイトルがある。それはおいておいても、ディズニーランドの小さな世界みたいなイメージで見れば悪くない。
実際、そのすぐ隣りには、アナと雪の女王、白雪姫など、ディズニーモチーフのちょっと胡散臭い作品が並んでいる。

さらに上に上がっていくと、ランタン制作過程を説明する展示があった。興味深かったものの、どうしてかその展示の前には巨大なパンダが並び、背伸びしたり横から覗いたり。

こちらがまず第一段階。竹、今は針金かな?…で骨組みを作る。

そのあと立体化。

そのあと、シルクの薄布を貼り付けていく。全部、手作り、手作業なんだよなぁ、そんなことを実感し展示を簡単に流し見るのが申し訳なく思えてくる。
さらに上の階へ。しかしこれでも最上階ではないのだ。
私のカラータイマーはすでに壊れ、とうとう動きを止めてしまった。吹き抜けを一気に階下へ墜落するのでは、と思うほどふらふら。外ではそうでもなかったが、室内の蒸し暑さはもうサウナかと思うほどだった。

ここには、様々な材料を使った、もはやこれはランタンではないのでは?と思うような作品が並んでいた。
こちらは、試験管を使って作られた、自貢の天車。おもしろいと思うけれど、これはどうやって光らせるのだろう。

次にこちらは鳳凰。天井に届くほどの大きさ。

陶器を集めて作られていて、細かな羽はなんとみな、レンゲ。

こちらの龍の鱗は、CD?と思い解説を見てみると、ディスクと書いてある。
昔懐かしいCDを4分の1くらいに折ってはめたような鱗。


その対面にいる鳳凰は、遠目では貝かなにかを使っているように見えたが、実は繭をつかって装飾されている。いったい、いくつの繭を使っただろう。

これらの展示の中で一番好みだったのは、こちら。薬瓶の中に彩色した水を入れて繋ぎ合わせる。そうしてできた孔雀たちだ。
背後の窓から光が差し込み、まるでステンドグラスのように光をまき散らす。おもわず見とれて、花を集めては‟色水”を作った幼い頃を思い出す。しかしそれもつかの間、空が陰ったのか、あっという間に光たちは静かになった。

この彩灯博物館で残念だったのは、ぜひ暗がりの中に浮かび上がる色彩を眺めてみたかったことだ。
こうしたランタンは、闇の中に光を放ってこそ真の姿になる。
これらシルクの色彩、闇を得たらいったいどんな表情を見せるのだろう。
ここに並ぶランタンたちにどうも生気を感じないのは、光がないから?それとも闇がないから?
光だけではだめ、闇だけでもだめ。
かれらはまるで、押し入れの中で出番を待つ節句の飾りみたいだ。

この上がとうとう最上階だった。
中国の展示の良いところなのか良くないところなのか、とりあえず関連したものを大量に置いておけばいいだろう、とそんな趣旨で構成された典型的な博物館であった。
それはもう一階の時点から察知していたことだったけれど、あまりにも上に続くので、もう意地だったとしかいいようがない。カラータイマーも音を上げた。

最上階には、日本から寄贈された提灯が掛かっていた。裏を見れば「恐竜灯」と書かれていたので、ランタン祭のために送ったものだろう。
ここには自貢の灯会が世界各国と繋がっているような説明が並んでいたが、もちろん読む気力はない。日本についての説明は見当たらなかった。
しかし思いも寄らず日本関連のものを目にし、ああやっぱり私は日本人なんだよな、と感慨を抱いた。

こうして彩灯博物館を後にし、公園へ出た。
池にはいまだ大量のアヒルボートが泳ぎ回っている。その向こうに見える池に面した茶館も雰囲気がよさそうで、一人でなかったらあそこでお茶もいいななんて思ったり。


せっかくなので、昭和の廃墟を彷彿とさせる塔まで登ってみた。
この塔は灯塔というそうで、それならばもう少しメンテナンスをすればいいものを、すっかり“バブル期観光地の今”状態になっていた。周囲は荒れ放題、塔内部は一切のものが撤去され、ガラス片が散らばっている。
遠目は中華伝統建築風ではあるけれど、鉄筋コンクリート、伝統建築はシルエットだけだ。
自貢と百度で検索してみると、煌びやかな夜景写真が出てくる。街の紹介に使われる写真にはこの塔がなかなかなうつくしさをアピールしているが、すっぴんは残念なすがたである。けれども実は、そう嫌いでもないこの寂れた感じ。
これもまたこの場所の歴史のひとつであり、また遠くからでもそれなりに形になっているんならそれでもいいじゃないか、という明るさでもあるように思う。
灯塔の下にはちょっとした、これもまた昭和期を思い起こすような小さな遊園地となっており、絶叫マシーンを楽しんでいる若者がいた。

その先には閉ざされていたが爬虫類館があり、人食いワニ、巨大なニシキヘビ、などと煽る文字と写真。
爬虫類館の向こうにはお化け屋敷、それから地震体験館などと、いずれも営業はしていなかったけれど、怖い系統のお店が並んでいる。

遊園地を下ると、解放碑がそびえていた。
こうした解放碑は中国各所にあるものだが、説明をよく見てみるとこれはもともと、1941年に抗日に関わった人たちを紀念するために建てられた記念碑なのだという。
自貢も日本軍から深刻な被害を受けたと聞く。そのため、抗日デモがエスカレートした時には、ここ自貢でもけっこう大規模なものが起きたそう。
ホテルに戻り、夕食に出掛けたのは21時。
こちらでは20時から徐々に黄昏時を迎えるということもあるけれど、仕事を全て片付けてからご飯を食べに行く日々が続いて、深夜に一日唯一の食事という生活が普通になってしまった。21時で早めのご飯という感覚は、きっとどう考えてもおかしいんだろうなと思う。


ご飯の前に向かったのは、L字にカーブした釜渓河を越えたすぐのところにある自流井老街。インターネット上に出てきたので、向かってみた。
降り出した雨、釜渓河の対岸にはライトアップされた建物が並んでいて、派手さはないもののしっとりとした雰囲気がある。
その向こうには昼間に目にすることができなかったランタンが煌びやか。日本人の私にはしかしどうも、ねぶたに見えてしまう。

橋を渡ると、老街を示す牌楼はすぐそこにあった。けれどもその先は闇。
案内板があり、ここを下りた先、川沿いにずっと老街が続いていることを知った。明るいうちに来てみればよかったよ…。ここは昔塩の運搬に使われたいわゆる塩の道で、ここから先にはいろいろと史跡が残るよう。1㎞超、ずっと先には自流井、この区名にもなった塩井戸遺跡もあるようだ。
ここはおそらく今回は観光する時間がないだろうから、今度日を改めてゆっくりと散策してみたい。

橋を戻り釜渓河を北上し、飲み屋街へ向かった。
対岸は真っ暗で断念した老街。赤い提灯を並べた雰囲気あるお店があり少し興味を惹かれたけれど、一人ではちょっと寂しい。

結局迷いながらも今夜は冒険を諦め、昨晩の麵屋さんも気になったけれど、初日に出会った烧烤で無難に飲んで帰ることにした。
一日一食の日々が当たり前になり、昼間に何か食べるとどうも夜食欲がでない。それなのにどうして痩せないんだ!と思うけれど、深夜にこれだけ脂っこいものを食べて度数の強いお酒を毎晩がぶがぶ飲んでいれば、それは痩せないよなぁと、触り心地のよいおなかをなでながら思う。かといって特に肥満でもないのは、やっぱり一食だからなのか。
がりがりに痩せた虎猫が今夜は二匹。私の足元に来るから「私のことを覚えた?」と思ったけれど、手を伸ばせばびくりと跳ねる。
初め迷っていた昨晩の‟うつくしい炸鶏麺”を心に決めながら、もう一軒に浮気心を覚えていた。この露天街に同じく露天で並ぶ麵屋さん、その名も灯城拉麺。露天にテーブルを並べ、お客を待っている。この四晩いつ通っても深夜までお客がいて、覗くもメニューの表示がないし拉麺というのが気になっていた。
この晩も烧烤に辿り着く前にここを通りがかったけど、その時には親父さんが麺の束を両手に巻き、大きく振り回しているのを見た。
今夜は四晩目。あと二晩。おなかはひとつ。
迷うなぁ。
そんなことを考えながら、烧烤10本ほどで満腹になってしまった。
自貢はほんとうにいつでも来れるので、宿泊費用さえ苦しくないなら、またこうした連泊はいつでもできる。
気に入ったお店は忘れない。また、来ればいい。
宜賓だけでなく、自貢でもお気に入りの場所を増やしていこうか。たくさんのまだ見ない塩井戸遺跡を見つけ、灯会遺跡を訪れ、恐竜の発掘現場を見に行こう。
今現在、私が移動を許可されたのは宜賓と自貢、この二か所だけなのだから。
成都でさえ、今の私には海を越えた日本のように遠い。
〈記 7月24日 自貢・自流井にて〉
参考:
牛肉麺 10元
ミルクティー 10元
彩灯博物館 無料
烧烤 65元
宿泊費 199元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈5日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
2020-09-01
自貢・宜賓22日間周遊 〈5日目〉 自貢・自流井
2020年7月24日、今日は郊外の仙市古鎮へ行こうと決めていた。
仙市古鎮は、自流井市街地から東南へ11㎞、蛇行する釜渓河を下ったところにある古鎮。前もって調べたところ、自貢站前から直通のバスが出ているということだったので、バスターミナルではなく駅へ行ってみようと考えていた。

ホテルを出たのは12時。今日も天気は冴えず、真っ白な空に体感ですぐわかるひどい湿気だ。
近くのバス停へ行き路線バスへ乗車。乗ったはいいが降り過ごしてロスをするも、12時半には自貢站へ着いた。

辺りは、市の中心駅とは思えないほど古びて庶民的な雰囲気。年季が入った低層アパートに商店、食堂が並んでいる。
ついでにと列車駅を覗きに行くと、なんだか様子がおかしい。人っ子一人いない静けさで、駅内部にも乗客はいないようだ。
見てみると駅の入り口は封鎖されている。自貢にはまだ高速鉄道は開通していないから、普通列車は生きているはずだけど…。閉鎖されたにしては電動掲示板は動き、政府の赤い横断幕はひらひらとし、入り口の公安は仕事をしている。

高速鉄道の開通を見込んで営業をやめたのか、何かで封鎖中なのかはわからない。けれども駅周辺の食堂や商店はそのほとんどがシャッターを下ろし無人の建物になっている。
この様子を見ると、ここはかつて駅前という立地から栄えた古い場所なのだろう。中国が全国的に高速鉄道化し、昔ながらの列車がかずかず廃線を迎えているなんて様子も伺えるけれど、私にとってはとても寂しいこと。少しずつ変わってくはずの街の景観や生活が、がらりと変わる転機に今あるのかもしれない。
駅が営業していないとなると、駅前からバスが出ているというのも怪しくなった。
駅から少し離れたところには確かに三台ほどのバスが並んでいたけれど、一台は瓦市行き。仙市の文字はない。
そこで目の前の煙草屋の親父さんに訊いてみると、この瓦市行きバスが途中仙市を通るのだという。

看板が立っていて、確かに矢印の途中に仙市と書いてある。
バスに乗り込むともうすでに結構な人が乗っていて、しばらく待ち座席が埋まったところでバスは出発した。中国各地をさまざま旅行してきた私だが、今まで乗ったことのあるバスの中でもっともおんぼろなバスだった。そんなのも旅の楽しみ。

高速へ乗り、下り、田舎道というか施工地帯を走る。山道でもないのにたいへんな悪路で、5月の珙県洛表への道を思い出す。
バウンドし、バスが傾き、またバウンドし。このバスよく壊れないよなぁと感心する。遊園地のアトラクション並みの揺れを楽しみ、仙市へ到着したのは出発から一時間近く経った13時だった。

ここにはバスターミナルなどないし、途中下車なので確認が必要。
帰りの最終が何時で、どこで待てばいいのか訊くと、
「最終は6時10分、この道のどこでもかまわない」という。最終はあくまで目安でしかないし、この場所にはタクシーも配車サービスもないし宿泊する場所もないことはわかるので、乗り過ごしは厳禁。遅くとも17時半までには戻っていたい。バスはここで乗客を待っていてはくれないし、通りがかったところを止めるシステムなので、時間ぎりぎりは避けたい。

バスを降りたところから川の方へ下りていくと、さっそく門が見えた。

手前には地図があり、この釜渓河に沿う形で仙市の集落が形成されているのがわかる。
古鎮はこの上部の、川が初めにカーブするところまで。その下にも二か所いろいろ娯楽施設の集まりが書かれているが、ゴルフだったりと古鎮とは違う休暇エリアのようだ。

古鎮といえば現代ブームで、どこにいっても観光客でごった返しカフェなどのショップが今のすがたを伝える。ところがここは、歩いて行っても誰もいない。観光客どころか住民もいないひっそりとした川沿いの道が続く。
右手に見える釜渓河は茶色く濁り、本来美しいはずの対岸は一帯ショベルカーで崩され土砂の山。
左手には、もともと川の景色を楽しみ涼みながら休憩をする場所なのだろう、麻雀台を並べた茶館が店を閉めている。
もしかしたら、もう人が失われ放棄された古鎮なのかなぁ、ちらりとそんなことを考える。

歩いて行くと、突き出た岩に穿たれた仏さま。一カ所二か所と、仏龕が彫られている。
いったいどれだけの歳月、釜渓河を眺めてきたのだろう。

しかしよく見ると、上半身が削られている。風化して摩耗したというよりは削られたふうで、もしかしたら文革の被害だろうか。
ここにはロウソクが火を灯していて、ようやく人の気配を得た。

その先には、もう幾時代も人の往来を受けて摩耗した、うつくしい石階段。なめらかな表面と苔むした肌は、数十年では生まれ得ない表情だ。

そしてその下には、うつくしくない埠頭跡があった。
うつくしくないとは余計なお世話だが、残念ながらどこを切り取ってもうつくしくない、仙市古鎮三つある埠頭の内、一つ目の埠頭跡だった。
仙市古鎮には、1400年以上もの歴史がある。
ここはかつて塩の交易で栄えた場所で、塩運第一鎮の名をもつ。自貢で採れた塩はここから船で運び出され釜渓河を流れ、沱江、そして長江へ。その後長江を遡り四川を流れ、やがて三峡へと運ばれたのだという。
いってみれば、塩の道、出発点。
うつくしくない埠頭といったが、もうここにはかつての面影はない。今この変わり果てた風景から当時を想像するのは、かなり厳しい。

宜賓市街地も自貢市街地も今、いたるところに百日紅が花を咲かせている。濃い桃色、薄紅色、白い花びら。
ここでもあちらこちらで自由に枝葉をのばし、それはもう私が知る百日紅ではないみたいだ。

川沿いに進もうとすると、左手にも道が折れていることに気づいた。
ふと覗いてみると、「酒工場」の文字。「ご自由に見学ください。試飲もできます」の文字に惹かれて、門をくぐってみた。

内部は古い工場だったが、現代の設備も備えていた。けっして大きくはない、小さな工場。近代の工場に興味がある私には、とてもおもしろい時代感だった。
一昨日見学した塩井戸は清代のもので、現在も稼働しているといっても歴史遺産を残しつつ生産を行っていく計算がある。
しかしこうした工場は、時間の流れを現実的に受け止めている。ここにあるありのままの姿。とても、現実的なのだ。

辺りには、私が知る白酒工場のすっぱい匂いとは少し違う匂いがした。目の前のコンクリタンクの中からは液体の流れる音がして、そこから漏れてくる匂いだ。白酒工場で嗅ぐ酸っぱい匂いは、穀物が発酵する段階で発せられる匂い。今この匂いは、完成された商品とはおそらくまた違った段階のものなのだろう。


四川には数多くの白酒工場がある。
その中でも酒都である宜賓には数え切れないほどの工場があり、また工場跡がある。
宜賓といえば、五粮液。中国酒メーカーのトップに位置する巨大ブランドで、また超巨大な工場を有する。
また宜賓ローカルブランドとしては、叙府酒業がある。こちらも、宜賓ではどの商店でも売られている地元の白酒ブランドだ。この叙府酒業は昨秋にレトロな工場屋根を線路下から見つけたが、5月にとうとう山中を歩きながらその工場に辿り着いた。ダメ元で守衛さんに見学をお願いしたところ、稼働時間帯ならOKと言ってもらえたので、見学を楽しみにしているところだ。
また、ほかにもいくつか古い工場や工場跡を見つけている。
巨大メーカーから個人経営のような小さな酒屋まで。白酒という切り口からだけでも、そのすがたは様々。
このような川のほとりに長い間工場を構えてきた仙市白酒だって、四川の、自貢の、白酒の歴史の一幕でありひとつの表情なのだ。そしてそれは、きっとこれからも。

工場内にはひとりの女性がいた。
無料で見学できるといっても、白酒好きの私が来て見せてもらったのだ。買って帰るのがマナーというものだろう。
「帰りにまた来て、その時に買ってもいい?」
私がそう声をかけると女性は「いいよ」と答えたけれども、帰りにこの道を通るとは限らない。「来ないかもしれないな」と思ったかもしれない。

ここから川へ戻らずにそのまま石畳の道を進んだ。
半辺街という通りらしい。半辺といえば、5月に旅した宜賓高県の紅岩山には半辺寺という史跡があった。半辺にはなにか意味があるのかな。

半辺街を歩いて行くと、石門があった。くぐるとそこはお寺の敷地内。
正門は右手に下りた川沿いの通りにあるようで、この半辺街はこうして寺を突っ切っていくようだ。

白い涅槃像が優雅な様子で、左手には豪勢な大雄宝殿。屋根もまた、黒ずんだ様子と激しい反りが南方ならでは。
正門まで下りてみると、金橋寺と額が掛かっていた。しかし内部の説明には南華宮と書いてある。通称だろうか。
この南華宮は清代咸豊帝の時代、1862年に広東出身の塩商人が出資し合った会館。
同郷が集まる会館としての役割と寺院の、その両方を併せ持つ。道理で、会館に見られるような装飾の精緻さがあったわけだ。


ここから歩いていくと、また次の寺院が向こうに見える。
左右の建物はみな扉を閉ざし、その多くにはどうやらもう暮らす人がいないようだ。

ただぽつりぽつりと掛けられたランプに、ここが商業で栄えた時代の面影を見たような気になる。

次の石門をくぐった。

次は、天上宮。左手には本堂の観音殿があり、中にはそれは見事な陶器製の千手観音が祀られていた。
青白い千手観音はうっすらと笑みを浮かべ、のびる複数の腕。その背後の後光かと思ったそれは、よく見れば確かに千はありそうなほどの掌だった。

この天上宮は清代道光帝の時代1850年の創建で、福建省出身の塩商人が出資し合い建てた、こちらも会館兼寺院。
説明を読むと、どうやら寺院としての角度では、このお堂も隣の金橋寺の一部ということらしい。
広東の商人と福建の商人が建てた会館がひとつの寺院になり並んでいるということだろうか。

進んでいくと、徐々に生活感が増してきた。
マージャンのじゃらじゃらする音が響き、商店は開き、洗濯物が干され、おばあちゃんが椅子で眠る。
ああ、いい雰囲気だなぁ、そんなことを思いながらまたカメラを向けると。
じじっ、じじっ。
カメラがいうことを聞かない。
日本から持ってきたオリンパスペンEPL9。前の型番が壊れてしまい、今年の3月に日本へ帰った時に買ったものだった。今回初出動だったのに、いきなり故障?と泣きたくなった。22日間の旅行はまだ5日目である。
しかしどうも、本体の不具合ではなくレンズの方みたいだ。
私はずっとオリンパスペンを愛用しているけれど、3月にはレンズなし本体のみで格安で購入した。レンズは前の型番のものがそのまま使えるからだ。
このレンズが、電源をオンにすると勝手に数度ズームを繰り返し前後する。液晶は真っ暗で本体は光を検知していないようだ。電源のオンオフを繰り返していると、「レンズを確認してください」の表示が出た。
レンズの取り外しを数回繰り返してみる。しかしダメ。ズームの上下はなんだかおかしい動きで、電源のオンオフもうまくいかない。
もう、無理だった。テンションはがた落ちだ。
iPhone6しかない。しかしこのiPhone6もいろいろ難しいのだ。充電満タンから2時間充電が持たないので、常に充電器に繋げている。それに画像もきれいじゃない。不具合も多い。けれど、思い返せば労働節の宜賓周遊はiPhoneのみでやったんだった。…まぁそれなら今回もなんとかなるか。

気分を変えて、石畳を歩き始めた。


仙市古鎮は正の字を倒したような形で通りが通っているのだという。
半辺街が突き当りを迎え、別の道に抜けてみた。ここがどうやら一番賑わう通りだったようだ。

素朴な古鎮である。
観光地化をまったく迎えていないかといえば、駐車場はあるし公衆トイレはあるし、説明看板もあるし…、それに住民たちが並べる竹のウチワだったり子供用のおもちゃだったりは、観光客へ向けたものだろう。
けれどもそれらも、みなここに暮らす人々の生活の延長線上だ。


並ぶお店の大半は、ここに暮らす住民を対象にした服屋、靴屋、金物屋、それから理髪店に時計修理のお店だった。
それにおじいちゃんやおばあちゃんが店先に並べた子供向けの風車や、また麦わら帽子は、またそれ自体この古鎮の温かさを演出している。この温かみは、宜賓の李庄古鎮で感じたものに似ていた。古鎮の規模はこちらの方が圧倒的に小さいけれど。
ただ残念なのは、ここに暮らす人たちは元気でも、建物はそうもいかないこと。
蒸し暑い重慶のような過酷な気候にあり、石畳は元気に残るが木材は完全にくたびれていた。その様子はもうそろそろ限界のようにも思え、近いうちに木材を取り換えるなどの改修が行われなければ、ここに暮らすのは難しいだろう。

こんなふうに、お店はほとんど地元住民のためのもの。
金物屋さんは生活に必要ないろんなものを売る。天井にたくさん吊り下がっているのは、中国では欠かせない天秤棒。野菜でも果物でも調味料でも、これで重さを計って売るのだ。

古鎮の出入り口にはこのような門があった。
かつてはこの上に人が登り、通常は門を閉め、人の出入りを管理していたのだという。


ここで見つけたのはまた、石造りのお堂のようなもの。
広西廟だった。その名の通り、広西出身の塩商人が出資し合って建てた会館。創建年代は不明だが、おそらく清代だろう。
内部は四合院づくりになっているようだが、扉は施錠されていて中を覗くことはできなかった。

その広西廟の足元には、小さな小さな井戸。
胯胯井と説明がある。読んでみると、この井戸は仙女の、なんと股間なんだとか。
この仙市古鎮には伝説がある。後づけされたものかもしれないが、それは次の通り。
玉皇大帝の娘、八仙姑は自由奔放な性格だった。彼女はある時天上での暮らしに飽き飽きし、花の妖精やら龍や虎、象などの珍獣を引き連れ人間界へ降り立った。そうして川のほとりで楽しんだあと、楽しさの余りそのままそこで寝てしまう。
玉皇大帝は怒り、彼女の魂だけ呼び戻し、身体はそこにそのままにしてしまった。そうして彼女の身体は、山水となり。
彼女が伏せたかたちのままの地形で、いつしかこの場所が生まれたのだという。
つまり、仙市古鎮のこの集落は八仙姑が伏せたそのすがたで、この井戸は彼女の股間だというのだ。
え、股間って全然神秘的じゃない!と突っ込みたいが、伝承ならばそれも余計なお世話だ。
この股間井戸の水は、月に数日白く濁りだし変なにおいを発するのだという。そうして数日後、またいつもの水に戻るとか。それを人は、八仙姑の月のものだと噂した…と。

ここから少し進んだところで、古鎮を抜けた。
どうやら古鎮のすぐ上には現代的な集落があったようだ。これならば、古鎮内に暮らす老人たちの生活も、いくらか安心かもしれない。


ここからぐるりと回りまた釜渓河へ出て、そこから古鎮に再入場してみた。再入場といっても別にチケットが要るわけではないが、こちらは私が入場した方面とは違い若干活気があり、ペットボトルやお菓子、それから涼麺などの軽食を売るおばちゃんが並んでいる。ここもまたかつて埠頭があった場所だ。

せっかくだから古鎮で何かを食べたかったんだよ、と思いながら、観光地化に消極的なこの古鎮、食べれるお店に出会っていなかった。ということでこちらでおなかが空き、定番の涼麺を。

昆布と辛味を混ぜていただく常温混ぜ麺、涼麺。四川の軽食として定番であり、また私の大好物だ。
おばちゃんは「唐辛子いる?糖酢は?」と訊いてくれるが、もちろん「要る」と答える。辛味に加えて甘酸っぱさが混じるのは四川ならではで、不思議だけどはまってしまう癖になる味覚。


これをいただいてまた例の門をくぐり古鎮へ入ると、その向こうには陳家祠。
そしてその隣にあるお店に吸い込まれた私。


ここで頼んだのは、鍋巴ジャガイモと、四川式寒天、冰粉。ジャガイモはよく見る油ぽいギザギザポテトではなく、鍋で炒めてから上げてくれる日本のポテトフライに近い食感だった。
「辛くする?」と訊かれ、たまには塩味にしてもらおうかなと「うーん…」と悩んでいると、「じゃあ辛さ控え目にしようか」とおばあちゃん。
このポテトフライ非常に美味で、しかしおばあちゃんのいう辛さ控え目はばっちり旨辛だった。
この旨さで合わせて10元は、もうちょっと観光地価格にしてもいいんじゃない?と言い返したくなるほど良心的な価格だ。
おばあちゃんはお孫さんとブラウン管で古い白黒ドラマを見ている。


小さな古鎮だが、ここの良さはここに暮らしている中高年、老人たちの豊かな表情だ。
一つひとつのお店からは観光客に媚びない本来の生活が垣間見え、それでいて外部の人を温かく迎え入れてくれる。
観光客も暮らす人もいない寂しげな古鎮ではない。観光客は少ないけれど、いるはいる。ポテトフライをいただいたお店には若いカップル(バイクで来ているみたいだった)がいたし、建物をきょろきょろ見上げる家族連れも見かけた。
観光に依存した大混雑の観光古鎮にも、観光地化に失敗したかのような物悲しい古鎮にも、そして住民がいなくなり廃れた古鎮にもない、穏やかな心地よさがここにはあった。


一軒、鍛冶屋さんも見つけた。
ここだけは他のお店とはまったく違った雰囲気を放っていて、中では男性が作業をしていた。
右側が作業場で、火事にならないように石造りになっている。左側がお店で、包丁だけでなく金づちのようないろんな商品が並んでいて、そうだ、野良犬対策に金づちを携帯しようと思っていたんだ!と購入を悩む。



古鎮内でよく見たのが、理髪店。古い古い昔ながらのお店たちだ。
こんな狭くて人口も少ないのにこんなに数いる?と思ったけれど、どのお店もお客を迎え、床には髪の毛が散らばっている。お客はどれも親父さんにおじいさん。髪の長い女性よりも、男性というのは却って頻繁に理髪店に行く必要があるみたい。「十日経つときつい」と話していた坊主頭の友人を思い出す。
お店を覗き込んだ私を、マントに包まれたおじいさんが見上げた。

この辺りには飲食店もあって、自貢やここらの川魚料理が食べれるよう。小魚揚げは私の好物、悩みながら声をかけてもらいさらに悩んだけれど、もうすでにけっこう食べているので諦めた。本来はこういうのが楽しいので、残念。

有意義な散策だった。私のこだわりは、残ってほしいもの、見せてくれたものにはお金を落とすこと。それが例え、少額でも。
ということで、初めに覗いた酒工場に来てみた。

買ったのはこの小さな小瓶。これで20元。量り売りもできるようだ。最後に大きな酒壺たちを見渡した。
この辺りは人も少なく寂しげ。このお酒も、涼麺を食べたり理髪店を眺めた、あの賑やかな方で並べて売ればいいのにと思うけれど、そうもできないんだろう。
バスを降りた辺りに出ると、ちょうどよく向こうからバスがやって来た。慌てて手を振りバスを停めて乗り込む。またまたアトラクション並みのバウンドと揺れで、けれども来た時とルートが違うのか30分程で自貢站に到着した。学校が終わり週末家に帰るのか、たくさんの子供たちが荷物や食べ物を抱えて、バスを待っていた。

夜はまた夜宵通りで。
一昨日仔姜田鶏を食べたお店のもう一軒先、同様の自貢料理の露天にしてみた。
店員に宜賓から来た旨と、これはもう食べたあれももう食べたなんて話をしながら相談してみると。
「仔姜田鶏はおすすめだけど、これは高いから…。一皿180以上するよ」と。
一昨日会計が200元を超したときは、実は初め、少し盛られたかと思ってしまった。材料といえば、カエル以外は調味料。カエルだって四川では市場にごろごろいるし、カエル鍋だって人気じゃないか。いくらなんでもそこまで高級食材ではないだろう、なんて思っていた。
「どうしてそんなに高いの?」と訊けば、やっぱり材料が高いのだという。
「だからあまりおすすめはできないな」
一昨日の女性も愛想が良かったけれど、私は一人客じゃないか。商売だから高いものをおすすめするのは当たり前かもしれないし、確かに勧めるべき美味しい料理ではあったけれど。
しかし却って今度は、「おすすめしない」と言ったこちらの店員さんの気遣いに好感を持つ結果となった。
そうは言いながらも、高いとわかっても私は遅かれ早かれあれを注文していただろうから、人というか私の心理も面倒くさいものである。


今夜選んだのは、辣仔兎。干唐辛子がごろごろし、その中に埋もれる細かな兎肉を探す。ひとつ混じっていたレバーを見つけ、これがまた美味しかった。
お酒との相性は抜群で、冷めても美味しいのでゆっくり白酒を飲みながら楽しんだ。


おなかはいっぱいだったけれど、つい羽目を外して、飲んだ後の拉麺。気になっていた完全露天の、灯城拉麺だ。
メニューはない。このようなさっぱりとしながらもおなかが安心する麺は、私が生活しているところではほとんど見かけない。
これがまた、おいしかった。もう私の中で大流行の予感だ。

気づけばもう深夜で、マッサージをしてホテルへ。またかなりの夜更かしをしてしまったことに罪悪感を覚えながら、真っ暗な川沿いを歩いた。
右手には釜渓河の対岸になだらかな丘。その向こうの空がひっきりなしにピカピカと明滅している。
音のない雷は不気味だ。
天気予報を開けば、みごとなまでに雷雨予報が続いている。
〈記 7月25日 自貢・自流井にて〉
参考:
路線バス 2元
自流井→仙市 長距離バス 10.5元
仙市→自流井 長距離バス 10.5元
涼麺 5元
冰粉 5元
鍋巴土豆 5元
仙市白酒 20元
辣仔兎 114元
雑醤麺 10元
マッサージ 98元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈6日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
仙市古鎮は、自流井市街地から東南へ11㎞、蛇行する釜渓河を下ったところにある古鎮。前もって調べたところ、自貢站前から直通のバスが出ているということだったので、バスターミナルではなく駅へ行ってみようと考えていた。

ホテルを出たのは12時。今日も天気は冴えず、真っ白な空に体感ですぐわかるひどい湿気だ。
近くのバス停へ行き路線バスへ乗車。乗ったはいいが降り過ごしてロスをするも、12時半には自貢站へ着いた。

辺りは、市の中心駅とは思えないほど古びて庶民的な雰囲気。年季が入った低層アパートに商店、食堂が並んでいる。
ついでにと列車駅を覗きに行くと、なんだか様子がおかしい。人っ子一人いない静けさで、駅内部にも乗客はいないようだ。
見てみると駅の入り口は封鎖されている。自貢にはまだ高速鉄道は開通していないから、普通列車は生きているはずだけど…。閉鎖されたにしては電動掲示板は動き、政府の赤い横断幕はひらひらとし、入り口の公安は仕事をしている。

高速鉄道の開通を見込んで営業をやめたのか、何かで封鎖中なのかはわからない。けれども駅周辺の食堂や商店はそのほとんどがシャッターを下ろし無人の建物になっている。
この様子を見ると、ここはかつて駅前という立地から栄えた古い場所なのだろう。中国が全国的に高速鉄道化し、昔ながらの列車がかずかず廃線を迎えているなんて様子も伺えるけれど、私にとってはとても寂しいこと。少しずつ変わってくはずの街の景観や生活が、がらりと変わる転機に今あるのかもしれない。
駅が営業していないとなると、駅前からバスが出ているというのも怪しくなった。
駅から少し離れたところには確かに三台ほどのバスが並んでいたけれど、一台は瓦市行き。仙市の文字はない。
そこで目の前の煙草屋の親父さんに訊いてみると、この瓦市行きバスが途中仙市を通るのだという。

看板が立っていて、確かに矢印の途中に仙市と書いてある。
バスに乗り込むともうすでに結構な人が乗っていて、しばらく待ち座席が埋まったところでバスは出発した。中国各地をさまざま旅行してきた私だが、今まで乗ったことのあるバスの中でもっともおんぼろなバスだった。そんなのも旅の楽しみ。

高速へ乗り、下り、田舎道というか施工地帯を走る。山道でもないのにたいへんな悪路で、5月の珙県洛表への道を思い出す。
バウンドし、バスが傾き、またバウンドし。このバスよく壊れないよなぁと感心する。遊園地のアトラクション並みの揺れを楽しみ、仙市へ到着したのは出発から一時間近く経った13時だった。

ここにはバスターミナルなどないし、途中下車なので確認が必要。
帰りの最終が何時で、どこで待てばいいのか訊くと、
「最終は6時10分、この道のどこでもかまわない」という。最終はあくまで目安でしかないし、この場所にはタクシーも配車サービスもないし宿泊する場所もないことはわかるので、乗り過ごしは厳禁。遅くとも17時半までには戻っていたい。バスはここで乗客を待っていてはくれないし、通りがかったところを止めるシステムなので、時間ぎりぎりは避けたい。

バスを降りたところから川の方へ下りていくと、さっそく門が見えた。

手前には地図があり、この釜渓河に沿う形で仙市の集落が形成されているのがわかる。
古鎮はこの上部の、川が初めにカーブするところまで。その下にも二か所いろいろ娯楽施設の集まりが書かれているが、ゴルフだったりと古鎮とは違う休暇エリアのようだ。

古鎮といえば現代ブームで、どこにいっても観光客でごった返しカフェなどのショップが今のすがたを伝える。ところがここは、歩いて行っても誰もいない。観光客どころか住民もいないひっそりとした川沿いの道が続く。
右手に見える釜渓河は茶色く濁り、本来美しいはずの対岸は一帯ショベルカーで崩され土砂の山。
左手には、もともと川の景色を楽しみ涼みながら休憩をする場所なのだろう、麻雀台を並べた茶館が店を閉めている。
もしかしたら、もう人が失われ放棄された古鎮なのかなぁ、ちらりとそんなことを考える。

歩いて行くと、突き出た岩に穿たれた仏さま。一カ所二か所と、仏龕が彫られている。
いったいどれだけの歳月、釜渓河を眺めてきたのだろう。

しかしよく見ると、上半身が削られている。風化して摩耗したというよりは削られたふうで、もしかしたら文革の被害だろうか。
ここにはロウソクが火を灯していて、ようやく人の気配を得た。

その先には、もう幾時代も人の往来を受けて摩耗した、うつくしい石階段。なめらかな表面と苔むした肌は、数十年では生まれ得ない表情だ。

そしてその下には、うつくしくない埠頭跡があった。
うつくしくないとは余計なお世話だが、残念ながらどこを切り取ってもうつくしくない、仙市古鎮三つある埠頭の内、一つ目の埠頭跡だった。
仙市古鎮には、1400年以上もの歴史がある。
ここはかつて塩の交易で栄えた場所で、塩運第一鎮の名をもつ。自貢で採れた塩はここから船で運び出され釜渓河を流れ、沱江、そして長江へ。その後長江を遡り四川を流れ、やがて三峡へと運ばれたのだという。
いってみれば、塩の道、出発点。
うつくしくない埠頭といったが、もうここにはかつての面影はない。今この変わり果てた風景から当時を想像するのは、かなり厳しい。

宜賓市街地も自貢市街地も今、いたるところに百日紅が花を咲かせている。濃い桃色、薄紅色、白い花びら。
ここでもあちらこちらで自由に枝葉をのばし、それはもう私が知る百日紅ではないみたいだ。

川沿いに進もうとすると、左手にも道が折れていることに気づいた。
ふと覗いてみると、「酒工場」の文字。「ご自由に見学ください。試飲もできます」の文字に惹かれて、門をくぐってみた。

内部は古い工場だったが、現代の設備も備えていた。けっして大きくはない、小さな工場。近代の工場に興味がある私には、とてもおもしろい時代感だった。
一昨日見学した塩井戸は清代のもので、現在も稼働しているといっても歴史遺産を残しつつ生産を行っていく計算がある。
しかしこうした工場は、時間の流れを現実的に受け止めている。ここにあるありのままの姿。とても、現実的なのだ。

辺りには、私が知る白酒工場のすっぱい匂いとは少し違う匂いがした。目の前のコンクリタンクの中からは液体の流れる音がして、そこから漏れてくる匂いだ。白酒工場で嗅ぐ酸っぱい匂いは、穀物が発酵する段階で発せられる匂い。今この匂いは、完成された商品とはおそらくまた違った段階のものなのだろう。


四川には数多くの白酒工場がある。
その中でも酒都である宜賓には数え切れないほどの工場があり、また工場跡がある。
宜賓といえば、五粮液。中国酒メーカーのトップに位置する巨大ブランドで、また超巨大な工場を有する。
また宜賓ローカルブランドとしては、叙府酒業がある。こちらも、宜賓ではどの商店でも売られている地元の白酒ブランドだ。この叙府酒業は昨秋にレトロな工場屋根を線路下から見つけたが、5月にとうとう山中を歩きながらその工場に辿り着いた。ダメ元で守衛さんに見学をお願いしたところ、稼働時間帯ならOKと言ってもらえたので、見学を楽しみにしているところだ。
また、ほかにもいくつか古い工場や工場跡を見つけている。
巨大メーカーから個人経営のような小さな酒屋まで。白酒という切り口からだけでも、そのすがたは様々。
このような川のほとりに長い間工場を構えてきた仙市白酒だって、四川の、自貢の、白酒の歴史の一幕でありひとつの表情なのだ。そしてそれは、きっとこれからも。

工場内にはひとりの女性がいた。
無料で見学できるといっても、白酒好きの私が来て見せてもらったのだ。買って帰るのがマナーというものだろう。
「帰りにまた来て、その時に買ってもいい?」
私がそう声をかけると女性は「いいよ」と答えたけれども、帰りにこの道を通るとは限らない。「来ないかもしれないな」と思ったかもしれない。

ここから川へ戻らずにそのまま石畳の道を進んだ。
半辺街という通りらしい。半辺といえば、5月に旅した宜賓高県の紅岩山には半辺寺という史跡があった。半辺にはなにか意味があるのかな。

半辺街を歩いて行くと、石門があった。くぐるとそこはお寺の敷地内。
正門は右手に下りた川沿いの通りにあるようで、この半辺街はこうして寺を突っ切っていくようだ。

白い涅槃像が優雅な様子で、左手には豪勢な大雄宝殿。屋根もまた、黒ずんだ様子と激しい反りが南方ならでは。
正門まで下りてみると、金橋寺と額が掛かっていた。しかし内部の説明には南華宮と書いてある。通称だろうか。
この南華宮は清代咸豊帝の時代、1862年に広東出身の塩商人が出資し合った会館。
同郷が集まる会館としての役割と寺院の、その両方を併せ持つ。道理で、会館に見られるような装飾の精緻さがあったわけだ。


ここから歩いていくと、また次の寺院が向こうに見える。
左右の建物はみな扉を閉ざし、その多くにはどうやらもう暮らす人がいないようだ。

ただぽつりぽつりと掛けられたランプに、ここが商業で栄えた時代の面影を見たような気になる。

次の石門をくぐった。

次は、天上宮。左手には本堂の観音殿があり、中にはそれは見事な陶器製の千手観音が祀られていた。
青白い千手観音はうっすらと笑みを浮かべ、のびる複数の腕。その背後の後光かと思ったそれは、よく見れば確かに千はありそうなほどの掌だった。

この天上宮は清代道光帝の時代1850年の創建で、福建省出身の塩商人が出資し合い建てた、こちらも会館兼寺院。
説明を読むと、どうやら寺院としての角度では、このお堂も隣の金橋寺の一部ということらしい。
広東の商人と福建の商人が建てた会館がひとつの寺院になり並んでいるということだろうか。

進んでいくと、徐々に生活感が増してきた。
マージャンのじゃらじゃらする音が響き、商店は開き、洗濯物が干され、おばあちゃんが椅子で眠る。
ああ、いい雰囲気だなぁ、そんなことを思いながらまたカメラを向けると。
じじっ、じじっ。
カメラがいうことを聞かない。
日本から持ってきたオリンパスペンEPL9。前の型番が壊れてしまい、今年の3月に日本へ帰った時に買ったものだった。今回初出動だったのに、いきなり故障?と泣きたくなった。22日間の旅行はまだ5日目である。
しかしどうも、本体の不具合ではなくレンズの方みたいだ。
私はずっとオリンパスペンを愛用しているけれど、3月にはレンズなし本体のみで格安で購入した。レンズは前の型番のものがそのまま使えるからだ。
このレンズが、電源をオンにすると勝手に数度ズームを繰り返し前後する。液晶は真っ暗で本体は光を検知していないようだ。電源のオンオフを繰り返していると、「レンズを確認してください」の表示が出た。
レンズの取り外しを数回繰り返してみる。しかしダメ。ズームの上下はなんだかおかしい動きで、電源のオンオフもうまくいかない。
もう、無理だった。テンションはがた落ちだ。
iPhone6しかない。しかしこのiPhone6もいろいろ難しいのだ。充電満タンから2時間充電が持たないので、常に充電器に繋げている。それに画像もきれいじゃない。不具合も多い。けれど、思い返せば労働節の宜賓周遊はiPhoneのみでやったんだった。…まぁそれなら今回もなんとかなるか。

気分を変えて、石畳を歩き始めた。


仙市古鎮は正の字を倒したような形で通りが通っているのだという。
半辺街が突き当りを迎え、別の道に抜けてみた。ここがどうやら一番賑わう通りだったようだ。

素朴な古鎮である。
観光地化をまったく迎えていないかといえば、駐車場はあるし公衆トイレはあるし、説明看板もあるし…、それに住民たちが並べる竹のウチワだったり子供用のおもちゃだったりは、観光客へ向けたものだろう。
けれどもそれらも、みなここに暮らす人々の生活の延長線上だ。


並ぶお店の大半は、ここに暮らす住民を対象にした服屋、靴屋、金物屋、それから理髪店に時計修理のお店だった。
それにおじいちゃんやおばあちゃんが店先に並べた子供向けの風車や、また麦わら帽子は、またそれ自体この古鎮の温かさを演出している。この温かみは、宜賓の李庄古鎮で感じたものに似ていた。古鎮の規模はこちらの方が圧倒的に小さいけれど。
ただ残念なのは、ここに暮らす人たちは元気でも、建物はそうもいかないこと。
蒸し暑い重慶のような過酷な気候にあり、石畳は元気に残るが木材は完全にくたびれていた。その様子はもうそろそろ限界のようにも思え、近いうちに木材を取り換えるなどの改修が行われなければ、ここに暮らすのは難しいだろう。

こんなふうに、お店はほとんど地元住民のためのもの。
金物屋さんは生活に必要ないろんなものを売る。天井にたくさん吊り下がっているのは、中国では欠かせない天秤棒。野菜でも果物でも調味料でも、これで重さを計って売るのだ。

古鎮の出入り口にはこのような門があった。
かつてはこの上に人が登り、通常は門を閉め、人の出入りを管理していたのだという。


ここで見つけたのはまた、石造りのお堂のようなもの。
広西廟だった。その名の通り、広西出身の塩商人が出資し合って建てた会館。創建年代は不明だが、おそらく清代だろう。
内部は四合院づくりになっているようだが、扉は施錠されていて中を覗くことはできなかった。

その広西廟の足元には、小さな小さな井戸。
胯胯井と説明がある。読んでみると、この井戸は仙女の、なんと股間なんだとか。
この仙市古鎮には伝説がある。後づけされたものかもしれないが、それは次の通り。
玉皇大帝の娘、八仙姑は自由奔放な性格だった。彼女はある時天上での暮らしに飽き飽きし、花の妖精やら龍や虎、象などの珍獣を引き連れ人間界へ降り立った。そうして川のほとりで楽しんだあと、楽しさの余りそのままそこで寝てしまう。
玉皇大帝は怒り、彼女の魂だけ呼び戻し、身体はそこにそのままにしてしまった。そうして彼女の身体は、山水となり。
彼女が伏せたかたちのままの地形で、いつしかこの場所が生まれたのだという。
つまり、仙市古鎮のこの集落は八仙姑が伏せたそのすがたで、この井戸は彼女の股間だというのだ。
え、股間って全然神秘的じゃない!と突っ込みたいが、伝承ならばそれも余計なお世話だ。
この股間井戸の水は、月に数日白く濁りだし変なにおいを発するのだという。そうして数日後、またいつもの水に戻るとか。それを人は、八仙姑の月のものだと噂した…と。

ここから少し進んだところで、古鎮を抜けた。
どうやら古鎮のすぐ上には現代的な集落があったようだ。これならば、古鎮内に暮らす老人たちの生活も、いくらか安心かもしれない。


ここからぐるりと回りまた釜渓河へ出て、そこから古鎮に再入場してみた。再入場といっても別にチケットが要るわけではないが、こちらは私が入場した方面とは違い若干活気があり、ペットボトルやお菓子、それから涼麺などの軽食を売るおばちゃんが並んでいる。ここもまたかつて埠頭があった場所だ。

せっかくだから古鎮で何かを食べたかったんだよ、と思いながら、観光地化に消極的なこの古鎮、食べれるお店に出会っていなかった。ということでこちらでおなかが空き、定番の涼麺を。

昆布と辛味を混ぜていただく常温混ぜ麺、涼麺。四川の軽食として定番であり、また私の大好物だ。
おばちゃんは「唐辛子いる?糖酢は?」と訊いてくれるが、もちろん「要る」と答える。辛味に加えて甘酸っぱさが混じるのは四川ならではで、不思議だけどはまってしまう癖になる味覚。


これをいただいてまた例の門をくぐり古鎮へ入ると、その向こうには陳家祠。
そしてその隣にあるお店に吸い込まれた私。


ここで頼んだのは、鍋巴ジャガイモと、四川式寒天、冰粉。ジャガイモはよく見る油ぽいギザギザポテトではなく、鍋で炒めてから上げてくれる日本のポテトフライに近い食感だった。
「辛くする?」と訊かれ、たまには塩味にしてもらおうかなと「うーん…」と悩んでいると、「じゃあ辛さ控え目にしようか」とおばあちゃん。
このポテトフライ非常に美味で、しかしおばあちゃんのいう辛さ控え目はばっちり旨辛だった。
この旨さで合わせて10元は、もうちょっと観光地価格にしてもいいんじゃない?と言い返したくなるほど良心的な価格だ。
おばあちゃんはお孫さんとブラウン管で古い白黒ドラマを見ている。


小さな古鎮だが、ここの良さはここに暮らしている中高年、老人たちの豊かな表情だ。
一つひとつのお店からは観光客に媚びない本来の生活が垣間見え、それでいて外部の人を温かく迎え入れてくれる。
観光客も暮らす人もいない寂しげな古鎮ではない。観光客は少ないけれど、いるはいる。ポテトフライをいただいたお店には若いカップル(バイクで来ているみたいだった)がいたし、建物をきょろきょろ見上げる家族連れも見かけた。
観光に依存した大混雑の観光古鎮にも、観光地化に失敗したかのような物悲しい古鎮にも、そして住民がいなくなり廃れた古鎮にもない、穏やかな心地よさがここにはあった。


一軒、鍛冶屋さんも見つけた。
ここだけは他のお店とはまったく違った雰囲気を放っていて、中では男性が作業をしていた。
右側が作業場で、火事にならないように石造りになっている。左側がお店で、包丁だけでなく金づちのようないろんな商品が並んでいて、そうだ、野良犬対策に金づちを携帯しようと思っていたんだ!と購入を悩む。



古鎮内でよく見たのが、理髪店。古い古い昔ながらのお店たちだ。
こんな狭くて人口も少ないのにこんなに数いる?と思ったけれど、どのお店もお客を迎え、床には髪の毛が散らばっている。お客はどれも親父さんにおじいさん。髪の長い女性よりも、男性というのは却って頻繁に理髪店に行く必要があるみたい。「十日経つときつい」と話していた坊主頭の友人を思い出す。
お店を覗き込んだ私を、マントに包まれたおじいさんが見上げた。

この辺りには飲食店もあって、自貢やここらの川魚料理が食べれるよう。小魚揚げは私の好物、悩みながら声をかけてもらいさらに悩んだけれど、もうすでにけっこう食べているので諦めた。本来はこういうのが楽しいので、残念。

有意義な散策だった。私のこだわりは、残ってほしいもの、見せてくれたものにはお金を落とすこと。それが例え、少額でも。
ということで、初めに覗いた酒工場に来てみた。

買ったのはこの小さな小瓶。これで20元。量り売りもできるようだ。最後に大きな酒壺たちを見渡した。
この辺りは人も少なく寂しげ。このお酒も、涼麺を食べたり理髪店を眺めた、あの賑やかな方で並べて売ればいいのにと思うけれど、そうもできないんだろう。
バスを降りた辺りに出ると、ちょうどよく向こうからバスがやって来た。慌てて手を振りバスを停めて乗り込む。またまたアトラクション並みのバウンドと揺れで、けれども来た時とルートが違うのか30分程で自貢站に到着した。学校が終わり週末家に帰るのか、たくさんの子供たちが荷物や食べ物を抱えて、バスを待っていた。

夜はまた夜宵通りで。
一昨日仔姜田鶏を食べたお店のもう一軒先、同様の自貢料理の露天にしてみた。
店員に宜賓から来た旨と、これはもう食べたあれももう食べたなんて話をしながら相談してみると。
「仔姜田鶏はおすすめだけど、これは高いから…。一皿180以上するよ」と。
一昨日会計が200元を超したときは、実は初め、少し盛られたかと思ってしまった。材料といえば、カエル以外は調味料。カエルだって四川では市場にごろごろいるし、カエル鍋だって人気じゃないか。いくらなんでもそこまで高級食材ではないだろう、なんて思っていた。
「どうしてそんなに高いの?」と訊けば、やっぱり材料が高いのだという。
「だからあまりおすすめはできないな」
一昨日の女性も愛想が良かったけれど、私は一人客じゃないか。商売だから高いものをおすすめするのは当たり前かもしれないし、確かに勧めるべき美味しい料理ではあったけれど。
しかし却って今度は、「おすすめしない」と言ったこちらの店員さんの気遣いに好感を持つ結果となった。
そうは言いながらも、高いとわかっても私は遅かれ早かれあれを注文していただろうから、人というか私の心理も面倒くさいものである。


今夜選んだのは、辣仔兎。干唐辛子がごろごろし、その中に埋もれる細かな兎肉を探す。ひとつ混じっていたレバーを見つけ、これがまた美味しかった。
お酒との相性は抜群で、冷めても美味しいのでゆっくり白酒を飲みながら楽しんだ。


おなかはいっぱいだったけれど、つい羽目を外して、飲んだ後の拉麺。気になっていた完全露天の、灯城拉麺だ。
メニューはない。このようなさっぱりとしながらもおなかが安心する麺は、私が生活しているところではほとんど見かけない。
これがまた、おいしかった。もう私の中で大流行の予感だ。

気づけばもう深夜で、マッサージをしてホテルへ。またかなりの夜更かしをしてしまったことに罪悪感を覚えながら、真っ暗な川沿いを歩いた。
右手には釜渓河の対岸になだらかな丘。その向こうの空がひっきりなしにピカピカと明滅している。
音のない雷は不気味だ。
天気予報を開けば、みごとなまでに雷雨予報が続いている。
〈記 7月25日 自貢・自流井にて〉
参考:
路線バス 2元
自流井→仙市 長距離バス 10.5元
仙市→自流井 長距離バス 10.5元
涼麺 5元
冰粉 5元
鍋巴土豆 5元
仙市白酒 20元
辣仔兎 114元
雑醤麺 10元
マッサージ 98元
⇒ 自貢・宜賓22日間周遊〈6日目〉自貢・自流井 へ続く
クリックしていただけると励みになります☆
↓↓↓

にほんブログ村
Powered by FC2 Blog
Copyright © まゆの中国旅行記 All Rights Reserved.