2017-07-28

重慶旅行三日目~その二~

南方局の建物を出て奥に進もうとすると、建物の横に厨房があることに気づいた。
説明によると、南方局八路軍办事处には最も多い時で200人近くの人員が任務についていた。
彼らの三食分の食事を用意していた厨房である。
金銭的にも物資的にも厳しかった当時、指導者も一般の工作員も、ともに同じ食事をとったのだそう。

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こちらは南方局を振り返って。
グレーの壁が、飾り気ひとつない建物が、当時の厳しさを伝えているかのよう。
けれど私にとってはやっぱり、遠い遠い世界の話。

この厨房の先にはまるでどこかの避暑地のように、公園の散歩道のように、木々に囲まれた道がのび、分かれ、続いていた。
「毛沢東が散歩した道」 という看板。

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途中、饒国模の墓があった。
彼女は共産党にこの土地を提供し、のちに共産党員となった。
1960年、65歳の時に北京で病死し、のちにここに葬られた。

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引き続いて見えてきたのは、鉄柵に囲まれた井戸、それから階段を登った先には公墓。

南方局が紅岩嘴に移設してから、飲み水を含む生活用水のすべては、2、3㎞離れた嘉陵江まで取りに行かなければならず、それは大変な労力だった。
ある時党員が山中に泉を見つけたが、水量は乏しく水質もよくなかった。
のちにこの場所に井戸を掘り当てることができて、それらの問題を解決することができたのだそう。
毒を入れられることを防ぐため、使わないときには木の蓋をしたというが、木の蓋で大丈夫だったのかな、なんて思った。
と同時に、今はほんとうに平和でそして快適な時代だな~なんて実感する。

道案内によると、この近くに防空洞があると書いてあった。
標識に従い近くの斜面を登っていくと、それは封鎖されていた。

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ビニールテープが張られ、入り口はブルーシートでふさがれている。
ふさがれているが、なんだかひらひらと揺れている。
わずかにめくれた隙間に、「覗いてみよう」という誘惑。
おそるおそるシートをめくってみると…。
なんと目の前にはベッドに横たわる親父と、飲み物や調味料などの生活用品がびっしりのったテーブル。
その狭い洞窟はまるで親父の生活空間のようだった。
生活して1年や2年ではないな、という安定ぶり。
ベッドと台所兼ねたテーブルで、空間は埋められている。
ひらひら揺らめいていたのは、扇風機の風だったのだ。

私はとても驚いて、慌ててシートを戻した。
まさか防空壕に親父が生活しているとは思わない。
扇風機が回っていたということは、まさか電気まで通っているのか?
もう一度シートをめくる勇気がなく、元来た道を戻ろうとすると、中から親父が出てきて
「ちょっと見ていきなよ」 と言う。
いいの?
親父の許可がおりたので、安心してシートの中に。
ベッドと台所兼テーブルの隙間は、かろうじて通れるといった感じ。
そこを通りベッドの後ろを覗いてみると、木の扉の向こうに防空壕があった。
扉の向こうには入ることはできない。
写真を撮ろうとカメラを向けると、
「写真はダメダメ」
お礼を言って防空壕を出ると、向こうから一人の男性観光客が。
親父はその男性にも「見ていきなよ」と声をかけている。
驚いたのは防空壕の様子よりも、その涼しさ。
扇風機ひとつで、まるでクーラーがんがんにかけているかのような涼しさ。
一方、シートの外は37度の酷暑。

戦時、日本空軍は頻繁に重慶上空にやってきた。
1940年秋、この紅岩嘴の先ほどの建物まえにも、爆弾が落ちた。
そしてこの防空壕が掘られた。
ある時は空襲がとても長引いた。
そんなときには、周恩来などの指導者は、この防空壕の中で革命について、あるいは現状について党員に語り聞かせたのだという。
また、暑さが厳しい時には、彼らはここに来て本を読んだり仕事をしたり、また友人や新聞記者と接見した。

この山のもっと上にはまた別の史跡があるようだったが、私は気力をすっかり失っていた。
汗で服がぐしゃぐしゃ。今すぐシャワーを浴びたい。
散策をあきらめ、出口に向かうことにした。

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こちらは途中にあった、「国民参政会大楼」。
観光客には公開されていないよう。

国民参政会は、抗日期に国民党が武漢に設立した、抗日を志すあらゆる党派有志の代表を集めた最高民主機関だ。
毛沢東などの共産党員も、参政会員として“選別”された。
ここ紅岩嘴に南方局が移ってからは、重慶城内の参政会員は、防空のために、または避暑のためにここを訪れ活用するようになった。
この建物は、表向きは参政会員の施設だったが、実際のところ内部には国民党の特務機関があった。
そして南方局の無線などの傍受を図っていた。ただ、彼らには一切解読できなかっただけである。
1945年になり国民党が南京にふたたび首都機能を戻したのち、この参政会の建物は饒国模の手に戻った。
彼女はこの建物を教育のために活用した。-説明文より

これまでにも時々感じていたが、表向き淡々とした観光説明にも、ところどころ国民党に対する、ちくりとしたものを感じる。
例えば、「国民党に許可されて設立」などなど。

紅岩村のもと来た入場口まで戻ってきて、通りがかったタクシーに乗った。
次に向かったのは、渝州半島西部にある「周公館」。
運転手さんにそう伝えると、「中山四路の?」
到着すると、そこには「中山四路」という看板があった。
これで通じるらしい。

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周公館は、かつて中共中央南方局の重慶市区における事務所があった場所。
南方局書記を務めた周恩来の名からそう呼ばれた。
入り口正面に建つのは周恩来の像だ。

周公館の左右は国民党関連の建物だった。
ここは戦時中国民党政府機関の建物があつまっていたエリアで、現在は市政府などが置かれる行政区となっている。

ここもまた愛国教育施設なので無料。
そのまま入っていく。

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入り口入ってまず目についたのは、壁にかけられた電話。

1941年1月に発生した共産党と国民党の軍事衝突、皖南事変。
国民党軍は共産党・新四軍の命令拒否に対し武力包囲、そののち武力衝突へ。
国民党側は新四軍の反乱だと主張し、共産党側は国民党のクーデターと主張し反発。
新四軍の認識番号は抹消され軍事裁判にかけられた。
それに対し、周恩来はこの電話で国民党軍・何応欽に対し、
「中華民族にとって永久の罪人!」 と怒鳴ったのだという。

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入り口を抜けると、中庭が吹き抜けになっている。
長方形に切り取られた青空から陽の光が差し込んで、明るい。
そしてこの中庭を部屋が囲んでいる。

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左奥手にあるのが、周恩来と妻・鄧穎超が生活した部屋。
重慶が大空襲に襲われた時、この部屋は破壊され二人は別の部屋に移ったが、修復後またここに戻った。
厳しい時代、いつ命を落とすかわからない。
身も心も張り詰めた毎日だったとは思うが、それでもここでの夫婦の生活は豊かだったかもしれない、と想像した。
そんな想像をしたのは、嘉陵江に面した明るい窓の光のせいだったかもしれない。

この周恩来夫妻の部屋は、長方形の中庭の左手にあった。
部屋を入り口から見て中庭に戻ると、その側面の壁の下に地下に続く小さな階段があることに気づいた。

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共産党工作員は、重要な機密資料を筒状に丸めてこの内部に隠したのだそう。
さらに工作員が秘密裏に出入りする秘密通路だったとか。
この地下階段かなり荒れていて、その先は板で塞がれているのかなんなのかもよくわからない状況だったけれど、きっとその先があるということだと思う。

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これはある部屋から見た嘉陵江の風景。
もしこれが平安の時代であったならば、なんて居心地のよい部屋だろうか。
常に命の危険に晒されていた当時であっても、もしかしたらこの緩やかな河の流れと深い緑は、住人に癒しと希望を与えたかもしれない。
それとも戦乱のとき、そんなやすらぎの景観なんてなかったか。
当時ここに暮らし働いた党員は、いったいどんな気持ちでこの窓の外の風景を眺めただろう。

このロ型の建物の二階に上がってみた。

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てっきり二階もロ型の構造になっているかと思いきや、意外にも不規則な形に通路はのびている。
伸びているというより、不自然な形をした形状の先に通路とは思えない隙間があり、そこを通過することができた。

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これは先ほどの隙間を通り抜けた先の空間。
いびつな三角をしている。

この空間、通年基本的には封鎖されていたのだという。
というのは、二階部分には南方局が使用していた部屋と、国民党関連の人物が使用していた部屋とあるようで、それらを区別するために封鎖されていたのだと。
説明文にはそう書かれていたがちょっと記憶があいまいで、はっきりしない。
二階においてどのエリアが共産党側でどのエリアが国民党側だったのか。
この三角エリアが共産党側だったか。
おそらく私はそのすべてを見ていなかったかもしれない。
とにかく、国共が同じ空間にあったというのがすごい。

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三階に登ると、部屋はすべて南方局のもの。
これは女性党員の部屋。

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葉剣英が使用していた、事務室兼寝室。
葉剣英といえば、2月鳳凰旅行で広州に立ち寄った際に、彼が密談を行った史跡、というのに出くわしたのを思い出した。

三階の部屋は4つほどだったかと記憶している。
天井が屋根の形に傾き屋根裏部屋のような雰囲気があったが、うまく設計されているなと感じた。

周公館、その番地は曽家岩50号。
ここもまた、コードネームを持っている。
紅岩村13号、曽家岩50号。

周公館を出て、すぐ先にある人民広場を目指して東へ向かった。
少し西へ戻れば、毛沢東が会見を行ったりした「桂園」があるが、タクシーに乗ってここまで来るとき通り過ぎて、ちょっと歩くのはしんどいなと思った。

次に向かうのは、「人民大礼堂」。
地図を見ながら歩いていると、女性二人が「どこに行きたいの?」と声をかけてくれた。
行先を告げると、この階段を降りて曲がってすぐだよ、と教えてくれた。

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重慶観光は階段に坂道が多いこと。
運動になるからそんなのも本来はいいはずなんだけど、蒸し暑いのがきつい。

彼女たちの教えてくれた通り、この階段を降りると目の前には緑豊かな巨大な広場があった。
右手にカーブを描く先には、これもまた巨大な博物館、三峡博物館だ。
目の前の木々の先には、目的の人民大礼堂の華麗な屋根が見えたが、まずはお昼を食べたい。
昨日のお昼は、毛血旺を食べた。
そうしたらQ先生が、「重慶の小麺はおいしいよ~食べないと」という。
私は中国の麺が大好きだ。
重慶小麺はすでにあちこちで目にしており、今日のお昼はこれ以外なかった。
夜は火鍋だ。

商店の並びに「重慶小麺」の店名を見た。
小さな小さな食堂だ。
ネーミングがシンプルでよい。
店先で麺を器に次々と盛っていく、店主。
「一口に小麺といってもいろいろあるなぁ、どうしよう」 と悩んでいると、
「牛肉にする?でもおすすめはこれだ!おいしいよ!」
とても元気のいい店主だ。
「小麺、小麺、おいしいよ~!」
威勢よく道行く人に呼び込みをする。
彼が勧めてきたのは、「豌雑」だった。
発音を聞いても何かわからなかったが、重慶ではこれをあちこちで見たのでそれとわかった。

店内は狭く、四つほどのテーブルは埋まっていた。
「外で待ってな!」
店主が指す先には、お店の外の木陰に用意されたテーブル。
外で食べるのも楽しい。暑いけど。

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やってきた豌雑麺。
細いストレート麺に辛味のスープ。
その上にはえんどう豆と菜っ葉と挽肉がのっかっている。
辛いけれど、間違いのない美味しさだった。
酷暑の中、お日様の下で辛い麺を食べる。
でもだから辛いのが美味しいのかもしれない。

12元だった。
「大漢の名前のお金、持ってるか~?」
店主は大声で威勢よく言う。
ほんとに元気いいなぁ。

至福のひとときを終えてみると、顔中汗まみれ。
朝から果物だけで水分を摂ってきたけれど、ちょっと水分足りてない感じだ。

昨日、朝天門の道端で果物を買った。
アメリカンチェリーに枇杷にスモモに。
地面に広げられている果物に、おじさんの勧めるままにビニール袋に放り込んでいったら、なんと5㎏にもなってしまった。
日本の検疫は新鮮な果物の持ち込みを禁じている。
禁じていなくても果物は傷みやすいから持ち帰るのは難しい。
この5㎏の果物たちを食べきってしまおうと、昨夜から奮闘していた。
枇杷もチェリーもたいそう立派で、おいしかった。
紅岩村でも周公館でもこれを食べながら移動していたけれど、摂る水分より出てく水分の方が遥かに多い。

小麺のお店からちょっと行ったところにある商店に入り、ビールとミネラルウォーターを買った。
「冷たいのがいい?」 と訊かれても、
「常温ので」 といつもは答えるところだったが、今回ばかりは「冷たいの!」

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山城ビール。
山城は重慶の別名だ。
ミネラルウォーターは失敗してしまい、味がついているものだった。

木陰に腰かけてビールをがぶがぶ飲んでいると、度数の低いビールでも心地よくなった。
すると、先ほどの小麺の店主が気づけばそこにいて、
「なぁ、日本人だよな!」 と元気よく言う。
先ほど小麺を食べたときに日本人であることは伝え済みだ。
なんで今それを言うんだ?
「彼女が君は日本人じゃないって言うんだ!」
そう言って、店主は商店の店番の女性を指した。
私が日本人とか日本人じゃないとかなんでそんな話になってるんだ?
女性は笑っている。
「なぁ、日本人だよな?そうだよな?」
「違うよね?」 女性は言う。
「日本人、だよ」
意味がわからずそう答えると、二人は爆笑した。
「ほら、くれよ~!」 そう言って小麺の店主はお店に並ぶ白酒の小瓶をとりあげて彼女に迫った。
彼女は苦笑している。
「おかげでこれもらっちゃったよ~!」
店主は私に「ラッキー」とでも言うように白酒の小瓶を見せて、元気よく自分のお店に戻っていった。


次の目的は、「人民大礼堂」。
広場の正面にまわると、でんとそれは建っていた。

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大迫力の門の向こう。

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人民大礼堂は、全国人民代表大会など、大小の会議に使用されている。
その広さ66000㎡、高さ65m、中央の大ホールは収容人数4200人という規模だ。

明清代の宮殿建築様式を採用し、北京の天壇祈念殿を現代の建築技術を用いて建築したもの。
たしかに、天壇を思い起こす豪奢さと記憶に残る特徴的な円形。
このデザインには、国泰民安の願いが込められている。
かつての皇帝が、天壇で天に祈りを捧げたように。

円柱には天安門を、南北の翼には紫禁城四隅の角楼がイメージされている。
ということは、もうこの国家を代表するものを詰め込んで、かなりの力を入れてデザインされたということだ。
ちょっと詰め込み過ぎじゃないのとも思うけれど、直線とカーブと鋭角と円、それらがバランスよく収まっているのは素晴らしい。

ここは料金がかかり、10元。

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これが舞台。
公的な会議がここで行われるとき、ここにはずらりと共産党員が並ぶのだろう。
見上げれば球体を形作る天井はとても高く、くらくらしそう。

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観客席もカーブを描いて配置されている。
観光客は三階四階まで登って見学することができる。
でもみんな、見学したいというよりはここで休みたいだけみたい。
椅子がたくさんあって、心地よくて、休憩にちょうどいい。

それでも登ってみる価値はやっぱりあって、各階の廊下にはいろんな展示がしてあった。
中国ではよくあるパターンで、二階の廊下はたしか「世界の広場」みたいなテーマで世界のそういったものの写真が展示されていたが、正直世界の何々よりも今いるこの建物について学びたいものだ。
と思ったら、三階の廊下にはこの人民大礼堂の建設当時の写真がいろいろと展示してあり、興味深かった。

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1951年に建設が開始され、1954年に完成した。
当時のことだから考えてみたら当然のこととはいえ、こんな人力でこんなに立派な建物を完成させたんだ、と感動よりも怖くなった。
たいへんな肉体労働だったはず。
肩に天秤棒を載せて、運んでいく労働者たちが写る。

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1953年5月26日、屋根の工程が完了した記念のよう。
これもまた当たり前のことだが、人工物がある以上、それを造り上げた人がいるということだ。
気の遠くなる作業をやり遂げたのは、この写真に写る人々である。
前列に写る男性はみな屈強な体格をしている。

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彼らが体を張って造り上げたこの大礼堂は、現在も少しの隙もなく、どうどうとそこに建っている。
重慶、そして中国を代表する現代建築だ。
そこにはすでに、汗を流した一人ひとりの名前はない。
いったい何人の人間が携わったのかも今でははっきりしない。
これは、彼らが建てたものではなく、ー“重慶”がそして“中国”が建てたものーだからだ。
けれども、彼らが体を張ったこの場所で、この国がこの都市が動かされることがある。
中国全土から国外から、毎日多くの観光客が訪れる。
すでに名もなき功労者となった彼らは、重慶、そして中国という名前を与えられた、ただそういうことなのかもしれない。


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まゆ

Author:まゆ
中国が大好き。お酒も大好き。
中国へ行く度に、スケールの大きさに圧倒されます。各地を旅行し街歩きし、体感したことを綴っていきます。

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