2016-09-06

庫車旅行三日目~その二~

クチャの街を抜けて1時間半ほど。
途中で相変わらずの検問所を抜ける。この道行きで二度ほどあったか。
運転手はそのまま検問を受け、他は車を降りて建物内で審査を受ける。
漢族初め中国人は少なく、ほとんどがウイグル族のようだった。(少数民族も中国人だけど)
ここで驚いたのは、スキャン型のチェックを併用していたことだ。
身分証を機械に照らすと、画面に顔写真が写り、名前、住所、民族などの個人データが反映される。
全部管理されている。
このデータ照合に多少の時間がかかるため、検問は列になる。
もちろん無人ではない。
公安や武装警察がそばにいて、OKを出すのは人である。
身分証スキャンができない私は外国人である旨を伝え審査を受けるが、なかなか厳しい。
ヌアーはわかっていたかのように、印が押された文書を提出した。
そして日本人で旅行に来たことなどを説明している。

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これが、その文書。

****旅行会社に勤めるガイド、私***、身分証番号・・・・・・は、運転手***、身分証番号・・・・・・とともに、日本国籍の****、パスポート番号・・・・・・・を8月13日に迎え、アクス地区拜城と庫車を観光いたします。
旅程は以下の通り。

8月13日、====、====を観光し、○○○ホテルに宿泊
8月14日、====、====を観光し、○○○ホテルに宿泊
8月15日、====、====を観光し、△△△ホテルに宿泊
上記を証明します。

という感じ。
コルラの夜、ガイドのヌアーと連絡先を交換して、パスポートの写真を送るように言われた。
それはこの処理があったからなのだった。
証明書がないとアクス地区は外国人は通過できないのか、そうではないけど証明書があった方がスムーズだという話だったのか、どちらなのかはわからない。
しかしこの証明書、内容は実情と若干違う。
ロシアのビザを申請する時にも、こんな旅程の証明が必要だった気がするが、あれも多少違っていても問題なかった。
とりあえず、旅行客であることと大体のルートが証明されれば問題ないのだろう。

検問を抜けて、再び荒々しい岩肌の間をくねって登って行くと、急に景色が開けた。

16081317.jpg

エメラルドグリーンの水をたたえた川が豊かに横たわっている。
乾いた山肌との対比が見事で、こんな風景は初めて目にした。

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運転手のカイサイアーは、ガードレールを越えてすぐそこまで出てふざけているが、その下はかなりの高さをもつ崖である。
少しでもバランスを崩せば命はない。
思いもかけない通りがかりの美景だと思ったら、今日の目的地はここを下りてすぐだった。
あの美しい河のすぐこちら側だ。

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目的地、“克孜尔千佛洞”(キジル千仏洞)。
クチャの街より西に40㎞、ミンウィターグ山の岩壁に穿たれた石窟群だ。
開削期は、後漢~宋。
新疆ウイグル自治区でもっとも大規模な石窟だ。

入場料は70元。
私はお釣りが欲しかったために、100元をヌアーに渡した。
3人も入場するようで、全部で280元となるのだが。
支払った後、私の手元にお釣りの30元が来ない。
「30元は?」
「マーヨーズ、行くよ!」
「…30元」
「行くよ!」
まだ人間関係が様子見だった私は、まぁいいや、チップだと思えば。三日間一緒にいるのに嫌な雰囲気にもなりたくないし。
そんな風に軽く考えたが、今から考えれば、いや今にならなくとも、当然要求すべきだった。

入場すると、眩しい景色の先にはある人物像があった。

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「鳩摩羅什」(クマラジュウ)の像だ。

鳩摩羅什といえば、後秦の時代、長安にて仏典の漢訳をし仏教布教に大きな貢献をしたことで有名だ。
一番最初の三蔵法師としても知られる。
三蔵法師といったら、日本では西遊記のイメージから玄奘とほぼ同義だけれども、三蔵法師とはもともと特定の人物を指すのではなく、経典を漢訳した僧のことをいう。

では、なぜここキジル千仏洞に来た人が最初に目にするのが、石窟ではなくてこの鳩摩羅什像なのか。
鳩摩羅什の出自は、ここクチャ、当時の亀茲国なのである。
つまり、クチャとしてはこの歴史著名人を誇り主張したいわけだ。

鳩摩羅什の生い立ちはなかなか波乱万丈だ。
父・クマーラヤーナはインドの宰相の家系だったが、出家し亀茲国に至り国師となった。
そこで国王の妹・ジーヴァと結婚、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が生まれる。
7歳で出家し仏教を学び、9歳で母と共にタクラマカン砂漠を越えインダス川を渡った。この時点で驚異である。
前秦王は鳩摩羅什を得ようと呂光を遣わす。
彼の名声は中原にまで広く及んでいたのだ。
ところが長い年月の末、彼を手に入れたのは後秦王で、鳩摩羅什は長安に迎え入れられ国師となった。
ここから没するまでの短い年月が、彼を歴史上の偉人とさせたハイライトだ。
法華経、阿弥陀経などを漢訳、「極楽」という言葉を訳したのも鳩摩羅什だ。
もし自分の訳に誤りがなければ、死んだあとたとえ火葬しても舌は残るだろう。
そういう言葉を自ら残し、また実際そのようになったのだという伝説がある。

つまりこれだけすごい人が生まれ、その仏教人生の基礎を固めたのがここクチャというわけなのだが、それをダイレクトに伝える史跡がない。
そこで、このキジル千仏洞に人物像を造り、ここを訪れた人はそれを知る、あるいは思い出す、あるいは実感するというわけだ。
実際、私のクチャ滞在においても、鳩摩羅什に関わったのはここだけだった。
敦煌を訪れた際にも、白馬寺なるものがあったな。
こことおんなじように眩しい陽の光に輝くような緑の敦煌を思い出した。
あの白馬寺は、鳩摩羅什が長安へ向かう途中に死んだ愛馬を祀ったものだった。
ここから敦煌までも気が遠くなる道のりならば、敦煌から長安までもまだ死ぬほど遠い。
愛馬を祀った塔なんて、とおかしい思いがしたものだけど、今から思えばそれだけの道のりを共にした愛馬は自分の分身同様だったろうし、またその困難も常人には計り知れないものがあっただろう。
笑って悪かった。

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こちらは鳩摩羅什像から見た、千仏洞。
仏教の発展に貢献した鳩摩羅什だが、彼が体を向けるのは仏洞の方ではなくて駐車場の方なんだ、なんて思ったが、こうして見ると横からのお姿の方が不思議と千仏洞の背景とマッチしている気もする。

ここから先は、ゲートがある。
その手前には小さな売店があり中にロッカー。
ゲートの中にカメラは持ち込めないので、ここで預けていくかたちになる。
写真が撮れないのは非常に残念だけど、こればかりは仕方ない。
バッグ等も持ち込めない為、すべての荷物をここに入れる。
私はメモ帳とペンだけ持って、入場した。

ここには、300窟以上もの石窟が残る。
管理番号が振られたものだけでも、237もある。
しかし、旅行客が覗けるのはそのごくごく一部だ。
ゲートで鍵を持つガイドを待って、他の観光客と一緒になって回ってゆく。

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私たちが覗いたのは、全部でたった6窟だ。
あまりにも少ないけど、これくらいの制限をかけてもらわないと、私だったら夜中になってもあの窟この窟と回っているだろうから、まぁこれでちょうどいいのかも知れない。
実際、写真撮影ができないので、自分の記憶が頼りだ。
6窟くらいが、あそこはあぁだったなぁなんて思い出すのにちょうどよい。
10も20も見ていたら、結果なんにも覚えてはいないだろう。

最初に見たのは、27窟。

内部は思ったほど広くはなくて、そして簡素だった。
小さな四角い部屋の天井は、カーブになって丸みを持っていた。
いわゆる馬蹄形だ。
その正面には仏さまがいたと思われるへこみが掘られ、その両側には背後へ続く通路が穿たれている。
背後は後室と言えるだろうが、私が見た窟のすべて、なにも残されていなかった。
ただノミの跡がおびただしく生々しく残るのみ。
今回みた6窟のうち5窟はこの形をしていて、壁画も含めほとんど似た印象を持っていた。
壁画はカーブを描いた天井部にごく一部が残るのみ。
黒と薄いエメラルドグリーンと淡いブルーが印象的な仏画だが、以前に莫高窟で見たような繊細さと雅さは持っていない。
単調で無感情な、言ってみれば絵というよりもデザイン的要素を強く感じる。

続いて、32窟、34窟。
入り口に簡素な説明板があるが、これらはみな5世紀に造られた石窟のようだ。
印象は大差なく、そのほとんどは失われている。
石窟内には、非常にたくさんの仏画が施されていた形跡があるが、残った部分であっても特に顔に損傷を受けたものが多い。
後世この地を支配したイスラム教徒による破壊行為だ。

今ではこの地はイスラム教の地になったが、それはクチャの歴史においてはそう古い話ではない。
この地がイスラム化したのは11世紀ごろからと見られ、それまではこうした史跡や鳩摩羅什や玄奘の足跡を考えてみても、非常に重要な仏教の聖地だったことがわかる。
そう、一大仏教王国だったのだ、亀茲国は。
それがイスラム教の支配により、仏教史跡は次々と破壊された。
本来イスラム教は基本的に他教を認めない。
それだけでなく、イスラム教内の他派をも認めない傾向もある。
顔を削るのは最大の否定である。
ごく一部のイスラム教徒による史跡破壊が現代でも行われていることは言うまでもないが、その根は深い。

石窟を覗いて行って、初めて目を惹いたのが、5窟。
7世紀のものなのだという。

馬蹄形の部屋に、正面に仏さまのスペース。ここのは多少仏さまの絵が残っていた。
この左右と天井にかかるカーブを描いた壁面に一面に壁画が残っていた。
左右肩の高さくらいの位置に、それぞれ水平に段差ができていて、記号のような整列した絵が幾重にも描かれている。
一面に埋め尽くされた仏さまの絵との対比が、インパクトになって目を惹く。
今までの窟と違うのは、細かい仏画には表情があったことだ。
今までは仏さまには表情までは見てとれなかったが、ここの窟にくるとどれも感情的な表情が見て取れた。
5世紀→7世紀という時代の進化なのか、それとも単に見学した窟の違いか。
色彩は同じく、黒、薄いエメラルドグリーン、淡いブルー。それに薄いオレンジ色も。
黒は鉛が変色したものだと思われるので、当時は肌色をしていたはずだ。

観光客はまとまってガイドに付いて回るため、窟内は人でいっぱいで素直な感想、雰囲気に欠けた。
その為、「あれほどイメージしてきたこの千仏洞も案外こんなふうに簡単に通り過ぎて、見て終わりかぁ」と味気ない気分で心ここに非ずだったのを否めない。
ガイドさんの解説はわからないと思ったのではなから聞いていなかった。
しかし、急に「日本」という言葉が耳に入ってきて、びっくり驚いた。
続いて、「五弦琵琶」という単語が耳に入ってきた。
慌てて振り向く。
ここで事情が理解できた。
これこそが、私がキジル千仏洞に来たかった一番の理由だった。

「五弦琵琶」を持つ飛天が描かれていたのは、この窟の入り口振り返って右上だった。

160813五弦琵琶
(手元の資料より拝借)

五弦琵琶は、クチャを訪れるならばとても大事なキーワードだ。
古代亀茲国は、先ほども言ったように一大仏教王国だった。
さらに管弦伎楽が非常に盛んで、「亀茲楽」と呼称を持つほどだった。
この亀茲楽、遠く日本にも伝わっている。
そして、日本の雅楽は、この亀茲楽がルーツとされているのだ。

さてこの五弦琵琶、どうしてガイドはわざわざその説明をしたかというと。
かつては五弦琵琶も四弦琵琶も存在したが、現在は世界からその姿が失われているからだ。
一説には、弾くのが非常に難しかったから時の流れとともに失われたのだと言われている。
失われているから、実際どういう形状をしていたのか、どのような音色を奏でたのかが、わかっていない。
まさに幻の音色だ。
その伝説上とも言える五弦琵琶が、唯一実体として残るのが、日本の正倉院に国宝として残るあの「螺鈿紫檀五弦琵琶」なのだ。
これが、世界でたったひとつ、今も残る五弦琵琶だ。
これはすごいことだ。
遥か昔々、インドから亀茲国を、そして唐を経由してはるばる日本へやって来た、螺鈿紫檀五弦琵琶。
インドでも亀茲でも中国でも失われてしまったその幻の楽器が、日本にあるのだ。
そのルートはまた、仏教の東漸をも象徴している。
この五弦琵琶は、シルクロードを通って日本へ伝わった仏教東漸の軌跡だ。
だからこそクチャは、日本人にとって強い繋がりがある場所だと言って間違いない。

この五弦琵琶の周囲にもおびただしい飛天が描かれているが、そのほとんどは対になっている。
白い皮膚の飛天と、黒い皮膚の飛天だ。
おそらくこの黒は鉛が変色したものなので、当時はもっと鮮やかだったはずだが、このことからわかるようにこの対の飛天の皮膚は違う顔料で彩色されている。
これは男女が対になった絵なのだそうで、この千仏洞の中でそれがあるのはこの窟だけなのだという。

5窟の次は、17窟へ。
全体的に比較的よく壁画が残っている。
5窟と同じように左右肩の高さくらいには、段差が掘られ、花のような幾何学模様のような、そんな模様。

160813 17窟1
(購入した冊子より拝借)

このように黒、青、緑の菱形が組み合わさり、それぞれの中に仏さまなどが描かれている。
最初に見た窟なども同じような菱形の組み合わせだったが、それらはただの菱形だった。
先ほどの5窟とこの17窟は、このように模様のような華やかな菱形になっている。
菱形のなかは単純に仏が収まった図柄ではなくて、それぞれがストーリーを持っているようだった。
中には花咲く木の下で踊っているようなそんなのもあった。

160813 17窟2
(購入した冊子より拝借)

目を惹いたのは、どの人物画もこのように筋骨隆々としていたこと。ちょっと不気味にも思う。
これが腹筋なのかそういう衣装なのか、どちらだろう。

160813 17窟3
(購入した冊子より拝借)

そして何よりも目を惹いたのは出口側上部。
ほぼ完ぺきなかたちで壁画が残っている。
今まで見てきた窟に比べ、仏さまの装飾も細かい。
これらの弥勒菩薩はみな足を交差させている。
感情を持っているかのようだが、その表情は読み取りにくい。微妙な表情だ。
天井の中央には一本のライン。
そのライン上にも仏が描かれている。その一番端の丸の中に描かれているもの。
太陽神なのだという。

最後に覗いたのは10窟。
見学した窟のうち、これのみ立方体の部屋だった。
入り口ままっすぐ通路のようになっていて突き当りで右に曲がると部屋がある。
壁には近代に削り込まれた漢文。
この窟は、壁画を描き仏さまを祀ったものではなく、僧が生活をした僧坊窟だそう。5世紀のものだ。
部屋の隅には台になったスペースがあり、「ここでご飯作ったんだな」と他の観光客は話していた。
内部にはある韓国人にまつわる展示が並んでいた。
あまり興味を持たなかったのでなんとも言えないが、ここで絵を描いたのか、ここで研究をしたのか、そんなところだったかと思う。
ここには、こうした僧坊窟も数多くのこるのだというが、私にはここで生活したり修行したりだなんて、想像しようともできなかった。

このキジル千仏洞、実は調査研究保護のために一番最初に資金提供をしたのが日本だったのだそう。
だから日本人として行くべきだし、日本に関する展示も見ることができるだろう、ロンさんはそう話していた。
しかし、今回それを見ることはなかった。
いずれにしても、日本と関わりが深い史跡だといえる。

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石窟はどれもけっこうな高さに造られているので、そこからの景色は壮観だ。
私は携帯もダメだろうと真面目にロッカーに預けてきてしまったが、みんなは持ち込んで思い思いに撮影を楽しんでいる。
もちろん石窟内は撮影しないが、外の風景は壁画保護に影響はないだろう。
私も持ってくれば良かったと後悔し、そこで、ヌアーに代わりに撮影してもらった。

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先ほどまでいた辺り。
5世紀、6世紀、7世紀、この裸の岩山に窟を穿ち絵を描き込んだ、当時の人々を思う。
駐車場にいくつかの建物、それから鳩摩羅什像、そんなのがあったたとしても、こうして見ると当時もほとんど変わらない風景だったのではないかなと思う。
今ではこのように階段や通路が備え付けられているが、このように保護される前はこれらの石窟は岩肌にただむき出しだった。
当時の人々はなんのために命をかけてこんな高さまで登り、これだけのものを造り上げたのか。
その答えはこの高みからの景観にあるような気がした。
人は高みに登れば登る程、地上で身に付いていた何かを振り落としていく。
高みからの景色がとりわけ人の心を動かすのは、ひとつ風景が美しいだけではなく、それを感じる人の方もまた変わるからだ。
遥か昔、ここにミノを打ち彩色をほどこした人々は、身にまとわりつく様々なものも振り落として仏に祈りたかったのではないか。
そうして、一面に広がる風景に心洗われたのではないか。
ここに描かれる仏画の数々は、そうした人々の目に映った美しい風景そのものではないだろうか。

階段を下りて行って、さっそくロッカーに荷物を取りにいくと、そこには絵葉書やクチャの千仏洞を扱った資料が売られていた。
これらの資料や本は、たいてい高額だ。
しかし、私は一番安いものを購入して帰ることが多い。
ひとつは写真撮影ができない為、あとから見返すために。
もうひとつは日本では得られない情報がそこにあったりするから。
そうして一冊購入し見てみると、今回見学した石窟以外にも、非常に興味深い壁画が満載だったことがわかった。
今回見学した窟の方向性はだいたい同じだったように思う。
しかし、ここにはこんなにも多彩な壁画が展開していたなんて。
「これ以上先は開放していない」
そう言われて進めなかった先にも、観光客はいた。
他の石窟遺跡同様、こちらも追加料金制というわけだ。
すべてではないが、いくつか追加料金を支払えば見学させてもらえる。
しかし、1窟いくらとそれはもういいお値段。
今回見学した内容に満足はしているが、その選定にもなにかしら“ずるさ”を感じてしまう。

次の二枚は見学できなかった壁画の一例。

160813 新1窟飛天
(購入した冊子より拝借)

こちらは新1窟の壁画。
7世紀のもので1973年に発見された石窟だ。
ここは観光の目玉であるから、追加料金制であることは言うまでもない。
非常に繊細な描かれ方をした飛天だ。
こんなにはっきりした描線をもつ飛天があるとは思いも寄らなかった。

160813 181窟
(購入した冊子より拝借)

こちらは181窟。
インドの影響が表れているように思うがどうだろう。

石窟見学において、もうひとつ残念があった。
クチャを訪れて興味深いテーマのひとつ、「亀茲文字」だ。

龟兹文字
(中国サイトより拝借)

亀茲国は独自の言語を有していたことが、発掘調査からわかっている。
その言語を「クチャ語」と呼ぶ。

なぜこの言語が多くの人を惹きつけるかと言うと、解明されていない部分が多く謎とされているからだ。
かつて、タリム盆地では他地域とは異なる言語が使われていた。
その言語をトカラ語と呼ぶ。
このトカラ語、A種とB種の二種に分類され、このB種にあたるのがクチャ語である。
しかし謎のひとつはこの分布だった。
紀元前2千年頃、ユーラシア中央部から千年にわたり各地へ大移動を続けた民族、この民族に由来する言語をインド・ヨーロッパ語族と呼ぶ。
インド・ヨーロッパ語族は、東方系(イラン、インド語etc)と、西方系(ギリシャ・ラテン語etc)に二分するが、トカラ語はこの西方系に分類される。
この分布法則において、亀茲国があったエリアはもっとも東にあたるにも関わらず、西方系にあたるトカラ語派がこの地に孤立して存在していたことが謎だった。
しかも、亀茲国はインドと密接な関係があったというのに。
楼蘭はじめ、南疆で発見されたミイラの研究からも、古代にヨーロッパからこの地に民族大移動が行われていたことが推測されている。それが要因と結論づけられているのかはわからない。

このクチャ語、8世紀ころまでは使用されていたが、その後失われたのだそう。
ちなみに現在の地名クチャは、クチャ語で「白」を意味するクチが由来となっているのだとか。
白はクチャ王家の姓だった。
また現代でも白という姓は、クチャ由来であることを示している。

私はこういう謎があるよということを知っているだけで、クチャ語については何も知らない。
ここキジル千仏洞はじめ、クチャの史跡の数々にこの古代亀茲文字が残されているというので、それを自分の目で見るのを楽しみしていたのだ。
しかし見学した石窟に亀茲文字を見ることはなかった。
非常に残念だったが、これも石窟選定のいたずらか。

石窟見学を終えて、私たちは千仏洞の下を向こうに歩いて行くことにした。
「泪泉はどこにあるの?行きたい」
何度かそう、訊ねた。
千涙泉(泪泉)は、ここキジル千仏洞からしばらくあるいていったところにある、泉だ。
岩々から水が流れ出て下に流れ落ちる場所なのだという。
旅行前、新疆の友人から、「泪泉は夜に行くと雰囲気があっていいよ」と勧められていた。
それに私自身、以前に紀行文でここについての文章を読んだことがあったので、是非とも行ってみたかった。

「千涙泉」にはある言い伝えがある。
王女が貧しい青年と恋に落ちた。
王様は「千の洞を掘れば二人の仲を認めよう」と言った。
青年はなんとかして叶えようと掘り続けたが、999まで掘ったところで命絶えてしまった。
王女は嘆き悲しみ、まもなく後を追うように死んでしまった。
この泉はその枯れることのない涙なのだという。

だから、「泪泉はどっち?行きたい」と何度か訊ねた。
「向こうだよ」 とそちらに進んで行くので、当然行くと思うだろう。
しかし結論、千涙泉に向かっていたのではなく、彼らが行きたい方向に進んでいただけだった。
「遠いからもう行きたくないよ」と言われ、私もそれ以上は言わなかった。
どうしても行きたいと言えば一人で行かせてくれたとは思うが、彼らの態度ははっきりしていて、私は“穏便”を選択したのだった。
千涙泉を示す看板が向こうを指していた。
あと少しだったのに。

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そうは言っても十分に素晴らしい風景は満喫できた。
ゆく道、目移りするものでいっぱいだった。
風景は眩しくて、向こうには千仏洞の岩肌がすぐそこにあった。
この鮮やかなピンクは紅柳、砂漠の花タマリスクだ。

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歩いて行くと私たちが観光したのはごく一部だということがわかる。
大きく穿たれた場所がある。
内部はどうなっているんだろう。

胡桃もあれば、沙枣(スナナツメ)の木も。
「乾隆帝と香妃は知っている?」
ヌアーが私に訊いた。
タイムリーな質問ではある。2月の北京旅行では乾隆帝と香妃とされる妃の墓に観光にいったばかりだ。
清朝第6代乾隆帝にはウイグルの妃がいた。
伝説では香妃という悲運のウイグル妃が語られているが、これは実在した容妃のことではないかと言われている。
伝説はさておき、乾隆帝は容妃を大切にした。
遥か彼方の地、ウイグルから中原に嫁いだ彼女を思い、乾隆帝は故郷の植物スナナツメを宮城内に植え、棗園をつくった。
こうして、西域にしかなかったスナナツメは中原にも広まったのだという。
つまりこの棗は乾隆帝の容妃への愛だ。

すぐ脇にはきらきらとした小川が流れていた。
すくって味わってみたいほど清らかな水の流れだった。
その小川を飛び越してみると、その先には葡萄畑があった。

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グリミルがそれを一房とって、私にも分けてくれる。
「盗んだの?」
ヌアーが笑っている。
そう、盗んだのだ。
採ってしまったものは仕方ない。小川のすぐそばで、夢中になって食べた。
瑞々しくて感動的だった。

グリミルは年齢不詳だった。
すごく若くも見えるし、そこそこの年齢にも見える。
ひとつ言えることはすごく美人だということだ。
ひと目見て思い浮かべたのは、映画・LEONのマチルダ。
社会を冷めた目で見ているような表情やしぐさもそっくりだった。
違うのは茶色の髪だ。

16081328.jpg

千仏洞の前には、回廊のようなものが造られていて、様々な仏さまが置かれている。
インドのお姫様から寄贈されたもの、なんてのもあった。

周囲の風景は不思議だった。
乾いた岩肌や大地は、生命を拒絶しているように見えた。
しかし、その中にも緑が息づき、豊かな河がおおらかに流れていた。
この二つの要素は混じり合うことなく同居していた。
その不思議な同居を目の前にしながら、私は「ずいぶん遠い場所に来たんだな」と遥かな距離感を実感した。

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思うところがあって、訊いてみた。
「あれは、五彩山?」
すると、「そう」とのこと。

中国には、「五彩山」という名を持つ山がいくつもある。
新疆の五彩山はその中でも奇怪であり特色的であり、美しいのだという。
時の流れと共に、その色彩を変えていく。
それが五彩山の名の由来だ。
一日滞在すれば、その少しでも体感することができたかもしれないが、私たちには時間がなかった。

このキジル千仏洞、ホテルなんかないように見えるが、泊まらせてもらうことができる。
ウルムチのロンさんが、「ぜひキジル千仏洞で一晩過ごすといい」とその手配をしてくれる予定になっていた。
車とガイドは帰り、ここに私ひとり宿泊する。
「今はイスラムの地となって失われた仏教だが、夜に千仏洞を歩いてみれば、1000年前の仏教国の空気を体感することができるだろう。ぜひ、それを味わってみなさい」 とそう言ってくれた。
「夜に泪泉までいくと幽美で感動するよ」 コルガスの男の子はそう言った。
それを楽しみにしていて、わくわくだったのだけれど。
外国人の宿泊不可であることがわかったのは、新疆入りしてからだった。
千仏洞内は外国人宿泊不可。
拜城には外国人が宿泊できるホテルはあることはあるが、とても高いのだという。
そういうわけで、クチャへ二泊となったのだった。


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克孜尔千佛洞は、新疆の中でも訪れたい地の一つです。吐魯番の柏孜克里千佛洞に風景と佇みが似ていて驚くはがりです。歴史的には、克孜尔千佛洞が先に開廟したと思われます。何より幸いしているのは石仏や壁画が破戒され尽くされていないことです。僕は吐魯番の遺跡の廃墟に寒々としたものを感じて、異教徒の地に入り込んだ厭な気分となり、烏魯木斉を離れるまでこの気分が抜けませんでした。今回の遺跡を先に訪れれば、あの様な気分とはならなかったのでは思えてしまうほど惹き付けるものがあります。僕もまゆさんと同じで制約がなければ一日中石窟巡りをしそうです(^^)

宿泊の可否…

この情報はとても嬉しい情報です。この辺りは抜け道を使えば宿泊可とみました。義弟や中国の旅行会社を使って観光シ-ズンに乗り込み紛れれば行けると思います。ただ、リスク付きですけどね…(^^)

Re:

toripagonさんは以前にもぺゼクリク千仏洞の悲しい状況についておっしゃっていました。
私はトルファンへはまだ行ったことがないのですが、確かにあった歴史のひとつとして、その姿を見なければいけないかなとも思っています、いつか。やっぱり気分はいいものではないと思いますが…。
仏窟を作ったのも人であれば、破壊したのもまた同じ人だからです。
かつて仏教文化が花開いた中国西域も、今では完全にイスラム化し、そのイスラム化は未だに進んでいます。
友人が言った、「今では仏教は失われた」という言葉が重いです。

本音をいうと、ウイグルのガイドさんたちがいなくて個人行動だったならば、たとえ高額な追加料金でも、他のもっと多彩な壁画を見てみたかったです。
ただ、五弦琵琶の第5窟はほんとうに素晴らしかった。
一面に壁画が残っていました。

Re: 宿泊の可否…

ここで宿泊できなかったのは、本当に残念!
千仏洞を時間を気にすることなく楽しみ(千仏洞のガイドと他の観光客とまとまりになって回る形でしたが)、小川の流れに沿いながら乾燥地帯の植物や周囲の風景のなかを散策し。
夜は千涙泉の幽美さを体感し、千仏洞のすぐそばで1千年前にタイムスリップしたかのような感覚を味わう。
きっと、見上げれば満天の星空が美しいと思う。
翌日はちょっと向こうまで足を伸ばして、五彩山まで行ってみるのもいい。
リスク付でも、もし抜け道を通れるなら、ここには泊まりたいです。

プロフィール

まゆ

Author:まゆ
中国が大好き。お酒も大好き。
中国へ行く度に、スケールの大きさに圧倒されます。各地を旅行し街歩きし、体感したことを綴っていきます。

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