2017-07-28

重慶旅行二日目~その三~

張学良と楊虎城の展示室から出て、石階段を降り始めた。
どこもかしこも暑くて、たぶん積み重なった寝不足も重なり、正直ばてていた。

ここは、共産党にとって原点ともいえる場所だ。
国共が対立し、また抗日の為に停戦し、また内戦を再開し、そうして勝ち抜いた。
先ほどの白公館を訪れて感じたように、国民党と共産党の対立は、まさしく戦争だった。
それを停戦し協力体制をとることになったのは、さらなる共通の敵がいたからだ。
その敵とはもちろんいうまでもなく、日本である。
国共合作は、そのまま、それだけ日本への抗いの強さを表している。
つまり、内戦の歴史を目にするということは、同時に抗日の歴史を見ているのと同義である。
ここ重慶には、国共内戦の歴史、国共合作の歴史、そして抗日の歴史がある。
そのため、抗日の歴史資料も合わせて多く展示されている。

階段を下りながら思った。今ここでは日本人だと知られたくないな。
話しかけられれば、返す言葉で外国人だとわかってしまうが、韓国人だと言うのも自信がなかった。
そう思っていると、
「あと、どれくらいかかる?」
息を切らしながら苦しそうな顔をして登ってきた男性が聞いてきた。
「1、2分」
私は短く答え、「すぐ着くよ」と加えた。
「ありがとう」
男性は、気にすることなくまた、息を切らしながら登って行った。

白公館の前の停車場に出た。
ここからもう一つの監獄遺跡、渣滓洞へ向かいたいが、乗るべきバスがわからない。
到着時に景区内を移動するバスのチケットを買ったが、どれがそれなのかわからないのだ。
なぜなら、停車場は混雑を極め、さまざまなバスが行きかっていた。
乗り場は用意されていたが、もはや意味をなしていないようだった。
通りがかるバスに訊いてみるが、どれも違う。
結果、紫色のけっこう立派なのがそうだった。
「渣滓洞へ行く?」
「行くよ、チケット買った?」
支払い時もらった丸いシールを見せ、乗車。

バスの中はキンキンに冷房が効いていて、疲れた体は一気に癒された。
山間を進むバスの中で、気づけばうとうと。

渣滓洞に到着したのは、もうすぐ16時になろうとしている頃だった。
予定より時間が押している。
ワン・ヤンに途中経過を連絡すると、
「今まだそこなら、帰りは遅くなるね。ちょっと用に出るから、火鍋に行くのは明日にしようか」
そういうことになった。

旅行出発前に、私は彼女にだいたいの観光ルートを伝えていた。
「共産党の歴史、あなたほんとに見たいの?」
彼女は私にそう言い、博物館などおすすめはたくさんあるよ、とも言った。
私自身、時間がもう数日でもあれば、足を延ばしたいところはいくらでもあった。
しかし初めて重慶を訪れるならば、やはりまずこういった場所に足を運んでみたかったのだ。

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渣滓洞の入り口をくぐり道なりに進んでいくと、やがて鬱蒼とした木々の中に古い建物を見つけた。
先ほどの白公館といい山の中に隠れるように存在するのは、それが監獄だとか機密情報機関だとか、そういう特性上だ。

1943年、白公館が中美合作所第三招待所として看守所としての役割を失ったのち、その収容人を移す先としてこの場所が選ばれた。
1946年、中美合作所解散後は、白公館と合併しその分所に。監獄としての役割を分かつことになる。

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渣滓洞の入り口すぐ前の木には、このような錆びた鐘が釣り下がっている。
異常がなければ一時間に一度、この鐘をならし、異常なしを伝えたのだそう。

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内部に入って、左手に見える平家は拷問室。
正面に見える少し大きな建物は、女性用の牢獄だ。

女性用の牢獄には、壁面に文字が書かれている。

長官看不到 想不到 聴不到 做不到的
我們要替長官 看到 想到 聴到 做到

長官が見えないこと、思いつかないこと、聞こえないこと、できないことは
我々が替わりに、見て、思いついて、聞いて、やろう

去年の2月だったか、北京の友人に勧められてドラマ「暗算」をネット上から見てみた。
「暗算」は、国共内戦時の情報戦を舞台にしたドラマで、おもしろくてすぐに夢中になったが、前半である登場人物が死んでしまったのを機に見るのを中断して、その後続きを見るきっかけを失ってしまったままだった。
だから前半しか見ていないけれど、それでも当時の緊張状態がよく伝わってきた。
あれは共産党側が主人公だったのでもちろん共産党目線で国民党は敵だったが、けっして必要以上に脚色している感じではなかった。
なぜならそれは、共産党を正当化するために作られたドラマではなく、ひとつの時代、それぞれの正義のために戦った人たち一人ひとりの生きざまを描いた作品だったからだ。
彼らは、目的を共有し、生死を共にしていた。
集団やその理念を優先し、個々はそのための手足だということを理解していた。
共産党と国民党の違いはあるけれども、壁に書かれた理念や信条を目にして、私はこのドラマの空気感を思い出した。
今度、後半を見てみよう、と思った。

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これは左手の拷問部屋。
先ほどの白公館の拷問洞窟にあったのと同じような拷問器具が並ぶ。

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望んでなんかいないのに怪我や病気に襲われることがある。
人の力ではどうしようもなく奪われていく命や、抵抗できない自然界のルールがある。
それなのに、人の力で人の意志で、意図的に同じ人の体を傷つけ精神を痛めつけ、命を奪うこと、その愚かさ。
痛めつける方も、される方も、親がいるだろう、子供もいるかもしれない、そして楽しければ笑い、悲しければ泣き、食べ物をおいしいと感じ、眠ることを心地いいと思う。そして誰しもが最初は、無垢なこどもだった。
それなのにこれらは、間違いなく実際に起きた事柄なのだ。

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拷問部屋に隣接しているのは、牢獄。
二つの女牢と、十六の男牢の建物がある。

一つひとつの部屋の前には、金属板がかけられていた。

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こちらは女牢のひとつ。
16名の囚人の名前が、生没年とともに記されている。
見てわかるように、すべて1949年に没している。
年齢もみな若く、20~30歳で亡くなった人が多くて驚く。


1949年10月1日、中華人民共和国が成立し、共産党の勝利と国民党の実質的敗北が決定した。
その一報が伝えられたあと、獄中の共産党員たちは狂喜し新時代を心待ちにしていたという。この時つくられ床下に隠された五星紅旗が残っている。
しかし同年11月27日、人民解放軍による重慶解放前夜、国民党の逃亡に合わせ大量処刑が実行され、その数200人以上、囚人のほとんどが殺害される凄惨な現場と化した。
これは先ほどの白公館も同様である。
1949年9月に始まり11月29日に終息したこの大量処刑は歌楽山大殺戮と呼ばれ、虐殺されたのは300余人にも上った。

女牢のなかに、床にガラスを埋め込んで床の内部がみえるように展示がしてある部分があった。
説明書きによると、2007年にこの辺り一帯は未曽有の大豪雨に見舞われ、これら監獄遺跡も大きな被害を受けたのだという。
その修復のさいに、女牢の床下からいくつかの工具が発見された。
それは脱獄を図ろうと彼らが準備し床下に隠していたものだと推定されているのだそう。

牢獄横手の床には、地下に降りて建物の裏手にまわることができる通路があり、進んでみた。

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裏手にあったのは、炭鉱跡。
ここ渣滓洞はもともと、1920年炭鉱として利用され始めた場所で、周囲を山に囲まれた地形から国民政府軍当局の目に留まり、看守所が建設されることとなった。
この炭鉱跡もまた、2007年の豪雨による被害により偶然発見されたのだという。

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こちらは男牢。
一つひとつはこうして展示物がかけられ、展示室になっている。
右手に見えるのはベッドだ。

これらの部屋の入り口には、それぞれそこに収容されていた人の名前と生没年が同様にかけられている。
私はそのすべてを確認したわけではないが、見たものはすべて1949年に亡くなっている人たちだった。
年齢の若い人が多く、中には10代も。

ほとんどが抵抗かなわず殺害されたが、中には生存者もいた。
なんと子供ふくめ15人が、銃が乱打される中を逃げ切ったのだという。

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これは男牢横で渣滓洞最奥の壁で、当時逃亡したさいの穴を示し、逃生墙の名がつけられている。
ある日連日の雨により破壊された壁を囚人たちに修復させた際、彼らはコンクリートに衣服の綿を混ぜて意図的に脆弱に修復した。
その後また雨により壁は壊れたが、共産党の優勢に国民党側は常態ではなく、その壁をもう一度修復する余裕がなかった。
11月27日、大量処刑が決行されたとき、逃れた囚人たちはまっさきにこの壊れかけた壁をめざし、叩き壊し、逃亡しようとした。
そのうちの数名はそれでも被害にあってしまったが、15人は生き逃れることができた。

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渣滓洞を抜け、その裏手にまわった。

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建物が複雑な配置、作りになっていて、周囲には高い壁と鉄条網でおおわれているのがよくわかる。


勝てば聖戦、負ければ殺りくになる。
多くの生命がまた別の多くの生命を奪った、その事実は同じであっても。
とはいえ、すでに敗北が決定している状況下で大量処刑が行われたこと、またその内容は非人間的であるとしかいえず、簡単な言葉で片付けていい問題ではない。
けれども、そこに至るまでの過程には、少なくともそれぞれにはそれぞれの正義があったと私は想像したい。
しかしその正義の中で人間性を失うものが現れたりそうした状況が生まれ得るのは、どの国いつの時代も、人間である限り、同じだ。
同じ人間としての罪なのだと思う。
だからたとえば小説だとかで、この歴史を共産党ではなく国民党目線で描いてみるものがあってもいいと思うのだ。
それは歴史の正当性を証明するためのものではない、人間であることを証明するためのストーリーだ。しかし現代中国はそれを許さない。
正義という概念は、少なからず対立者が存在することを前提としている。
当時共産党にとっては国民党を否定すること、国民党の党員でないことがひとつ正義の証明だった。
正義とはある意味永遠に終わらない戦争だ。
あらゆる争いはそもそもみなそうではなかっただろうか。


渣滓洞を出てふたたびあの紫色の景区バスに乗り、白公館に戻った。
白公館はすでに閉まっていた。
急いで回ってきたが、それでもぎりぎり見ることができた。
また210路のバスで戻ろうかと思ったが、ちょうど磁器口行きのT003路のバスが到着したところだったので飛び乗った。

磁器口から地下鉄1号線に乗って15駅先の小什字駅まで。
これから、渝州半島の先っぽ、「朝天門」へ。
そこから、長江と嘉陵江が合流するのを目の前で見たい。
公式HPから印刷してきた重慶地下鉄の路線図を見てみると、1号線の終点はこの小什字駅。
ところが、窓口で切符(といっても磁気カード)を購入しようとすると、この小什字駅の先に朝天門碼頭というのがある。
朝天門の先っぽに行きたいのだからこの駅だろうとは思うが、わざわざ「朝天門に行きたいならここ」と小什字駅に注意書きが貼ってある。
疑問に思いながらも、どうせ金額は一緒だからと、
「小什字駅まで」

広がる大海のような大河に挟まれた埠頭、に出るかと思いきや、小什字駅から地上に上がってみるとそこは高層ビルが林立する都会風景だった。
方向もわからない。
長江、嘉陵江がそれぞれどちらなのかどころか、どちらが半島の先っぽでどちらが根元側なのかもわからない。
渝州半島はじつはそう大きくなく、特に長江側ー嘉陵江間は、徒歩で行き来できるほどの幅しかない。
それなのに、その狭いエリアに建物が密集し、ビルに囲まれながら、方向感覚が狂う。
空は狭い。
中国の地理は、基本××東路、◎◎南路、などと大通りが東西に、または南北に交差し、大きな縦横の通りを把握しておけばなんとかなることも多いし、最低限の位置関係を知ることができる。
ところがこの重慶。
初日に感じたように、道路までが丸みを帯びている。
くねくねとカーブを描いた道がまた、カーブを描いた道と交差し、わけがわからなくなる。
では、太陽を見つけ方角を知ろう。
しかし背の高いビルに囲まれて、太陽がどこにあるのかもわからない。

そんなわけで、ちょっと今までとは違う感覚で道に迷う私なのだったが、突然開けた場所にでた。

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巨大な橋が、半島から対岸に伸びている。
東水門大橋、全長962mと書かれている。

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振り返れば、生えるようにのびた建物。
ここに写る建物はみな、それぞれ違う高さに建ったものである。
今回旅行してみて、私の重慶のイメージはまさしくこれ。
重慶といっても広い範囲だけれど、経済的中枢はこの渝州半島だ。
この半島、まるでひとつの山。
山ひとつの島。
この半島には平地というものがほとんどない。
道はいつも起伏を持っていて、こっち側からあっち側に行くとき上り下りする階段は、けっこうな傾斜を持っている。
そんな小さな山に大都会のビル群が密集しているのだから、なかなか奇観だ。
重慶は、「山城」の別名を持つ。
その由来である。

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東水門大橋から見下ろしてみると、下にも道路が通っている。
あそこに見えるのは朝天門トンネルだ。
この山を長江から嘉陵江に突っ切る。
ビル群の下を通るトンネルだ。

ここに出て道路標識があり、進むべき方向がわかった。
私は今、長江を背にしている。
右が朝天門。
左がホテルのある解放碑方面。

自信をもって右へ進んでいくと、
「エクスキューズミー」
突然、三人組の男性から声をかけられた。
中国人に見えるが、英語で声をかけてきたということは私が外国人だとわかったのか?
なんでだろう?
彼らはスマホの画面を見せてきて、そこに行きたいのだという。
見てみると、
「洪崖洞」の文字。それ以外はハングルだ。
韓国人観光客だったんだ。
私も今、迷いに迷っていたばかり。
彼らもこの重慶の魔にはまったのだろう。
彼らは私を重慶人だと思ったのかもしれないけど、私も外国人。
今方角がわかったので洪崖洞はわかるが、斜面とカーブが多いこの場所で、どの道を行けばダイレクトにそこにたどり着けるのかは私もわからない。
「あっち!今、ここ。だから、あっち!」
地図を見せて現在地を指し、そして山の向こう側を指さした。
方角はあっている。
三人組は明るい表情になり、そちらを目指して歩き始めた。
けれど、辿り着かないだろうな、と申し訳ない気持ちになった。

やがて私も朝天門付近に来た。
そこは一帯大工事中で、その近くには朝天門駅があった。
ここをまっすぐ進めば長江と嘉陵江の合流点なはずなのに、一帯は封鎖されている。
「2016年8月より朝天門駅の建設に伴い通行止め」
そんな看板が立てられていた。
だから、私が持つ地下鉄路線図には朝天門駅はなく、地下鉄の路線図にも小什字で下車するよう注意書きがあったんだ。
ここら一帯は大規模開発中のようで、来年再来年には大きく様変わりするんだろうと思う。

まっすぐ進むことができないので、もう一度長江側に出てみることにした。
右を見れば、階段。

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この傾斜があちこちにあるので、年配の人がここらを歩いて観光するのはたいへんかなと思った。
加えてきつい暑さと湿度。
もう服は汗でぐしゃぐしゃだ。
今すぐシャワーを浴びたい。

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やがて朝天門ターミナル?というのか、そういう場所に出た。
ここを向こうに歩いていけば、もうそこは渝州半島の先っぽだ。
あちらこちらで、観光の勧誘をする人。
無料の地図を配るおばあちゃん。
左側は建設中のどでかいビルがどかんどかんとみっつよっつ。

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長江には、クルーズ船が幾艘も停泊し、お客を待ち受けていた。

ここには大きく分けて二つのクルーズがある。
まず一つは、両江クルーズ。
この半島を挟む、長江と嘉陵江を遊覧し、渝州半島の夜景を楽しむもの。
もう一つは、三峡クルーズ。
長江流域の三つの峡谷を4~7日間かけて客船で遊覧するもので、国内外から観光客を呼ぶ目玉となっている。
重慶では、そこかしこでこの二つのクルーズを勧誘しているので、三峡クルーズとまではいかなくても、両江クルーズは気軽に参加してみるのもいいかもしれない。

やがて、朝天門に到着した。

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ここが半島の先っぽ、長江と嘉陵江が交わる地点だ。

「朝天門」は、その名の通り、もともとは門だった。
重慶に17座あった城門のうち最大のもので、重慶の地方官吏が皇帝の聖旨を受けた場所だ。
今ではこのように門の面影すらないが、門があったのだ。
一番最初は314年に建設され、1927年に取り壊しのうえ再建されたが、1949年に大火に遭い失われた。
歴史上都が置かれた洛陽、長安、開封、燕京(現在の北京)から四川方面へ向かうのにもっとも適していたのが水路だった。
その水路は長江上でここ重慶を通過し、そのためこのような場所に皇帝の聖旨を受ける門ができたのだった。

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こちらは半島の先っぽから両江の合流点を見て。
両江三地、というのだそう。
ふたつの河に、みっつの地。

とうとうと流れる大河のうえを、豪奢な船に乗せられて天子様がお越しになる。
これ以上ない演出となっただろう。

左手に流れる嘉陵江、本来はきれいな緑色をしているのだそう。
一報、右手に流れる長江は、濁った黄土色。
天気のいい日には、このふたつの色の異なる大河が交わる様子がはっきりと見てとれるのだという。
それを楽しみにしていたけれど、すでに18時半。
西日が照り付けて水面はまぶしく反射し、色を失いもともとの色合いはまったくわからない。

この朝天門、ここからの眺めもいいけれど、反対にこちら側もなかなか眺めがいい。
それには対岸に行かなければならない。

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色合いは派手に脚色されているけれど、これは朝天門駅にあった工事完成後の予想図。
渝州半島の先っぽで胸を張っている数棟が、現在建設中のもの。
私は今、そこにいる。
けれど、実際にこのあと重慶の夜景を目にした私の感想としては、この完成予想図はオーバーではない。
むしろ、実物はこの絵よりも美しいと思う。


重慶ー中国にある四つの直轄市のひとつで、長江上流、四川盆地に位置する工業都市。
長江の水運はいにしえからこの地に繁栄をもたらしてきた。
現在も国際コンテナ港湾として大きな発展を続けている。
内陸にありながらも、国際的な港湾。

飛行機での移動は距離感位置感覚を鈍くさせる。
忘れそうになるが、私は今けっこうな内陸にいるのだ。
けれども、ここにこうしていると、なんだかそんな気がしない。
あたかも大海を目の前にしているようで、あたかもひとつの島のうえにいるかのようで。
巨大な力に身を任せる。

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これは半島の先っぽから反対側の嘉陵江側にまわったところ。
あの大きな橋のすぐ向こうに、先ほど韓国人観光客が向かおうとしていた「洪崖洞」がある。
彼らは無事にたどり着けただろうか。
洪崖洞は重慶きっての観光地だ。
伝統的な建築様式が立ち並んだエリアで、
「夜に行くと雰囲気がいいよ」 と、先ほど微信でタンさんも言っていた。
私もぜひ行きたいと思っていたけれど、今日は諦めることにした。

こちら側から向こうへ道は通っておらず、途中で引き返すことになった。
ふたたび朝天門に向かってきた長江側の道にでて、そこからタクシーで解放碑へ。

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ホテルの部屋は景観があまりよくなかったが、正面に高いビルがあり、くるくるとビジョンを変えた。
ああ、大都会だな、と思った。
大都会だけれど、この「島」はとても小さい。
小さなところに、ビルやら人の生活やらがぎっしり密集している。
それはまるでひとつの箱庭のようだ。
私はその箱庭を覗きにきて、気づかぬ間にその一部になっていた。

タンさんに連絡を入れてみた。
「もうご飯食べた?食べてないなら一緒に食べにいこう」
そう誘ってみると、「今、シンガポール人とマレーシア人の友達といるから、もう少し待てるなら行こう」と返ってきた。
タンさんは貿易関係の仕事をしているようだった。
やっぱりグローバルだ。
重慶って国際的だ。
しばらくして、電話がかかってきた。
「彼らも一緒に行っていい?彼らは火鍋が食べれないから火鍋じゃないけど、それでよければ」
火鍋を食べるために重慶に来たといっても過言ではないが、旅の縁はなにより大事なのでOKした。
15分後に迎えにきれくれるそうで、ホテルの前で待ち合わせることに。

15分後、タンさんは運転手さんの運転する車でホテルまできてくれた。
後部座席に乗ると、二人の男の子。
タンさんの子供で、7歳の子ともう少し大きい子。
とてもお行儀がよくてびっくりした。

車は、先ほど朝天門から洪崖洞の手前に見た大橋を通り、嘉陵江の向こうに渡った。
そこから見る黄昏時の重慶の夜景は、ため息がでるようだった。
徐々に深みを増していく空。
次から次へと灯りだすビルの明かり。

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到着したのはいくつかの飲食店が数店舗並ぶ閑静な場所。
その中でひとつの、こじんまりとしておしゃれな雰囲気のお店に入った。
このお店のオーナーはタンさんと馴染みのようで、タンさんはここの常連のようだった。
「もう少ししたら友達くるから」 彼はそういった。
しばらくして、若い女性がきて、またしばらくして二人の男性がやってきた。
女性はホーチン、中国人。
シンガポール人のトンさんは、50歳くらいかな。
マレーシア人のウェンさんは30代くらいだろうか。
彼ら二人は、このあとそのまま帰国するのだそうで、大きな荷物を抱えていた。

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頼んでくれた料理はどれもとてもおいしかった。
一番さいしょに来たのは、アサリを辛いスープで煮たものだった。
「おいしい?」
タンさんがうかがうように言うので、
「日本人もこれ好きだよ。こんなふうに辛いのはないけど」
「a sa ri」
トンさんが言った。アサリという日本語、どこで知ったんだろう。
この辛いスープのアサリ、おいしかった。
日本でも受けると思うのだけど。

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一番おいしいと思ったのは、これ。
ザリガニサイズのロブスターをおそろしいほどのみじん切りにんにくで味付けたもの。
ビニールの手袋をして、解体して食べる。とてもおいしかった。
中国ではザリガニを食べるので、ザリガニかもしれない。
「長江で獲れたものなの?」 と訊いてみると、タンさんは「多分そうだ」といった。

おいしい料理のお供は、いろんな種類の果実酒だった。
白酒とかビールを想像していたので、とても意外だった。
青梅のとか、バラのとか。
バラのお酒なんて初めて飲んだけど、甘すぎず軽すぎずとてもいい按配の風味だった。
シンガポールのトンさんはお酒を飲まないそうで、他の四人で飲む。
タンさんは気さくなお兄ちゃんといった感じで、終始明るく場をまとめてくれた。

ほろ酔いくらいでちょうどいいくらいにお酒が入り、場の雰囲気もよかった。
彼らは、仕事を通して知り合った友達なのだという。
シンガポール・トンさんとマレーシア・ウェンさんは、国は跨ぐが同じ企業に勤めるビジネスマンで、私は詳しくないけれど世界的な企業のようだった。
ホーチンもタンさんもバリバリ仕事に生きてる感じでかっこよくて、私は自分が情けなくなった。
この二人はおそらく私と年齢はそうかわらない。
大人の話になって、タンさんの子供ふたりはお店の奥に移動して我が家同然に楽しんでいる。

「四つの国が一緒にご飯食べてるね」
「国際的だな~」
誰とはなしにそう言いだした人がいて、みんなでそうだねと笑った。

シンガポール・トンさんもマレーシア・ウェンさんも中国語ペラペラだった。
どちらの国も中国人が多く暮らしていて、私が旅行したときにも中国語が通じた記憶がある。
私の語学力はとても低いが、けれどこうしてコミュニケーションに役立っているので、やっぱり何もないのとでは違うなと思う。
二人はペラペラだったが、それでも時々タンさんが「聞き取れない」と言うことがあった。
もちろん、彼らに限らず、中国人同士でもこれはぜんぜん珍しいことではない。
タンさんが「聞き取れない」と言って、何度繰り返しても通じなくても、なんにも気まずい空気は流れない。
だから、私のレベルならなおさら通じないのなんて当たり前なわけで、それなのに「听不懂」(聞いて理解できない)をおそれるなんておかしい話だ。
気持ちかな、と思う。
伝えたいという気持ちがあるならば、やっぱり伝えてみようとするべきで、それと伝わるかどうかは別問題だ。
言葉がただしくとも伝わらないことはあるだろうし、正しくなくとも伝えたい気持ちがあるなら、それでも不思議と伝わることもある。

ホーチンが電話のために長いこと席を外していたので、しばらく四人で話をしていた。
三人は私に名刺をくれた。
かれらは仕事の名刺だったが、私はプライベートの名刺を渡した。
三人とも名刺もかっこいい。
トンさんとウェンさんは、中国の名前とアルファベットの名前があった。
中国にも少数民族なんかは本来の発音に漢字をあてて中国の名前とするけれど、それとは少し違うような気がした。
二人の中国語の名前は、それだけ見れば中国人だと思う中国的名前だった。
けど、それはアルファベットの名前とちょっと一致しないような気がしたからだ。
シンガポールもマレーシアも華僑が多く暮らす国で、中国との関係も深い。
だからこのへんの事情はなにかありそうだけど、わからなかった。

みな私に気を遣って話題を振ってくれた。
「中国の何を見たくて旅行にくるの?」
歴史から、風景から、宗教から、風俗から、それから普通のこと、中国のあらゆる表情がみてみたい。
「旅行は縁だと思う。ここに来たのも縁、重慶にきてみなさんと出会えたのも縁」
なんで旅行にくるのかといえば、縁があったから、というのが正しいのかもしれない。
私たちは偶然でこうして向かい合って食事しているようなもの。
それがとてもかけがえのないものに感じる。

お店を出て、私たちはばらばらに車を呼んで帰った。
ホーチンは私のホテルと方向が同じなようで、同じ車に乗ることに。
最初に出発したのはマレーシア・ウェンさん。
「sa yo na ra」 ウェンさんはそう言って車に乗ったが、
ホーチンは「See you」と言い、私は「再見」と言った。

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ホーチンははきはきした口調で、
「次に来るときは必ず事前に教えてね、段取りととるから」 と言ってくれた。
ほんとうに温かい人たちだった。
その温かさを感じながら、知り合った人たちみんなと会うには四日では足りない、どうしよう?なんて真剣に悩む。
こころの中で再会を誓った帰り道。

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まゆ

Author:まゆ
中国が大好き。お酒も大好き。
中国へ行く度に、スケールの大きさに圧倒されます。各地を旅行し街歩きし、体感したことを綴っていきます。

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