2016-10-13

銀川旅行二日目~その一~

2016年9月23日、本日は銀川郊外へ出掛ける。
三泊四日の旅程のなか、最初と最後の一日はほぼ移動なので、実質動けるのはたった二日間だ。
明日はのんびりとした市内観光を予定しているため、旅行のハイライトは今日一日。

銀川ー寧夏回族自治区の首府。
銀川(ぎんせん) この名前を知る日本人は、少なからずシルクロードだったり歴史だったりに興味がある人だろう。

この地名を日本で有名にしたのは、井上靖の小説「敦煌」だ。
この小説がなければ、おそらく未だにほとんどの日本人はこの地名を知ることはなく、ましてや訪れようとする人なんていないだろう。
しかし小説の中で銀川という現在の地名が使われていたわけではない。
小説「敦煌」の中で描かれる、“西夏”というかつての王国。
西夏の首都があった場所が、現在の銀川である。
銀川は、西夏の歴史を考えるうえでもっとも重要な場所なのだ。
寧夏回族自治区の「寧夏」というこの文字は、夏(西夏)を寧んじる、という意味を持っているそう。
また銀川は、シルクロードのひとつのルート、河西回廊の要衝だった。
かつて西夏を経由して西域から宋へホータンの玉やバルト海の琥珀が運ばれた。
この地を語るのに、「夏」の文字なくしてはありえない。

「西夏」という国自体、もともとは非常にマイナーだ。日本人にとっては。
宋と争った資料が残るだけで、多くの情報があるわけでもなく、謎多き王国だ。
この西夏という名称も、小説「敦煌」がなかったならば、おそらくほとんどの日本人は知らないままだろう。

西夏は、11世紀初めから13世紀にモンゴルに滅ぼされるまで約200年間続いた国だ。
寧夏を中心として、内蒙古、甘粛、青海の一部を領土としていた。
国号は大夏。
西夏という呼称はあくまで漢人によるものだ。
「夏」は中原の漢人にとっては雅号だったために、辺境の国を大夏と呼ぶことに抵抗があったのだろう。
西夏とすることで中心はあくまで宋だと、そう言いたかったわけだ。
よって、西夏という呼び名を用いるということは、中原目線だということも表している。
しかしながら、現在では「西夏」の呼び名が一般化し、「大夏」なんぞと呼んでも誰もわからないのだからもはやそんな背景はないも同然だ。

本日は、この西夏の皇帝たちが眠る陵墓群を観光しにいく。
郊外ではあるけれども、それほど遠いわけではない。
郊外に点在する観光地を周るためにも、最初は現地でタクシーを捕まえて交渉してみようと考えていた。
友人が銀川のガイドを紹介してくれたが、クチャの時の苦い記憶が蘇り断った。
とりあえず一日の車代を訊いてみると、300元、と返ってきた。これはかなり安い。
直接連絡先を教えてもらい、詳しく行先を伝え、最終的に400元になった。
どうして増額?と確認してみると、どうやら私がリクエストした行先の中にはほとんど人が向かわない場所が含まれるようで、そういうこともあり400元になったようだった。
ガイドのリーさんが最初に交渉してくれたとき、相場で500元が提示されそれが値引かれて400元。
証拠の画像も送ってくれた。
400元でも日本人の感覚からしたらかなり安いので、私は車の手配をお願いすることにした。
運転手のシャンさんとも連絡先を交換し、12時にホテルに来てもらうことになった。

本当は早起きをして午前中はその辺を歩き回るつもりだったが、蓄積された疲れでホテルを出たのは10時。
そんなにゆっくりしている時間もないので、昨晩に感動した鼓楼・鐘楼を見に行くことに。

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鼓楼と鐘楼はセット、という感覚があったので、昨日はこれを鐘楼だと思っていた。
しかし、もともとはここも鼓楼だったのだそう。
現在は、“玉皇閣”と呼ばれる。
明代に鼓楼として建てられ、地震により倒壊し清代に再建されている。
どうやら隣りに建てられた鼓楼の先輩のようだ。

裏側には、上に登って行ける階段があった。
階段もまた古い石造りで雰囲気がある。
この玉皇閣、基壇の部分だけで19mもの高さがある。

登り切ってみると、そこには受付係みたいに椅子に座ったおじさんがいた。
階段には「免费」(無料)と書かれていたのでおじさんを素通りしようとすると、記帳を促す。
名前と、住んでいる場所と、身分証番号。
本当に無料だった。
中国は不思議な国だ。
たったこれだけでこんなにお金とるの?というところもあれば、こんなすごい観光地でこんな金額でいいの?というところもある。
公園なんかでも入場料がかかるところもあれば、博物館や愛国教育を促すようなところでは無料というのもある。
保存維持費として、5元くらいとってもいいのではないか。
玉皇閣に関してはそう思う。

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上部はそんなに広くない。
広くない中に、このような重厚な建物が並んでいる。
こちらの石碑は龍の姿。
古くて鮮明さは失われている。かつてどのような意味を持ったのだろうか。

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中央の建物はこことは関係ない展示室のようになっており、窓はすべて閉ざされていた。
そのため、わずかな部分からしか周囲の風景を覗くことはできない。
けれどもここから望む市内の風景はのどかで平和だった。
この楼閣は、長い間こうしてこの街を見守ってきたんだな、と感じた。

階段を登ってすぐには、古い写真が展示されている。
70年代、80年代の南門や鼓楼。
解放時の人で埋め尽くされた南門や市内。
銀川も激動の時代を乗り越えてきたのだ。
鼓楼の姿は変わらない。今も昔も交差点の真ん中にどっしりと構えている。
変わったのは周囲の風景だ。
日本もそうだったように、街並みはがらりと変わり、写真を見ても想像することすらできない。

玉皇閣から風景を見下ろしてみると、南側の広場には、噴水と大きな釣鐘がある。
この釣鐘は一見すると昔使われていたもの?と思ってしまうが、これは現代のもの。
よくよく見ると、「宁夏世纪钟」、これは簡体字、つまり建国以降の文字だ。

いい天気で良かったなぁと、心地よい風を感じていると、ふと下の大通りが賑やかになった。
大きな音楽を鳴らして歩いて行くもの。

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それは何匹ものピカチュウだった。
ピカチュウはピカチュウだったが、おそらく正統なものではないだろう違和感があった。
この賑やかなピカチュウの行進は、あっという間に向こうに消えて行った。

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銀川の歴史を感じさせる楼閣だ。
すっかり現代の街になった銀川だが、それでもピカチュウの行進は違和感極まる。
歴史ある街、銀川。
中華文化も色濃くありながら、やはり西域の入り口だということも感じさせる。
かつての中国版図では、西の僻地だった。
現在ではイスラム教徒がその人口の3分の1を占め、多民族がここに住まう。
不思議な街だ。
青い空と緑がよく似合う街だな、と思った。

玉皇閣を降りて、すぐそばの鼓楼に行ってみた。

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ものすごい存在感。
先ほどの玉皇閣と同じく、激しい軒反りと分厚い基壇との対比が美しい。

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昨夜ここを通った時には夜間だから施錠されているのだと思ったが、どうやら上部は非公開のよう。
確かに車通りの激しい交差点の真ん中で、観光客に開放していたらたいへんだ。
登って見れなかったのは残念。

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道を歩けばあちこちで果物を売るリヤカー。
こちらは棗。
ここはもう砂漠性気候、棗の産地だ。

他にも柿、梨、リンゴ、葡萄など。

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柿の実があまりにも鮮やかなので、つい触ってみた。
すぐに形が壊れてしまいそうなほど柔らかい。
果物は腐る間際が一番おいしいともいう。
確かに柿であっても、そうだ。
けれど日本ではこれほど柔らかい状態で柿を売らないし買わない。
「日本人は固い柿を食べますが、中国人はこういう柔らかい柿を食べます」
帰国して訊いてみると、Q先生はそう答えてくれた。
おなかに余裕がなくて、この完熟柿を食べなかったことを、後悔している。
こっそり持って帰ることも考えたけれど、あまりに柔らかすぎてこれは無理だった。

あと30分で待ち合わせの12時だった。
遅い朝食とお昼を兼ねて、ふたたび蘭州拉麺を食べる。

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回族のお店にて。
今度は辛みのないタイプ。これで7元。
透き通ったスープはあっさりしていながらも旨味があり、簡単に飲み干せてしまう。
私は日本で麺を食べる時にも、具が要らない派だ。
ラーメンのチャーシューもメンマもゆで卵も、いらない。
こう言っては恐縮だけど、邪魔なので早々に片づけてしまい、落ち着いて麺とスープを味わう。
そんなんだから、このシンプルさはまさに私好み。

ホテルに着いてリーさんと落ち合った。
それから運転手のシャンさんとも合流し、出発。
助手席に乗ろうとしたリーさんに、「前に乗ってもいい?」とお願いし、助手席へ。
クチャ旅行の苦い思い出が蘇るが、リーさんは快く助手席のドアを開けてくれた。

車は旧市街を抜け、公共の建物や新しい建物が建ち並ぶ開発区を通った。
市政府を通り抜け、やがてある信号で車は停まった。
「あれなに?」
すぐ横にはモスクの形に似た建物があった。
「清真寺?」 清真寺とはイスラム寺院のことだ。
「違うよ、イスラムの学校だよ」
リーさんは後ろから教えてくれた。
「あの文字はウイグル文字?」 ごにょごにょしたアラビア文字を指して訊く。
新疆に馴染みのある私にとって、中国のイスラム教徒と言えばウイグル族であり、中国で見るアラビア文字はウイグル語だというイメージが強くあった。
「違うよ、あれはアラビア語だ」
「ウイグルじゃないの?」
「違う、まぁ、大差ないけどね」
リーさんはそう言った。
銀川の街中にアラビア文字を見ることは多くなかった。
新疆ウイグル自治区であれば、お店の名前もメニューもそこらの張り紙も落書きもみんなウイグル文字(アラビア文字の一種)だ。
それに比べこの街はほぼ中国語だったが、道路標識のみはアラビア文字が併記されていた。

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こちらは朝見た玉皇閣近くの標識。
朝は、「ここにもウイグル語があるんだ」なんて思ったものだけど。
「ならあれもウイグル語じゃない?アラビア語なの?」
向こうにある道路標識を指して言った。
「うん、あれもアラビア語だ」
「回族は何語を話すの?ウイグル語じゃないの?」
「回族はアラビア語だよ」

私は実は非常にあいまいな認識をしていて、中国西域の民族に対して雑な理解しかしていなかった。
「回民」とはイスラム教徒のことである。
だが、それは回族とは別の概念だと思っていた。
回族はイスラムを信仰する民族だが、ある民族のことを指すのだと思っていた。
回族という民族が、みな一様にイスラムを信仰しているのだと。
しかし、それは大筋間違ってはいないけども、根本的なところで大きな誤解だった。

「回族とはイスラムを信仰する民族のことだよ」
中国ではイスラム教徒を穆斯林(ムスリム)と言う。
しかし、回族=ムスリムではない。
「でも、ウイグル族はムスリムだけど、回族ではないよね?」
「そう、ウイグル族は回族ではない」
ウイグル族は中国由来の民族だ。
一方、回族は中東からやって来た「外来」の民族だ。
リーさんはそう説明してくれた。
そういうことか。
以前、「回族は白い帽子を被っている」と教えてもらったが、なるほどそういうわけだ。
回族は外来のものだから血統はすごく複雑で、現在に至るまで現地人との混血もあり、それでさらに複雑になったのだと、新疆の友人が後日教えてくれた。
ウイグル族にしても、実はそう単純ではない。
建国後、中国西域の多くの少数民族が「ウイグル族」としてたいそう大ざっぱな区分に振り分けられてしまった。
ウイグルにしても本当はもっと色んな民族が入り混じっているのだ。
それ相応の知識がないと、中国の少数民族については語れない。
私も少しづつ学んでいければな、と思う。

今日、向かうのは郊外。
一番の目的地は、西夏王族の陵墓“西夏王陵”、それから“賀蘭山岩画”、“拝寺口双塔”、それに“三関口長城”。
どれも賀蘭山という山の麓に位置している。
西夏王陵・賀蘭山岩画・拝寺口双塔は、銀川を観光で訪れる人の定番コースだ。
西夏王陵だけ、という人も少なくないだろう。
銀川の観光といえば、西夏王陵だ。
この定番コースを私も予定に組みながら、思った。
地図を見てみれば、寧夏の北の先っぽに位置する銀川は、北側の内蒙古にめり込むようになっている。
そして、寧夏と内蒙古の境界に沿って万里の長城が点々と残されているようだった。
観光定番コースが点在する賀蘭山脈は、この寧夏と内蒙古との西側の境界に重なるようにしてあった。
ということは、賀蘭山脈付近を観光するついでに見ることができる長城遺跡があるのでは?と考えた。
調べてみると、この付近には“三関口長城”と名付けられた長城遺跡が残ることがわかった。

本日行く場所を車内で再確認しながら、リーさんは言った。
「三関口長城は行く人は少ないよ」
車代の交渉で、若干アップした理由だ。
「どうして少ないの?」
「ぼこぼこと残るだけだから。北京のみたいには残っていないから」
願ってもいないことだ。
かたちをしっかり見ることができなくても、今どんな姿をしているのか、それを見るだけでも行く価値がある。
大同までの道行き見た万里の長城のうねり。
秦皇島の海に突き出た老龍頭。
図ったわけではないが、なんとなく長城に関わることが続いている。
これもまた縁だろうか。

どういう話題だったか、「黄河」というワードが出た。
「ここは黄河から近いんだよね?」
「そう、近い」
そう言って、リーさんは携帯の写真を見せてくれた。
それは砂漠の向こうに見事な黄河が流れる美景だった。

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これは後に、昨夜拉麺のお店で知り合った女性、ヤンさんが送ってくれたもの。
しかし、リーさんが自ら携帯で撮影した写真も、これとほとんど変わりなかった。
アングルも一緒。どうやら定番のアングルのよう。
あまりに素晴らしかったので、「行きたい!」と思った。
「どれくらい遠いの?」
「遠い、三時間かかるよ」
それならば、今回の滞在中行く時間はない。とても残念だ。
「長江は何度か見たことがあるけど、黄河は見たことがないよ」
そう言った。
済南を旅行した際にも、すぐそこに黄河が流れていたが見には行かなかった。
「明後日、飛行機は何時?」 シャンさんは訊いた。
「すごく早いよ。7時45分の飛行機」
「それなら見れないな」
リーさんとシャンさんはうなずく。
どうやら、この辺りだと空港の方面で黄河が見れるよう。こことは方面が逆だ。
「帰りに時間を見て行けたら行ってみよう」 そう言ってくれた。

リーさんは続けて富士山と一緒に写る写真を見せてくれた。
何年か前に日本を旅行したのだそう。
一週間のうち移動が一日かかるから、中五日。
この五日で東京、富士山、大阪、京都を周ったのだといった。きつきつのスケジュールだ。
「富士山はチケットないでしょ?」
二人してそう訊いてくるも、最初はなんのことかわからなかった。
でもすぐにわかった。
中国では観光地となった山を登るのにもチケットを買う必要がある。
無料で山に登れるというのが新鮮だったよう。
「お金を払って登る人もいるよ」
お気持ちで入山料、というのが以前に決まったが今はどうだろう。
それをどう伝えていいかわからない。
「保護のために」
そう付け加えた。

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そうこうして、風景は開けた。
広がる風景の中にまっすぐ続く道路。
その左右には防砂林にもならないような弱弱しい木が等間隔で続いている。
外は強風なのか、皆一方に傾いている。

向こうに賀蘭山脈が見えて、やがて小さな丘のような場所に車は停まった。
手前には「内蒙界」の道路標識、蒙古文字のルビがふられていた。
ここから先は、内蒙古自治区だ。

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小さな丘のてっぺんを指して、リーさんが言った。
「あれが長城だ」
確かにその先には、土塊と化した長城の痕跡があった。
その手前には鉄条網が厳重に張り巡らされている。
そしてその向こうにはてっぺんまで続く幾筋かの道ができていた。

今まで見たどの長城とも印象が違っていた。
万里の長城といって多くの人が思い浮かべるのは、八達嶺に見るような石畳で強固に造られたものだ。
しかし一言に長城といっても、復元されたものもあれば、修復されたものもあり、また朽ちるがままのものもある。
かつて敦煌郊外で見たあの漢長城は、朽ちるがままに任されたものだった。
今目の前に点々と伸びているものは、その漢長城に似ている。
すでに土塊を化し、ほとんど形を成していない。
ところどころが途切れ、かろうじて人工物だと推測できるのみだ。
けれどもあの漢長城とは違うのは、小さな山の峰に沿って残っていること。
それから、ここが荒涼としたゴビ灘ではないことだ。
周囲にはところどころに草が風にそよぎ、白や黄色の小さな花が細々と咲いている。
滅びと再生。
そんな言葉が似合う風景だと思った。

登れるところまで登ってみようと、斜面を登ってみた。
すると、リーさんとシャンさんがポーズを決めて楽しんでいる。
そこには石碑があった。

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こちら側が、内蒙古自治区。
私たちは向こう側からやって来た。

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飛び越して振り向けば。
寧夏回族自治区に再び戻って、内蒙古の方を向く。
なんだか、国境みたいで楽しい。

万里の長城は北方民族からの襲来に備えて中原の王朝が長い歴史をかけて建造を繰り返してきたものだ。
この辺りでは、ちょうど寧夏と内蒙古との境界に万里の長城が築かれていた。
というよりも、万里の長城がそのまま両自治区の境界になったという方が正しい。
それはそのまま民族、文化の境だった。
寧夏というのは、中原と遊牧民族の境目に面した地域なのだ。

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ここまでで十分だった。
というのも、目の前の鉄条網は幾重にも張り巡らされ、越えてみようなんて気すら起きないものだったし、「保護の為に立ち入り禁止」の看板に、そもそもそんな選択肢は私にはなかった。
ところが、リーさんはいつのまにか鉄条網の向こう側にいた。
どうやって越えたんだ?
そうして、向こう側から「おいで」と言う。
鉄条網はコンクリートでできた腰の高さほどの杭に絡まっており、そこに足をかけて飛び越えられるという。
そんなことができるのは忍者くらいだと思った。
こんな杭に片足を任せるのも怖ければ、まずこの高さに足を乗せることができない。
「そこの鉄の棒に手をかけて」 と言う。
「無理!無理!」
高所恐怖症なのだ、私は。
足を乗せられたとしても、失敗して鉄条網に絡まってケガをするのを想像してしまう。
しかし、気が付けばリーさんの手に引っ張られ、シャンさんの後ろからの補助により、いつのまにか向こう側に足をつけていた。
鉄条網も看板も、理由がありそこにあるものだ。
やはり、ここには踏み入るべきではない。
けれども、「もう乗り越えてしまったから」という悪魔の囁きに、私はわくわくした気分でその先を見上げた。

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意図的に作られた道ではない。
けもの道のように自然に草がはげた道が上まで続いている。
ちょっとそこまでと思ったものの、案外傾斜がきつくて最後の方は足場が安定しなくて一気に勢いで駆け上がった。

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一番てっぺんのあたりは、よく見ると階段の形をしている。
当時のものなのか、それとも現代の人間が手を加えたものか。
ここまで来たら、降りるときのことは考えないことにして登り切ってみる。
傾斜が急で足元が危うく、リーさんが上から引っ張り上げてくれた。

登り切った瞬間、突然吹き上げる強い風に襲われた。
広がる風景に言葉をなくした。

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小さな丘を登ってみれば、そこはかなりの高さの場所だった。
一坪ほどのスペースのすぐ真下は断崖絶壁。
高所恐怖症の私は思わず後ずさる。
リーさんはぎりぎりのところで下を覗き込んで気持ちよさそうにしている。
少しでもバランスを崩せば、即死だ。怖くないのかな。

地面が鳴るような空気の振動があった。
初めはそれを、風の音だと思った。
ここは強風が吹きすさんでおり、さらに左手向こうには山の窪みがいくつかあり向こう側が見えなくなっていた。
だから、風と地形が作り出す音だと思ったのだ。
また、そしてもう一度、同じような空気の振動があった。
「これ、なに?」
リーさんに訊いてみると、
「軍事演習」 とのこと。
目の前に広がる風景の中に、人影はもちろん、どんな人工物も認めることはできなかった。
「あの向こうで」 と、リーさんは山のくぼみの向こうを指した。
音というよりは、振動のように感じた。
こんなところまでそれが伝わってくる威力に驚く。

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土塊は、それでもかろうじて「塀」のような形をところどころに残していた。
この山の峰に沿って、向こうに続いていく。
こんなんでは、脅威の北方民族を防げまい。
当時は城壁の体をしっかり成していたんだろうけど、どんなふうだったんだろう。
「500年以上前のだよ」
リーさんが教えてくれた。

足元にはあちらこちらに白や黄色の可憐な小花が咲いていた。
リーさんはそれらの写真を撮っている。
「私が求めていたのはこの風景かも知れない」
ふと、デジャブに似た感覚がおそった。
この風景ではないけれど、私はこれによく似た風景を知っている。
草原を乾いた風が流れる。
そこには、派手ではないけれど清らかな小さな花が咲いて揺れている。
ただそれだけなのだけど、私にとっての中国のイメージはこれなのだ。
おそらく、子供の頃に見た何かがそのままそんなイメージになったのだろうけど。

けれど、こうも思う。
中国の歴史はいくどもいくども、繁栄と滅びを繰り返してきた。
国や王朝はいくども名を変え、また同じ名が繰り返されることもあった。
いろんな姓の民族が、天下を支配してきた。
様々な文化が花開き、国は滅びれど伝わり残ったり失われたり。
けれども、大地だけは変わらない。
この広大な大地は、その線引きが変わろうとも、名を変えようとも、そこに住まう人間が変わろうとも、ずっと同じでそこにあった。
人間がやってきたことはみな、この大地のうえで起きたことだった。
だから中国のはるかな歴史を思うとき、いつも広がる大地を心の風景に見る。
果てしない草原に吹く風は、私にとって中国風景の原点ともいえるものだ。
そのこころの風景が、ある文明の始まりであるのか、あるいはある文明が滅んだあとなのかはわからない。
おそらく、そのどちらでもあるのだと思う。
なぜなら、何かが生まれることと何かが失われることは、対極でありながら同じことでもあるからだ。
この草原の風景は、滅びと再生そのものだ。
では、このこころの風景は平安なのか戦乱なのか。
不思議なことに、同じ風景なのに平安なときもあれば、戦乱のときもある。
私は、このこころの風景の謎をこの目で確かめるためにあちこちを訪れたいのかもしれない。そう思うことがしばしばある。

今目の前に広がる風景は、私が知っているあの草原の風景ではないけども、それに似ている何かがあった。
それだけにとても満ち足りた気分になり、言ってしまえば実は今回の旅行の中でもっとも心が充実していたときだった。
長城のどこかに立ち寄ってみよう。
ついでだったというのが本当のところだ。
きっと縁があったんだと思う。

危ない危ないと言いながらなんとかふたたび下まで降りてきた。
保護のために掛けられた鉄条網を破り侵入した私たちだったが、断じて長城自体には触れていない。
リーさんもあたりに咲く花にはカメラを向けたが、長城の土塊には触れようともしなかった。
けれど、その地面を踏む、というだけで一種の破壊であることは間違いない。
自分だけだから。
みんながそう思うから遺跡はどんどん失われていく。
それなのに、まだ自分だけだと思ってしまうずるさ。

ふたたび境界線を越えて、蒙古から寧夏へ。

16092321.jpg

万里の長城のあっち側からこっち側へ。

向こうに黒い点々が見え、それらは草を食んでいた。
草原といえば馬のイメージだったので、そう訊いてみた。
「牛だよ。馬を育てる人は最近では少なくなってきた」
リーさんは車の中でそういった。
騎馬民族が越えられないようにと築かれた長城。
やっぱりここに牛を見るのはなんともおかしな気分だった。


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回族と文字…

 中国の少数民族は55に分類されると言われています。その中のイスラム教、最大の少数民族は回族です。ウイグル族は中央アジア系の民族で文字はアルタイ語系テュルク派に属する独自文字のウイグル文字を使用しています。
 元代には、文字を持たぬモンゴル系民族の現モンゴル文字にも影響を与えたされています。
 回族は漢族を母体とする漢語を母語とするイスラム教徒を指します。ですが、一部には漢語を母語とせず改ペルシャ語を母語とする少数派も者もいます。
 回族がイスラムだけではないとの説は疑問があります。少なくとも中国政府との見解とは相違します。
 ただ、この疑問は中国政府の意見に同調して事ではなく、回族が現共産体制で漢族社会でのイスラム教徒の地位を確保するた過程の苛烈さや変動する政治・政策中で智慧を絞り融和しつつ、その地位を確保した苦難の歴史を考えるとイスラム教ではないと彼等が言うとは思えないからです。
 まあ、それは全て少数民族に言えることですが苦難の道のりであったことは想像を絶し、必ずしも自らが望む形態でで漢族社会に溶け込んだわけではない民族も多く、文化や慣習を蹂躙されつつも生き残る事を優先した結果であり、その中でも民族の根幹であるイスムラ教を残せた彼等がイスラムではない回族を標榜するのは奇異に思えてなりません…議論を仕掛けるつもりはありませんのでお気を悪くしないで下さいね…

 寧夏回族自治区は、その歴史を紐解くと三国志以前は蒙古諸属の支配する地域で宗教的にはアミニズムやシャ-マニズムが支配し、その後、仏教を経てイスラム教へと変化を遂げます。以前に読んだ本の題名は忘れましたが中国の回族の歴史と80年代の現状をまとめた学術書の中に寧夏回族自治区における子女教育の現状が記されていた事を思い出します。
 イスラム教では子女教育は不要とされ回族も未だ都市部を除くとその因習下にあると記されていました(これは今現在も地方では同様との事でした…)。
 文革以前の乱開発により黄土高原の砂漠化が進む中、旧態依然と変えぬ生活様式では困難とされた生活習慣の変革は子女教育を変えつつあり、その一貫として回族のみの女学校が設立があるとされていました。
 そもそも、イスラムでは婦女子の教育は否定されておらず、歴史的には子女を対象とした寺子屋が存在していたそうです。
 最近(80年代を指す)は、そこで巣立った子女が中国全土に散り、子女教育を支えつつあるとのレポ-トが記されており、中国国内におけるイスラムの実態を色々と知る事ができました。
 ただ、その中には苛烈な男女格差や性差別も記されており、新疆と寧夏はその傾向が著しいとも書いてあったと記憶しています。

 寧夏は、元代の蒙古族系による西進にいち早く荷担した地域の一つとの記憶があります。荒涼とした砂漠と不毛の黄土高原、悠久の時を物も言わずただひたすら流れる濁した黄河。長江の濁した流れとは相違する荒涼感は、河川流域にあってなお、緑少なき風景によるものなのかもしれません。
 黄土高原を更に北上するとモンゴルの緑のある高原地帯と変わる不思議なコントラストそして黄河を境に南下すると見える鬱蒼とした緑、何故に黄河を境に水があるにも関わらず荒涼としているのかといつも疑問に思います。
 人がいた故に緑が失われたのかとも思いましたが、それは史書によると違うようで、古来より気候や風土の為せる技のようです。本当に不思議です。

 ちなみに紫の果物はナツメかなぁ~ナツメが食べたいとふと思いました(^^)

Re: 回族と文字…

回族は本来は外来民族ですが、混血により外見文化ともに漢族と区別しにくい部分かあるという話は聞きました。
だから今まで、いち旅行者の私にとっては回族のその特徴をうまくとらえられなかったんだって、少し納得しました。
寧夏はイスラムの地だから、建築も生活もやっぱりイスラムだと感じました。
でも標識ぐらいしかアラビア語ないし、なんだろうこの感じ、しっかりここは中国だ、そんな風に不思議な感覚になったのも回族が中国で生き残るために長い長い歴史を経て順応してきた結果なのかもしれません。

それで、少し誤解があったかもしれません。
回族がイスラムだけではない、というのは私の考えではないんです。
回族=ムスリムではない、と書いた部分かな…ふらふら状態で書いてるので私へんなことも書いてます。
ムスリムと回族は同義ではない、ということを書きたかったのかな、私は。
とにかく、そこはtoripagonさんと同意見です。
宗教、特にイスラムはアッラーが絶対神だから、信仰のことは一番(自分の生き死によりも)重要なはずです。
信仰は曲げないし捨てないだろうし、それを許さないと思うのです。
それにしてもイスラム教においてもともとは子女教育が否定されていたわけではない、という話は興味があります。意外でした。
女性蔑視に関しては耳をふさぎたくなる話も多いですが、この宗教において女性とは、男性とは、そういう部分は知識として知っておくべきだと思っています。
でも、私のわずかな旅行経験下でも、地域によってイスラム教の姿勢やあり方がだいぶ差があるのかな、と思っています。
女性に許された衣装なんかからも。
寧夏と新疆の雰囲気が全然ちがったので、この地域はそういう角度からもう少しじっくり見てみるのもおもしろいと思いました。

おっしゃるように気候風土地理の点からも、この地域すごく興味深いです。
私はごくごく一部しか今回見ていませんが、北と南、街と郊外とでは、気候風土が全然違うみたいですね。
草原の風景、砂漠の風景、枯れた風景、豊かな風景、険しい地質…とりあえず次回は、砂漠と黄河が一緒になった風景を見に行きたいと胸に誓っています!
プロフィール

まゆ

Author:まゆ
中国が大好き。お酒も大好き。
中国へ行く度に、スケールの大きさに圧倒されます。各地を旅行し街歩きし、体感したことを綴っていきます。

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