2016-10-13

銀川旅行二日目~その二~

三関口長城から、ふたたび頼りない防砂林が斜めに傾く一本道をまっすぐ戻って行くと、右手に小さな土塊が通り過ぎていった。
四角い形はひと目でそれとわかる、烽火台だった。
私の中国旅行はまるで烽火台をめぐる旅行のようだ。

そうして車を飛ばしていくと間もなく左手に、見えてきた。

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シャンさんは車を停めてくれたので、写真を撮る為に車を降りた。
ずっと向こうに、小さな土の山がふたつ並んで見えた。
「西夏王陵」
リーさんがそう教えてくれた。
本日、というか今回の旅行の一番の目的地だ。

西夏王陵。
賀蘭山脈東麓一帯に広がる、西夏の王墓群だ。
東西4㎞、南北10㎞の広大な範囲に、九つの王墓と、254座の陪葬墓が展開している。

九つの王墓がどのように配置されているのか、私は事前に知ってはいなかった。
ここからは遥か向こうまで見渡すことができたが、それでもこの2基しか現時点では認めることができなかった。
実を言えば、すでに私は西夏王陵を目撃している。
銀川市内から三関口長城へ向かう道は、この西夏王陵を横目にみたもので、さらに言えばこの2基も先ほど目撃したばかりだったのだ。
西夏王陵の横を走ってみて、その広大さはすでに体感済みだった。
その感覚から言うと、この2基はこれだけやけに離れたところにあるように思えた。
入場門はずっとずっと向こう。
車に乗ってもけっこうな距離だった。
この2基だけ外れにあるのに、それらは不自然なくらいぴったりくっついている。
思い当たることがあった。
「李元昊の爷爷(おじいさん)と爸爸(お父さん)でしょ?」
「そうだよ」

西夏は、二人の王と10人の皇帝によって治められた国だった。
もっとも有名で功績があったとされるのは、3代目李元昊。
李元昊が国号を大夏として建国し、皇帝を名乗った。
西夏3代目であり、初代皇帝である。
つまり、李元昊のおじいさんとお父さん、この二人の王と、李元昊以降10人の皇帝が存在したわけだ。
二つ離れてくっついているならば、この二人の王だろう、とそういう推測だった。
ちなみに、西夏は王含め12代にも亘るのにこの王陵には九つしか王墓がないのは、11代時にチンギス・カンの攻撃を受けたためだという。10代目、11代目、12代目の王墓はないのだ。

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この西夏王陵、とてもではないが歩いて回れる広さではない。
この離れた2基は、こうして遠目に見るだけになってしまうのかな、そう思い訊いてみた。
「あそこまでは行けないよね?」
「行けるよ、車に乗って行く」
集合時間を12時にしたのは、リーさんもシャンさんも、どれも離れていないから時間はかからない、そう繰り返し言ったからだった。
当初私は9時スタートを提案したが、それでは早いよということで最終的に12時に。
しかし、本当に大丈夫だろうか。
ここは新疆ではない。20時、21時になっても明るい場所ではない。
観光地はおおむね17時、18時には閉まる。

車はやがて、西夏王陵の入場門へ。
チケット代80元を支払い、シャンさんは車で待機、私とリーさんだけが入場する。
ここにはどうやら日本語の解説機があると聞いていた。耳に当てるタイプのだ。
リーさんは日本語の解説機を窓口に要求するが、窓口係は「ない」とのこと。
私は「必要ない」と言った。

いよいよの西夏王陵だったが、私にはそれほどの力が入っていなかった。
やる気がなかったわけではない、けっして。
忙しくて心の準備をしてくることができなかったのだ。
その準備の一つが、井上靖の小説「敦煌」だった。
かの小説、それからそれが原作となり日中共同で撮影された映画「敦煌」。
これらがなければ、この地に興味を持つ日本人が果たしてどれだけいただろうか。
西夏王陵を訪れる日本人の多く、もしかしてほとんどが、小説あるいは映画を見たことがあるはずだ。

タイトルは敦煌だが、この小説において西夏王国は最重要地だ。
時代は、北宋。
11世紀のことである。
当時の宋は、西はタングート族の西夏、北は契丹族の遼、東北は女真族の金に対して頭を悩ませていた。
そこで宋がとっていた外交政策とは、それら周辺諸国に歳幣を送ることで和平を保つという消極策だった。
小説「敦煌」の冒頭は、科挙の最終試験で主人公・趙行徳がこうした外交政策に対して持論を述べるところから始まる。
しかしそれは夢だった。
目覚めて科挙の試験を逃したことに気づいた行徳は、呆然自失して街をさまよう。
そうして、身売りにされた西夏の女と出会い、西夏文字というものを初めて目にする。
当時の宋は、西夏が独自の文字を持っていることすら知らなかった。
行徳は西夏文字に魅入られたかのように、西域へと呼ばれていく。
戦いの中に身を投じながら、やがて西夏に辿り着いた行徳は、西夏文字を学ぶのだ。
物語終盤やがて、行徳は敦煌にて仏典の翻訳編集という作業に身を捧げることになるが、時は戦乱、宋との戦いに敦煌は火に飲まれていく。
後世、敦煌郊外の仏教遺跡・莫高窟からある隠された空間が発見された。
その小さな隠し部屋からは、大量の文物が見つかった。
その存在から内容まですべてが未だに謎に包まれている。
小説「敦煌」は、その終盤でこのミステリーにひとつの答えを描いている。

私は戦乱ものがあまり得意ではない。
それなのに、李元昊という人物を知っているのはこの小説を読んだからだ。
では、このストーリーの中でどのように李元昊が登場し、どのように描かれていたのか。
実を言うと、覚えていないのだ。
この小説を読んだのは20歳くらいだった。
その後一度も読み返していない。
かろうじてただ今つらつら書いたようなあらすじが出てくるのみだ。
あと、強いて思い出してみれば。
主人公・趙行徳と愛し合ったウイグルの王女を奪ったのが李元昊だった。
しかし、結婚式の日、その王女は城壁から身を投げ自ら命を絶ち思いを全うするのだ。
李元昊は非常に有能で勇猛果敢な皇帝として書かれていたが、このようなストーリーからあまりいいイメージは残っていない。
悲劇の恋愛を引き立てるような、そんな存在だ。
こんな感じなので、西夏王陵へ行くならば、それまでに小説「敦煌」の再読は必須だった。
しかし出発を前にしてまだ1ページも開いてはいなかった。
では、前泊の居酒屋で。
では、行きの飛行機で。
そんなふうにして、すでに古びた文庫本を手に、とうとう1ページも開くことなくここまで来てしまった。
そういうわけでの、準備不足だったというわけだ。
しかしこれは、ストーリーによって作られたイメージではなく、まっさらな状態で歴史を感じなさいよ、とそういう何かの思し召しではないか。
そう都合よくとらえることにして、私は読み返すことを放棄した。

ここ西夏王陵の目玉はなんと言っても、李元昊の墓であることは間違いない。
しかし、私の本命は別にあった。
「西夏文字」である。
小説「敦煌」において、西夏文字は運命そのものだ。
西夏文字の存在は、宋が外交政策を見誤っていることを象徴しているし、漢人である趙行徳を西域に引き込む役割も持っていた。
中原の人間が想像しえない底知れぬ力を持った文字として、それはまた当時の世界観を表してもいる。

西夏文字は、西夏によって作り出された文字だ。
自然発生的に生まれたものではなく、創り出されたものである。
私は以前に本でそれを見たことがあったが、実物を見たことがなかった。当然ながら。
だから、現地でそれを見る機会を楽しみにしていた。
8月に訪れたクチャにも亀茲文字という古代文字が存在したが、数々の史跡をまわりながらもそれに出合うことはできなかった残念な思いがまだ残っていた。

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しかし、入場するまえから西夏文字だらけだった。
クチャの時とは大違いだ。
入場門に大きく書かれたこの4文字。
左から漢字に直すと、「大・白」、「高・国」となる。
大白高国。
これもまた西夏の国号だ。
西夏はタングート族の王国だった。
タングート族がこの地にやって来た時、この地に流れる黄河は黄色ではなく白く見えたのだという。
そこで、黄河を尊ぶ意味でこの国号が西夏国内で用いられた。

入場すると右手にすぐ博物館があった。
まずはここを見学するよう。
博物館の入り口には、ここもまた西夏文字でたぶん「西夏博物館」とかその辺りのことが書かれている。

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地面には一面に同じ記号のようなものが刻印されている。
記号に見えたこれも西夏文字で、李元昊の「昊」の字にあたるのだと、リーさんが教えてくれた。

博物館の展示は、これまた中国にある他の博物館と同じような展開だ。
初めからじっくり見ているようでは、肝心なところに辿り着いた時くたくたになってしまっているだろう。
そういうわけで、要所要所で解説を挟みながら時間をかけてまわるリーさんに対し、私は気楽に構えた。

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ということで、これがその肝心なところに辿り着いたところだ。
西夏文字の展示は多く、私を感動させた。
先ほどのはみな現代人の復刻だが、これはまさしく当時の西夏文字である。
これを見て、非常に複雑な文字であることがひと目でわかる。
複雑さ、これが西夏文字の一番の特徴だ。

当時、遼による契丹文字、金による女真文字と、独自の文字が各国で生み出されていた。
西夏文字は当初6000字ほどが制定されたと言うが、契丹文字や女真文字がいくども大幅な改編をされているのに対し、この6000字にはほとんど改定が加えられなかったという。
これは西夏文字の完成度の高さを意味する。
西夏文字の制定には、初代皇帝・李元昊が強く関わっていたとされる。
つまり、この西夏文字の完成度の高さもまた、彼の功績のひとつなのだ。

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このような木片も。
これは印刷版だ。
西夏はまた当時において高度の印刷技術を有していた。
ということは、この西夏文字は反転しているということだ。
複雑な西夏文字が鏡文字になっている。さらに複雑だ。

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西夏文字は漢字とはぜんぜん違う風貌をしていながら、どこか漢字に似ている。
そうした印象は間違ってはいない。
西夏文字は1字が1音節、そして一つの意味を持つ。
漢字と同じ形態をしている。

漢字と似ているのは、文字の成り立ちだ。
ここには文字の構造パターンがいくつか紹介されていた。

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そのひとつのパターン。
口 + 水 + 无 = 渴 (口の中に水がない=喉が渇く)
死 + 棺 + 地 = 墓 (死の棺の場所=墓)
膝 + 手 + 行 = 爬 (膝と手で行く=這い上る)
不 + 热 + 冷 = 温 (熱くも冷たくもない=温かい)

こんなふうに規則性があるので、例えば初めて見る西夏文字であっても、それを組み立てる部分の意味が分かれば推測することもできる。
解読が困難な古代文字が未だ残る中、西夏文字はけっこう解読されているのかな、と感じた。
西夏王陵にはこの博物館の題字初め、あらゆるところにこの西夏文字が演出されていて、対応する漢字もわかっているみたいだった。
それはこの文字がそれだけ優れたものだったということも伝えている。

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西夏の文化とは、タングート族文化、仏教文化、漢族文化の融合だと説明できる。
実は私は西夏の文化についてまったく知識を持ち合わせていないのだけど、なんとなくそういうイメージは持っている。
この博物館には、この地で発掘された遺物がたくさん展示されており、そうしたものからもそれは十分伝わってくるものだった。
とりわけ仏教関連の出土品が多かった。
螺髪見事な仏さまの顔だけ、というのもあったが、それらはどれもたいへん美しく、状態が素晴らしいとともにその芸術性も見事なものだった。
今まで様々な仏教史跡や出土品を見てきたが、ここに展示されたものがもっとも美しく感じられたのは私のひいき目が働いたのだろうか。

西夏と宋は当時微妙な関係にあったが、西夏はけっこう宋の文化を取り入れていた。
先ほどの西夏文字も、漢字の影響を受けて創り出されたものだし、ここには宋の古銭もたくさん展示されていた。
西夏には宋の貨幣が流通していたのだ。
文字にしろ、単位にしろ、建築にしろ、貨幣にしろ、一から新たにつくるのは困難なことだ。
国が生まれ、滅び、また生まれ。
そういうことをいくどもいくども繰り返してきた中国は、合理的だ。
たとえば北京入城しそこを清朝の王宮とした、満州族。
かれらは、満洲の文化を中原の民に強要することなく、自らが明文化を吸収した。
清がこの地で安定することができた、大きな要因だ。

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いくつかの美しい像が展示されていた。
妙音鳥(カラヴィンカ)ー鳥人像だ。
これらは、李元昊の墓だと推定されている3号基から出土したものなのだそう。

西夏を構成するタングート族は、もともと四川・青海のチベット系民族だったのが北上して寧夏周辺に移り住んだものだと言われている。
西夏語も、研究によればチベット・ビルマ語派に分類されるということで、やはりチベット方面に関係深い。
私には具体的な理解がないけども、こうした鳥人像なんかをみると、やっぱりあちら方面を思い浮かべる。チベットは鳥を神聖視するからだ。

中央には厳めしい半身像があった。
見ると、「元昊」の文字。
李元昊の半身像ということだが、私のイメージからあまりに離れすぎている。
ところでなぜ、この人物像には「姓」がないのか。
実は、李元昊として有名な元昊には姓が三つあった。
ひとつは、唐から賜った「李」。
もうひとつは、宋から賜った「趙」。
そしてもうひとつは、宋からの独立を宣言し皇帝を名乗ったあとに自ら名乗った「嵬名」。
この嵬名こそタングートの姓だ。
タングート族なのになぜ「李」だとか「趙」だとか漢族姓なのかという疑問はこういうわけなのだが、後世生き残った名字は漢族姓の「李」だった。

展示がおわりに近づくと、西夏王陵のミニチュア模型が展示されている。
夕暮れを迎える賀蘭山脈を背景に、荒涼とした大地に土塊と化した王墓遺跡が点在している。
これが、さっき見たおじいさんとお父さんのお墓。
一番左端に、二つくっついて並んでいる。
「一、二、三、四…」
数えてみた。
「七、八…」
数えてみると、八つしかない。ここには九つの王墓があるはずなのに。まるで七不思議のよう。
もう一度数えるが、やはり八つ。
「九つあるんだよね、そうして八つしかないの?」
リーさんに訊いてみると、
「九つ目は破壊されたからないんだ」 との答え。
この西夏王陵もまたそうした話から無縁ではない。

その横には、土塊と化した王陵の断面模型があった。

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こうなっているんだ!
階段が地下に降りて、その下には墓室がある。
「これは6号基だよ。来年、開放されるんだ」
リーさんがとんでもないことを言った。
「え!これ地下まで行けるの?」
「来年ね」
現在、観光できる王墓は、1号基、2号基、それから3号基。
それに6号基が加わるだけでなく、地下が開放されるのだという。
なんてことだ。
「来年また来なければならないよ」
そういうと、リーさんは笑ったが、私には笑いごとではなかった。
※もし訪れようという方は事前にご自身でご確認下さい。

私は少しそわそわし始めていた。
博物館でこんなにゆっくり時間を使い、未だ肝心の王陵区へは足を踏み入れていない。

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再び電動カートに乗りこんで、ようやく向こうに土塊が散らばる風景が広がった。
歩いて向かうも、まだずっと先。
その先にあるのは、3号基、李元昊の王墓だと推定されるものだ。
推定、というのには訳がある。
ここ西夏王陵には九つの王墓と254基もの陪葬墓があるが、その中で現在埋葬者が断定されているものはたった二つだけなのだ。
7号基(五代皇帝・李仁孝)と、182号陪葬墓、この二つだけだ。
他の王墓もほぼ断定されているような雰囲気だが、決定的な根拠とまではいっていないよう。
その為に、李元昊の墓というのも未だ推定の域を出ないのだという。

周囲は枯れたような大地が広がるのみ。
風が絶え間なく吹き続けていた。

遠く向こうに見える土の山が、王墓だ。
その周囲にも点々と土塊が残っている。
小さな塔の残骸のような形をしたものから、王墓を取り囲む塀の残骸まで、様々なかたちをした土塊が残っている。

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こちらは先ほどの博物館に展示されていた復元模型だ。
なにも当時からこのような土だったわけではない。
当時はこのように豪奢だった。
破壊に遭い盗掘に遭い、そして時の流れと共に風化していった。
復元図や模型を見てもなお、やはりこのような乾いた風景に当時の姿を想像することは難しい。
「900年以上前のものだよ」
リーさんはそう言った。
900年という歳月はやはり長すぎるものだ。
あと、どれくらいの年月、持ちこたえることができるだろう。
現代を生きる私たちが最後の証人になってしまうような気がしてならない。

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王墓に近づいて行くと、古い石のタイルが散らばっていた。
一つひとつには模様が刻まれている。
王墓の前にはかつて建物があったようだ。今では崩壊してその姿は見る影もない。

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このタイルの先には、王墓に向かってこんもりと盛り上がった「道」があった。
その道は盛り上がったまままっすぐ墓まで伸びている。
山になっているし、そこだけ草がいっさい生えていない。
この下には墓室へ続く地下階段があるそうだ。
そう考えると、ミステリアスな気がしてわくわくした。

昔見たことがあるこの3号基の写真には、ここに入り口が写っていた。
地下への扉が開いていたのだ。
その写真から、だいぶ時は流れた。
かつて開かれていた扉がその位置もわからないように埋められている。
この3号基の前にはモンゴル軍が掘り起こした穴があるのだという。
この盛り上がりは、その跡なのだろうか。
80年代頃までは、ここには美しい緑色の瑠璃瓦が残っていたのだという。
それが今ではわずかな欠片すら見つけることはできない。
そのすべては、観光客に持ち去られてしまった。
なんてひどい話だ、みんな自分のことしか考えてない。
そう思うけれど、もし私の目の前にたくさんの瓦片が散らばっていたら。
そうしてそれを咎める人が誰もいなかったら。
私もきっと拾ってしまうと思うのだ。

九つの王墓の中で、この3号基がもっとも規模が大きいのだそう。
本来であれば他の王墓もこの目で見て比べてみたいところだけど、現実的に観光客が見ることができるのは、1、2、3号基のみだ。
けれども見た様子、気力と根性と時間さえあれば、勝手にすたすた歩いていって他の王墓に近寄ることもできそうな気がした。
当然、電動カートはそこまで行かないし、歩道も整備されていないだろうから、気力があればという話になる。
けれども翻せば、そこまでして歩いていく人はいないだろうから、警備などもされていないと思うのだ。
次回一日かけてやってみようか。

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王墓の周囲はかつてぐるりと塀に囲まれていた。
今ではその一部分が残るのみだが、よく見ると当時の形状をよく残している部分もある。
レンガが積まれ、これが明らかに人の手により作られたものだということがひと目でわかる。

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この西夏王陵、写真で旅気分を伝えるのが難しい。
平面から見れば、寺院のような構成であるこの王陵も、辺りに土塊が点在するだけ。
主役の王墓も、こんなふうに三角錐のただの山だ。
とうとうこれが李元昊の(と推定される)墓だ!と興奮して何枚も写真を撮るも、どれもただの土の山がでんと写っているだけになってしまう。
もともとは復元模型に見たような、八角形の美しい建物だったという。
それが今では色彩のかけらもないが、東方のピラミッドなんてミステリアスな呼称もあるそう。
ちょっと大きさが比較にならなけど、単に形のことだけを言っているのではないと思う。
9人もの王と皇帝が眠るなんて、やっぱり歴史のミステリーにこじつけたくなる。

この西夏王陵、発見は1970年代初め。
なんと、偶然に発見されたのだと言う。
これだけの規模がありながら、そして辺り一面開けて邪魔するものがない地理にありながら、近年まで認識されていなかった。
そしてその発見も、偶然だったとは。
これだから中国は冒険心をくすぐるのだ。

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出口に向かいながら、左右に散らばる遺跡を遠目にみた。
かなりの広さがあるので、3号基一つといえども、それらをゆっくり周っている時間はなかった。
その中で、平らな台座を見た。
生い茂る草の中に、人の足に踏まれて出来上がったけもの道のようなものがあり、そこを歩いて行く。
この台座が何か、ゆっくり見てこなかったが、祭祀台か何かだろうか。
昨日の地壇を思い出した。

リーさんが携帯でシャンさんと話している。
「もう4時だから」
そんなことを言っている。
電話を切ったあと、リーさんは私に言った。
「もう4時だから、あっち(1号基・2号基)には行けない」
どの道、ここと同じようなものだから。そうも付け加えた。
…やっぱり。こうなるような気がしたんだ。
だから、私は9時には出発したかったのだ。
けれども、私もすでに1号基、2号基にこだわってはいなかった。
なぜなら、このあとにはまだ観光したい場所が二カ所も待っていたし、時間をみて黄河へ連れて行ってくれるとういうのにもまだ期待したかった。
「OK、急いで行こう」
私は即答した。

ちなみに参考の為に、各王墓に祀られた王、皇帝の詳細は以下の通り。

1号陵ー裕陵、太祖・李継遷 崩御41歳、在位14年
2号陵ー嘉陵、太宗・李徳明 崩御51歳、在位28年
3号陵ー泰陵、初代・李元昊 崩御46歳、在位10年
4号陵ー安陵、二代・李諒祚 崩御21歳、在位20年
5号陵ー献陵、三代・李秉常 崩御26歳、在位20年
6号陵ー顕陵、四代・李乾順 崩御57歳、在位54年
7号陵ー寿陵、五代・李仁孝 崩御70歳、在位55年
8号陵ー庄陵、六代・李純祐 崩御30歳、在位14年
9号陵ー康陵、七代・李安全 崩御42歳、在位6年
  ※埋葬者が確定しているのは7号陵のみ。他は推定。
  ※9号陵は現在失われている。

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入場門を出ると、外には地面にお土産を広げている物売りが並んでいる。
この砂漠のバラ、敦煌にも売っていたな。
「沙漠的玫瑰」
おじさんはそう言った。-砂漠のバラ。
中国語でも同じふうに言うんだ。
印鑑を作る人もいて、どうやら西夏文字を彫ってくれるような雰囲気だった。
これは今でもすごく後悔している。
街中にも西夏文字の印鑑は見かけなかったので、記念にぜひとも持ち帰りたかった。
けれども、なにせ時間がなかった。

リーさんもシャンさんも、行く先々で声をかけられては親し気にみなと話をした。
ガイドに運転手。
観光業界でみな顔見知りのようだ。
少し歩けば挨拶し、そんな感じだった。
その度に私にも声をかけてくれて、中国人でないとわかると、そして一人で日本から旅行にやってきたのだと知ると、みな一様に驚いた。

銀川において観光業は依存した収入源のようだった。
街中にはあちこちに旅行会社があった。
昨日友達になったヤンさんも、旅行会社勤務だった。
今回時間がなかったが、銀川周辺には見所がかなり多い。
ガイドブックやインターネットなど日本語の情報源に頼ると情報はかなり少ないが、中国サイトで調べたり、また実際に訪れて調べてみれば、もう2~3回訪れたくなるほど見所がある。
周辺といっても数百㎞圏内の話だけれど。
さらに言えば、見所かどうかはそれを感じる人にもよるけれど。
でも、少なくとも銀川を訪れる観光客は多いようだった。

「外国人観光客は多い?」
リーさんに訊いてみた。
「没有」
大きく首を振って、リーさんは答えた。
少ない、ではなくて「いない」。
どうやら観光客のほとんどが国内のもののよう。
西夏王陵内にある「乗り越え禁止」の看板。
中国語の下に、アラビア語と蒙古語と、それから英語のルビがあったが、日本語のルビはなかった。
欧米人がいないのはわかる。
場所も歴史もマニアックだし、わざわざ北京からここに来る欧米人もいないだろう。
けれど、日本人は別だ。
小説「敦煌」やその映画に感化された日本人は少なくないだろう。
西夏の歴史に対しても、欧米人よりは知名度があるだろう。
「敦煌というある小説があって、それでここを知る日本人は少なくないよ」
リーさんは映画・敦煌を知らないと言った。
どう説明していいかわからず、考えながら言葉を選んで話してみてもやっぱり壊れた中国語になってしまった。
自分でもこれじゃ伝わらないなと思いつつ、リーさんを伺ってみると、
「…」
井上靖という小説家とあの映画が、少なくない日本人をこの地にいざなう。あるいは誘惑する。
外国人はほとんど訪れないというこの地に。
銀川の人たちにはぜひそのことを知ってもらいたい。
もし仮に現代にご存命ならば、即、銀川観光大使に決定間違いない。


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本稿は最高(^^)

う~ん、素晴らしい史観を持っています(^^) 決して上から目線ではなく小説「敦煌」から、ここまで推察できる洞察力に感心するとともに二十歳でこれを読んで無意識下でそれを検証している故に中国への思いが尽きぬのでは、一人妙な納得をしてしまいました。

僕は、子供の頃ありがちな中国三大奇書の三国志、水滸伝が中国の史書への門戸を開きます。その後、十八史略を経て史記に辿り着き何度も読み返す内に春秋時代に想いを寄せる様になります。今思えば、古代地図も知らず読めぬ漢字をどの様に読み解していたか思い出すこともできません(^^)二十代は陽明学を読み解くために四書五経を読み孔子に至り、その路線から老子や荘子果ては孫子二代に至ります。
 その過程で秦代以前の篆書と呼ばれる漢字に惹かれ結局、中国創世記の神話まで読み繋ぎます。僕は春秋戦国、秦、前後漢少し飛ばして!?元、また飛ばして明、清、現代史へと繋がります。明は清への移行期を台湾史を紐解く過程で知ります。清は末期から現代までの過程だけです。春秋戦国期から秦は史書で何度も読んでは関連する書籍を乱読しました。けど前後漢は立国期と末期の三国志程度の知識なので本当はもの凄く偏っています。

 まゆさんの敦煌での史観は遡れば紀元後200年から1200年と一気に19世紀末から20世紀に繋がります。僕はそれより古い紀元前2、300年から起源後100年位の史観がベ-スとなって現代中国を観ているようです。
 ただ、少なくともその俯瞰する観点は単なる物見遊山とは違うのは何故なんだろうとの思いが今回の内容で氷解しました。実はタイトルの副題を初めて観たとき少し複雑な思いがありました。
 しかしながら、その意が過去と現在の中国にあるとすれば納得できます。僕の中国を見る思いのご存じの通り複雑です。嫌いじゃないけど好きとも言えぬ現状はストレスの多い事です。が、本当を言えば中国はは日本の先達であり師であるのが歴史が証明しています。しかしながら昨今の日中を考えると愛憎相まみえ全てを亡失させかねぬ悪感情が湧き起こります。
 その感情を押し止めているのは、老婆であり娘の存在です。日々、色々な場面で中国の醜聞を耳に目にしないことはありません。家内が中国人であると言っただけで態度が変わる人もいます。僕に対する態度は良しとしても老婆や今後、娘が学校へ行くようになる時分の事を考えると決して心穏やかではいられません。

 最近、思うのは好き嫌いの別に正しく相手を知る努力と発信をする必要性です。それが彼女達を守る術になるのではとはすら考えています。月曜日に中国関係の講師として出かけますが、テ-マは「市井に生きる中国と中国人」としました。
 誤解無き中国を知り発信する日本人は多くありません。多くの人は利害の上で中国を語り、中国人も同様です。まゆさんの根底ある中国感の一部を知ることができ、より素直に記事を読める様になった気がして一人喜んでいます。
 誤解なき中国そして本当は大好きな中国と皆に公言し、受けいられる両国間になる事を僕は切に願うのです…(^^) ごめんなさい、話がまとまりませんでした…

今回の記事…(^^)

 取りあえずこれ以降も斜め読みしました。なんか、今回の記事凄く良くて、知らない事が掲載されていて明日以降にゆっくりと読ませて頂きます。岩絵と師夫のやりとりをきちんと読んでコメ入れます(^^)♪

追伸 寝不足は絶対に身体によくありません。適度な休み飲酒を心がけないと四十を過ぎてから大変な目に遭うことがあります。経験者が言うので間違いありません…(^^)

Re: 本稿は最高(^^)

toripagonさん、難しいです(>_<)
す、すごい!中国の教養という教養を網羅されてるんですね!
それらが好きか嫌いか、おもしろいかそうでないかは別として、教養として読むべきだというのはわかるんですが、たぶん一生読めないと思います。難しいです。
もともと戦国系は肌に合わないんです。だから、小説とかを読んでおもしろいなとは思うのですが、すぐ抜けちゃうんです。難しくて。
だから、私は中国の古典・歴史は本当に理解してないです。
たまたま知ってる部分、読んだことがある部分を、記事に取り入れることがあるだけです。
中国のこと偉そうに言えないよなって自分でいつも思います。
私の情報源は、小説とか紀行文とかそういうところで、ここ数年は本を読むことすらできていないので、知識は増えることはなく失われてくばかりです。
ただ、知識と歴史観はまた別の話だと思うので、そうおしゃってもらえたことは素直に嬉しいです。
言われてみれば、中国の歴史は長くエリアも広いから、いつの何をベースに中国観ができあがってるのかって、大きな問題かもしれないですね。
そしてさらに、好き嫌いと、知る知らないは、十字のように交差しているような気がします。
違う話だけど、そこって重なりますよね。
嫌いな部分はあるけど知りたい、知る努力をしなきゃって、やっぱり根底には深い思いがあるのではないかと思います。
問題なのは、知らないのに知らないということを横に避けて、ののしること。
中国の反日だけがそうじゃなくて、私たち日本人にもそういう部分あるなって思います。
理解できなくても、人と人の話だったら、少しは歩み寄ることができるのではないかと思うんです。
私も話がまとまらなくなってきました…(^^;)

Re: 今回の記事…(^^)

ありがとうございます、嬉しいです(^_^)
アドバイスいただいておいて、今日も色々やっていたら深夜でした。
適度に休み、適度に飲酒、ですね。大変な目に遭わないように、気を付けます…!

ところで、講演の日にちを勘違いしていました。いよいよ次の月曜日なんですね、がんばって下さい!!

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まゆ

Author:まゆ
中国が大好き。お酒も大好き。
中国へ行く度に、スケールの大きさに圧倒されます。各地を旅行し街歩きし、体感したことを綴っていきます。

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